受け入れるという勇気

少し関係のない話になるでしょうが、書かせてください。

現代文の授業で、中島敦の『山月記』をやりました。
最近、その主人公の李徴と自分を照らし合わせるようになってきました。
本文に載っている李徴の性格がなんか自分に似ているような気がしてくるのです。
だからでしょうか、複数の文章が頭から離れなくなっています。

さて、人間には受け入れたくない事実という物があるはずです。
最愛の人をなくしたときは、その事実を受け入れることができない、いや受け入れたくなくなると思うのです。
事実と理想には大きな差があります。その差が大きければ大きいほど、人は受け入れることを拒みたくなるのではないでしょうか。
事実は嘘をつきません。曲がることはないはずです。まして自分の都合のいいように曲がることはないと思うのです。

山月記に「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。」(山月記より引用)という一節があります。
主人公の李徴はある日突然発狂しそのうちに虎になってしまいます。李徴はその理由など知る訳がありません。
いったいなぜだ?と考えてみても分からない。分からないなら受け入れるしかない。
彼の運命感に非常に共感できました。

事実は自分のいいようには曲がらない。
曲がらないから、事実が自分の理想や夢と反対の方向に向いたとき、とりうる選択肢は一つしかないのです。
受け入れるしかないのです。ではなぜ受け入れられないのだろうか。
僕の経験を持ってすれば、答えはこうなります。

「自分で描いてきた夢や理想はそう簡単には捨てられない」
想い出の品をなかなか捨てられないように、自分が作り出した思い入れのある物はなかなか破り捨てることはできないのです。
想い出はいい物ですが、いつまでもすがりついていてはいけません。
夢・理想を持つことはすばらしいことです。しかしそれが「どうにもならなくなったとき・あきらめるしか方法がない」というときは素直にあきらめるべきなのです。

「あきらめってネガティブなことだろ?enshinoが言う、勇気はもっとポジティブな物じゃないのか?」
書いている途中にそう思えてきました。しかし、あきらめることにも勇気は必要なのではないでしょうか。
夢破れ、現実を見、それを受け入れる。悪く言えば「あきらめた」となります。
しかしこれは新しいスタートになるのではないでしょうか。新しいことを始めることって勇気が必要なんですよね。
でも時に古い物が新たなスタートを阻むときがある。その古い物って、実は自分が作り上げてきた物だったりする。
自分がつくってきた物を手放すのは嫌なことです。しかし要をなさなくなった古い物を捨て新しい物をつくり始めるのも勇気ではないでしょうか。

奥山さんが他界されてから1か月経ちます。
実はまだそれを受け入れることはできません、まだ元気で奥多摩へツーリングしているような気がして。
遺族の方は忙しさが終わり、ようやく「死」を受け入れられる頃だと思います。
仮にもご遺族が、「貴宏の分まで生きたい」と思えるようになったとき。
それが新しいスタート、勇気の誕生でしょう。

また文が乱れてしまって申し訳ありません。
自分自身ちょっとした受け入れがたい事実を抱えてしまいました。そこで思いついた記事だったので。
しかしそれもちょっとしたこと。時間が勇気を少しずつ与えてくれ、何も思わなくなると思います。

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