先日、とある基礎自治体の教育委員会から、Teach For Japanの7期フェローの肩書きで、キャリア教育について講演の機会をいただいた。今回機会をいただいたことで、少なくとも私は、たかだか3年間しかなかった現場経験のなかでも、好き勝手やらせてもらったさまざまな「再現不可能」ともいうべき実践たちと、その根底にある考え方を、つなげて整理できた感覚があった。とてももったいない気がするので、その時の資料をもとに、あらためて気が向くままに文字に起こしたら案の定とてつもない文字数になったので、分割しておいた。
前の章では、探偵ナイトスクープの動画に端を発して、「探究」についての見方・考え方を深めた。動画からまとめた5つの要諦(好き・肯定・仮説・専門知・伴奏者:詳しくは前章を見てね)は、私のキャリアの中でも欠かせない外部活動であるNPO青春基地のフィロソフィーがあるからこそまとめられたものだし、2030年の学習指導要領改定につながる議論にも見られた。さらにはMIMIGURIの安斎さんの論考からも、そして現状の「総合学習」や「総合探究」に理念づけられている考え方からも、「問いと関心を持ち、学びを前に動かし、だれかと共に進む、そんな自分を知る営みとしての探究」ということが言えることを考えてきた。つまり探究とはキャリア。では一方で私は、「キャリア」という言葉をどう見通しているのか。それを書き出していきたいと思う。
「キャリア」という言葉を聞くと私がいつも思い浮かべるのは、アントニオ猪木さんがリング上で語る「道」という詩。ちなみにこの詩はアントニオ猪木さんのものではないのだが、それを調べた福井県立図書館としても、完全解決は図られていないものの、清沢哲夫氏の詩の改変らしいということが見えてきているようだ。すごいぞ、図書館のリファレンス力。
この道を行けばどうなるものか。
危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、
またその一足が道となる。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。
もともとは「荷馬車の轍」を語源とする「キャリア」という言葉を思うと、この詩がいかに「生きる」を思索するうえで合致度が高いことか。しかしながら「キャリア」という言葉そのものは、「仕事」や「人生」といった文脈の中においては明確に定義されているわけでもないので、なんとなくそれぞれがイメージを持っているに留まると思う。そうだからこそ余計に、この「道」の詩は、味わい深い。
あまりキャリア理論には明るくないのだが(それこそそろそろキャリアコンサルタントの資格の勉強でもした方がいいんじゃないかと思っている)、唯一「信奉」すらしている理論がある。それが、クランボルツ博士の「計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)だ。まだちゃんと原典に当たったことはないのだが、ざっというとこんな研究だと理解している。社会的に成功を収めていると思われているビジネスパーソンにアンケートを取ったら、8割くらいの人々が「こんなことになると思ってなかった」と答えた。つまり、自分のキャリアは偶発性によるものである、と。しかし彼らの言っていることを分析すると、大切にされていた価値観や行動の要素が類型化された、と。それが以下の5つ。
ここから、キャリアは狙ってつくるものではないが、日々の「いまここ」における取り組み方・捉え方の要素が、その後のキャリアに繋がってくるのだ、ということを読み取ることもできる。なぜ私がこれを「信奉」するかといえば、まさしく最初の章で私が触れてきたこれまでの半生が、まさしくこれに当てはまるからだ、と。個人的にはそんなにRisk Takingしている感じはないのだが、好奇心と柔軟性については当てはまりを感じるし、楽観性についてはむしろ「何も考えていない」という意味では当てはまっていたのかもしれない。偶然目の前にやってくる「これ、おもろいやん」に飛びつく習性が、「いまここ」を楽しむことを自分自身に赦す、あるいは、「いまここ」に対する充実感を生んだのかもしれない。
さて、私は2006年の秋口に慶應SFCにAO入試に合格したのだが、この試験に向けて自分の「やりたい」を考えたり整理したりする作業はとても苦しかった。だが、その渦中だったか終わった後だったかに、高校の先生に示してもらった一冊の本がいまだに忘れられない。それが、ベネッセ・進研ゼミの小論文講座の編集長を務めた経歴を持つ山田ズーニーさんの著書『考えるシート』だ。
本というよりワークシートを集めたみたいな本だったが、お詫びが書けるシートや議事録が書けるシートなど、さまざまな「コミュニケーション」に向けた情報整理の考え方を示している。その中で「自分を社会にデビューさせるためのシート」みたいなものがあって、つまりそれは志望理由や自己PRのためのシートなのだが、そこにこんなイメージ図が載っていた(実際のものではなく、私が解釈して改変したもの)。
この図解もまた、私の「キャリア」を考える上での強烈なイメージになっている。つまり、過去の自分はこんな人間で、将来の自分はこうなりたくて、自分が関わる社会はこうなっていて、その交点にある自分はこれをする、という構図。このイメージは、高校生の時に出会って以降、その後人事をやる際にも、そして現場でキャリア教育をする際にも揺るがないイメージになった。
だが実はのちに、このイメージの捉え方については修正がかかった。人事として新卒採用の駆け出しの頃、このイメージにのっとって、候補者の過去の経験を深掘りし、その中にある原体験のなかから本人の特性を見出し、将来との結節点を見出すようなことをしていた。そのため、価値観形成や行動特性につながる「原体験」は、おおよそ高校生までには構築される、と思っていた節があった。しかしそれは後々、2つの方向性で変化をする。
今、上の文を書き出しているところでふと思い出したのが、私の大好きな曲、スガシカオさんが率いるバンドkokuaの”Progress”の歌詞だ。プロフェッショナル・仕事の流儀の主題歌で有名だが、そのサビには1番と2番でそれぞれ以下のような歌詞が登場する(表記は正しくないかもしれません)。
僕が歩いてきた日々と道のりをほんとは「ジブン」っていうらしい
誰も知らない世界へ向かっていく勇気を「ミライ」っていうらしい
これもまた、キャリアの本質を表す味わい深い歌詞だと思っているし、しかもその後に続くのが共通して「あと一歩だけ前に進もう」なのが本当に好きなのだけれど、あと一歩だけ前に進むための「チカラ」になるような、過去に根差した「自信」も未来に向かう「勇気」も、どちらも<今の時点から>過去と未来をどう見通すかという、実態・ファクトではなく認識・パースペクティブの話なのだ。そうすると「キャリア」の本質は実のところ、過去の解釈や未来の予測に基づく「いまここ」の選択の自己決定であり、あるいはこれまでの・これからの選択が「よいものであった」とするための辻褄合わせ、とも言えると思う。
そう考えると、この「選択の自己決定」をできるようにするためには、よりよい「選択」のために、「未来に広がる選択肢」を見通すことと、その選択を行う「自己」について、「過去から重ねた私らしいあり方」を捉えておくことの2つの側面が必要になると思う。言い換えれば、キャリアを考える上では、「未来からの逆算」だけで計画を引くのではなく、「過去からの積算」で物語を捉えることも同時に必要なのだと思う。ちなみに「キャリア教育」に文脈を移すと、多くの場合「未来からの逆算」だけでその営みが設計されていることが多いように感じる(実態は違うが気づかれにくいというところがあるのでそれは後述する)
さらに言えばこの「未来からの逆算」については、人事の仕事をしたり、今104人が暮らす「ソーシャルアパートメント」に住まう中で同居人たちのキャリアの悩みを聞いたりするなかで、感じてきていることがある。Will / Can / Must のモデル、というのがあり、自分の意思・自分ができること・組織の要求、それらの交点にある仕事の、その交わりの幅が大きければ大きいほど、やりがいを持って働けるとされているモデル。リクルートがこのフレームワークを使って目標管理を回しているとして有名だ。私は1社目の時、このMustをChallengeと置き換えて運用していたのを横目に見ていたのでChallengeで捉えている。
で、この3つの要素のうち、CanとChallengeは過去から今に通じるもので、Willの土台となるものだと思う。そしてWillはもちろん未来に通じるものなわけだが、このWillばかりが着目され、「あなたの夢は?」とか「君は何したいの?」とかを聞かれまくることで、逆に苦しくなるということが起きているような気がしてならない。これだけ未来を見通すことが難しい現代において、叶わないことへの憧れを適切に調整できずに苦しんだり、あるいは選択肢が多様すぎて選べないのに選ぶことを強要される感じがあったり、といって、さながら「Willの暴力」とすら言えそうなことが起きている。もっとも私も、自分を主語にした理想や意志を追い求めると、たいがいうまくいかないことが多いもんで、よりそう思う感じがあるのだ。
それよりもよっぽど、積み重ねた自信を土台にして、関心を寄せることがらに取り組んでいく方が健やかなのでは、とここ3年ほど考えるようになった。「Canの解放」と私は呼んでいるが、この観点が抜けたまま、意思・意志を問われるのはさすがにしんどい。この「Canの解放」は、いいかえれば自分の「いまここ」の「よりよいあり方」を志向するという意味で、「ウェルビーイング(well-being)」の概念にも合致すると思っている。そこで、日本のウェルビーイング研究の第一人者である前野先生の論考を読むと、氏が述べている「4つの因子」を大事にすることは、まさしく「Canの解放」につながり、そしてクランボルツ博士の計画された偶発性理論にもつながるのではないだろうか。
言い換えれば、
だれかといっしょに
なにかをすることで
気づいた(築いた)自分を
より良い明日につなげる
というのが、ウェルビーイングな人生のありようだ、ということ。これはまさしく、前の章で見た「総合学習」と「総合探究」で共通する、課題解決の学びを通じた自己の生き方を考えるプロセスであり、また安斎さんの論考における図解にも合致する。ここで、ウェルビーイングなキャリアと、探究的な営みとがリンクするわけだ。
ところでこの文章は、キャリア【教育】を考える文章だ。そうすると「キャリア教育」を考える上では、当然そのことを解説したものにあたる必要がある。現行指導要領の前の指導要領の段階で文科省が示している「キャリア教育の手引き」には以下のような図が示してあり、そこでは「社会的自律・職業的自立に向けて必要な意欲・態度や能力の育成」を、各学齢期の段階でスパイラル的に取り組んでいくことが示されている。そして小中高の各段階において、自己理解や自己有用感・自己受容や他者への関心の形成といったことが書かれている。のみならず、私がこの章で述べてきた「未来の逆算と過去の積算」という考え方も読み取ることができる。
そして、教育関係者にはお馴染みの「基礎的・汎用的能力」という言葉が登場する。キャリア教育の考え方に基づいて、特別活動を中心に、各教科・総合学習/探究・学校行事を通じて養われるべきとされる4つの能力。それが、
だ。そしてこの4つは、もののみごとに
だれかといっしょに………①
なにかをすることで………③
気づいた(築いた)自分を…②
より良い明日につなげる…④
に対応する(順番は入れ替わっているけれど)。
そう考えると、キャリア教育というのは、これまでの自分と、これからの未来の選択肢と、自分が関わる社会で起きていることを探究し、その上で目の前の一歩として何を選ぶかを探求する、という、全方位的な営みになる。ただこの不確実性が高く未来の見通しなんてすぐにひっくり返りうる時代においては、せっかく頑張って探究した「何をするか」すらすぐにひっくり返りやすい。そうなれば、計画された偶発性理論よろしく、まったく予想していなかったところに辿り着いたとしても、自分の在り方に根ざしてよりよく生きていくことができる「自分らしさ」を探求するほうが理にかなっている。
つまり、doing(何をするか)よりもbeing(どう在るかのほうを大切にできる、そんなキャリア教育のほうがいいと私は思うのだ。それがすなわち、「問いと関心を持ち、学びを前に動かし、だれかと共に進む、そんな自分を知る営みとしての探究」なわけだ。
ここまで、私自身の「キャリア」という概念をめぐる捉え方を見ていった上で、それが「探究」との結節点を持っていること、そして「自分のよりよい在り方」を探究していく方がウェルビーイングでいられそうだ、ということを見てきた。それは分かったとして、それを実践にどうつなげるかが知りたい、というのが本音だろう。beingが大事なのはいいが、doingが知りたいというのが現場の常だ。
だからこそ、あえていうならば、その結節点となるのが「コンセプト」だ。次の章では、その「コンセプト」をめぐって、私自身の実践を絡めながら書き進めたい。
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