「探究とキャリア」についての長い思索の旅路

「探究とキャリア」についての長い思索の旅路 – ①プロジェクトという生き方、探究というキャリア : 私の「誇らしい過去」から

先日、とある基礎自治体の教育委員会から、Teach For Japanの7期フェローの肩書きで、キャリア教育について講演の機会をいただいた。たかだか3年しか、しかも担任を持たない臨時的任用講師の任に就いていただけの私が、恐れ多くもその自治体が設置する義務教育の学校、そしてその自治体に在する高校の、キャリア・進路に関係する先生たちの前で話すというのはなんとも恐縮だった。

だが、そのお誘いをしていただいた方とは10年以上にわたってのご縁があり、そして私の3年間の実践と、その発信を見守ってくれていた。だからこそ、実践とその背景にある思索をもって、私をスピーカーに推挙してくださったと思っている。迎えた当日、ギリギリまで完成をみなかったスライドとともに、90分間を爆速で話してしまったため、きっと聞いていた先生方にとっては、未消化な「?」だけが大いに残ってしまったのではないかと反省している。それでも、今回機会をいただいたことで、少なくとも私は、たかだか3年間しかなかった現場経験のなかでも、好き勝手やらせてもらったさまざまな「再現不可能」ともいうべき実践たちと、その根底にある考え方を、つなげて整理できた感覚があった。

とてももったいない気がするので、その時の資料をもとに、あらためて気が向くままに文字に起こしておきたい。と思ったら案の定とてつもない文字数になったので、分割しておいた。

目次


長い思索の旅路の入り口として、私のこれまでのことを語っておきたい。長い長い自己紹介だと思って読み流してもらえればいい。けれど、この思索の旅路の裏側には、これまでの私の経験が息づいている。

Teach For Japan時代には、英語の教科担当として3年間を福岡県飯塚市で過ごした。炭鉱閉山以後の社会福祉的な面におけるさまざまな課題を抱えつつ、「教育先進地域」と自らを銘打つことで地域をより良くしようとしてきた自治体。どうでもいいが、飯塚市のふるさと納税の冷凍ハンバーグはおすすめだ。

そう、あくまでも私は「英語」の講師として任を得ていた。大学時代には教育への関心の高さから地元・茨城の英会話コンテスト「英語インタラクティブフォーラム」の研究を進める一方、通っていた慶應SFCではキャンパス内課程だけでは社会科の免許しか取れないので、学部時代に社会科の免許の要件を満たし、大学院に進学して研究を進めつつも他学部履修で英語の免許を取得するということをやってのけるほどには、教科教育への関心は高かった。しかし実のところ、現場時代の教科の実践は、その実あまりうまくいっていなかった。生徒たちの実態に合わせた「わかった」を引き出す実践を、そして「できた」につながる学習活動を取り組めなかった実力不足は、未だに悔やまれる。

一方で私は、プロジェクト学習・探究学習の走りともいえる、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)にAOで入学し、つまり学力ではなく「何を学びたいか」という意欲と、探究的な学びに向かう力を示せるような高校時代の実績(英文エッセーやら英語スピーチやら)で合格を掴み、その後にはさまざまなプロジェクトに首を突っ込みつつ、授業もそれなりにガチ勢として取り組んだ過去がある。そしてその後、教職ではなく民間企業、しかも調査会社に勤め、データ分析と人事という職務を経験した経歴がある。

思い返せば大学時代は、学部4年間の授業履修単位は195(卒業要件は124)、大学院は卒業要件が30単位程度だったところ70単位を取得した。そんなことをしながら、研究対象の「英語インタラクティブフォーラム」が地元茨城をフィールドとしていたので、古河という街にある実家から藤沢まで片道3時間で通学。そのくせ、吹奏楽サークル・藤沢の地域活性活動サークル・ドイツ語の授業補助・いくつかの教育系のプロジェクトを動かしていた。大学院生になる直前に発生した東日本大震災以後は、prayforjapan.jp、プロジェクト結、そしてアカデミー・キャンプと、さまざまな活動に取り組んだ。どれも過去の栄光として誇らしく思っており、一方でそれらは狂気とも言えた。結果的に、大学院修了時に、社会科学系領域の修士論文の首席相当に選ばれたのは、一生かけて擦り続けるプライドの源みたいなものだ。

教員免許を取得し、教育に対する思いを巡らせつつ、ごく個人的なプライドとの葛藤の末に民間就職を選んだのだが、そこで出会った調査会社では、消費者購買データの分析を、しんどいながらにも面白がって取り組み、プログラミングの入り口にも手を染めた。その後に移動した人事では、教育系の学びを活かすかの如く、新卒社員導入研修や一般社員向けスキル開発研修の企画・運営に取り組んだ。この人事の経験に、教員養成課程の学びが生きたことは、仕事のやりがいを増幅させた感があった。さらには、新卒同期たちとチームを組み、CSRプロジェクトの立ち上げにも取り組んだが、この経験の背景には、大学時代に関わった地域活性・教育・震災復興支援といったNPOやプロジェクトの活動が活きている。

そうしてTeach For Japanのフェローとして現場に赴任した私は、これらの過去があるが故に、自然と「プロジェクト学習」「探究学習」「キャリア学習」といったところに活路を見出していき、そして現に、外部との連携を図りながら進めた総合的な学習の時間・キャリア教育の実践や、生徒会執行部の顧問教員としての実践に積極的に取り組んでいった。「学校と社会をなめらかにする」という当時のミッションステートメントは、必然だったとも思う。

その後、人生初のキャリア挫折などなんやかんやあった結果、現在は外資系ITメーカーで障害者雇用担当に転生して3年半が経ってしまった。実はここ1年くらいずっと文章を起こしたいと思いつつできないままでいるのだが、まったく取り組んだことがないはずの「障害者雇用」という領域についても、日々起こる様々なケースへの対応や制度と実務の間で理想と現実を両立させることへの思索などを通じて、日々探究的な営みができていると感じていて、「探究的な営みとしての障害者雇用」という記事を書く構想を持っている。

と、ここまで振り返ると、私の半生は「プロジェクトという生き方」と言えると思う。そして少なくとも20代以降は「問いを持つことでキャリアを前に進めてきた」という実感がある。お恥ずかしながら私は「絶対にこれを成し遂げたい」という明確な強い目標もそんなにないし、そうした目標をベースに逆算思考で物事に取り組む強さもなければ得意さもなく、自分自身を主語にして理想を叶えようとするとだいたい「うまくいかなかった」と自己認知するきらいがある。その分、自分を主語にするのではなく、目の前の取り組んでいる対象を主語にして、それに対する好奇心や探究心、はたまた理想の社会のありよう=ビジョンをもとに取り組む方が物事を形にしてきやすかった。

  • どうしたらコミュニケーションを普遍的に学べるだろう
  • どうしたら自分を社会に役立たせることができるだろう
  • どうしたら自社で働く人のキャリア発達を加速させられるだろう
  • どうしたら学校と社会をなめらかにできるだろう
  • どうしたら互いの「ままならなさ」を慮りあえる社会にしていけるだろう

こんな、正解なんてないような問いに基づいて、日々の「しごと」を取り組んでいくことで自己効力感や自己実現の実感を積み重ねてきた。そしてこれ他の問いは、自分が生きてきた過去の経験、そこから形成された見方・考え方に基づいている。なにより、そのプロセスの中で、何かを発見したり知れたりできたこと、発想が刺激され「あーなるほど」という感覚を得たこと、新たな出会いを得られたこと、「これはぜったいおもろいがな」というアイディアが浮かんだり実際に実行できたりしたこと。おそらく側から見れば「大真面目でつまらない」と言われてもおかしくないような事柄は、私にとっては「とてもおもしろい」ものだった。

もちろん、プライドが故の「こうなれたらいいな」「こういう地位・名声が得られたらいいな」という感覚はまだ自分の中に蔓延っていて、真の意味で「この生き方の今の自分でいい」と思えているかというと嘘になる。それでも、「わたしとはちがうあなたと、いっしょにうまいことやって、誰かに役立つことをする」を自分のバリューステートメントとして置いているだけあって、日々の「しごと」において自分を社会に役立たせている実感は強い。

だから思う。

キャリアとは、自分と社会への探究の営みだ

と。


だが、それは個人的な実感であって、「ほんとうにそうだ」と社会の合意を得られるのだろうか。そんなところから、「探究」と「キャリア」について、いろいろ整理してみたので、次はそれぞれ、その話題に移りたい。

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