[説明会終了] 総合学習「えらんだミチをかたる」 キャリアメンター募集

たった一つの正解なんてないこの世の中で生きる中で、
それでも前に進むために自分の納得した解を信じたい。

過去の自分が歩んだ道が、未知の未来へと続いていく。
自分のミチを信じるために、自分に言い聞かせてみる。

同じ学校に勤務し、学年持ち上がりで中学3年生の学年団に所属することになった今年度。2019年度のPepperプログラミング学習、2020年度の農業ビジネス体験学習に続き、今年度は「自己決定を言語化する進路選択学習」に挑戦します。その核となるのが、「人事と中学生の2on1プログラム」です。

現在、この企画にご参加いただく「キャリアメンター」を募集しています。その中心となるターゲットは、事業会社の人事後担当者さま、そして人材業界(人材紹介業や教育研修業など)に勤務されているみなさまです。現在または過去にこれらの経験をお持ちであれば大歓迎です。またこれに限らず、このプログラムに賛同いただける方はぜひお申し込みください。

以下の企画内容をよくお読みいただき、フォームから個別に遠藤までご連絡ください。説明会は終了しましたが、個別に本エントリー方法をご案内します。 続きを読む

卒業生マイゼミ「わたしたちの新入社員研修」

企画書を置いてFBでシェアしたら思いの外ご協力いただけそうなのでサポーター受付フォームをつくりました。端的に言うと、慶應SFCの授業の枠組みのなかで短期間のゼミを持つことになったので、そのご協力を広くお願いしたいと思います。


2017年度春学期 SBC入門 後半「卒業生マイゼミ」企画
「わたしたちの新入社員研修」

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以下は企画書PDFです。ご覧下さい。-> 企画書をダウンロード

ご協力をいただける方は、

ご質問・お問い合わせは、以下リンクからFacebookを通じてご連絡ください。
※フレンドで繋がっていない場合、メッセージをいただいてからお返事までに時間がかかる可能性があります。
https://www.facebook.com/enshino

なお、寄付については、クラウドファンディングでの実施はほぼ無理だと判明したので、ただいま対策を練っております。おそらくは未来創造塾関連の寄付を集める口座に直接ご入金いただくことになると思いますので、そのつもりで居てください。

また、この企画書では私の所属を記載していますが、企画そのものは「遠藤忍」個人として行っており、組織の方針・見解ではないことをご認識ください。それでいうといろんな所から怒られたら企画は吹っ飛びます。

★参考URL

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【『卒業政策』vol.8 】現場に出よう。右手には情熱を、左に知恵を持って。

先日の3月29日の大学院学位授与式を以て、慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生という立場に区切りがつきました。学士(総合政策学)、修士(政策・メディア)および「ヒューマンセキュリティとコミュニケーション」プログラム修了という肩書きを得て、いよいよ社会に出ることになります。こうして書くのも恐縮ですが、学位授与式においては、修士論文および最終試験での成績優秀者に贈られる「加藤賞」(初代総合政策学部長加藤寛氏にちなんで)を頂戴し、また社会言語科学会での発表賞受賞によって「SFC Student Award」を頂戴しました。実は、学部時代には「優秀卒業プロジェクト」を受賞し、また大学院1年次の終わりには鶴田浩之氏と共同で「SFC Student Award」を頂戴しています。

思えば、2時間半かかる距離にありながら、6年間の通学生活をこなし、教職課程を履修して三田・日吉・矢上の各キャンパスを行き来しながら正課の講義を履修してきてきて、なおもさまざまなプロジェクトに首を突っ込んだりSAやTAや学生ガイドとして大学に貢献したり、サークル活動に勤しんだものです。加えて、地元での研究フィールドワークと塾講師のバイトや放課後補習をやっていたわけです。その分、家族や周囲の大切な人々との団らんを犠牲にした部分は大きかったですが、確実に私の肥やしになったことは確かです。「大学生時代に学んだことなど、社会では通用しない、あたまでっかちになるだけだ」と言う人がいます。確かにそうですが、でも私自身は、この大学生活で多くの経験を積み、また実績としてそれを残したことを、自信に変換することで承認欲求を満たすのです。こうした、過去の栄光にすがる行為は、この先も続いていくのだと思います。

そう、こうしてさまざまなことに携わり、そこで学んだ事実はあっても、その学んだことの内容そのものは、社会人生活においては直接的に関わりを持つ訳ではないと思っています。特に私の場合、「総合政策学部」と「政策・メディア研究科」という、学際複合新領域、いわば何でも学べる環境で学んだからこそ、いったい自分は何を学んだのか、そしてその内容が本当に世の中の役に立つのかということを常に考えてきました。SFCで学んだ以上、「総合政策学」や「環境情報学」や「政策・メディア学」という学問が、いったいなんなのかを考えることからは一生かかっても逃れられないと思うのです。特に修士課程においては、学会に出席したり、三田キャンパスの授業を受けたり、研究プロジェクトに参加する中で、「はて、私の専門はいったい何だったんだろう」と考えてしまうわけです。

一つ前の『卒業政策』では、私の学問領域を「外国語教育学」と標榜しました。しかし、それですら私自身はしっくりきていません。そもそも、私自身は職業研究者になれるかどうかという点において、研究の基礎体力がまだまだ足りていないと思うところが強く、したがって修士課程の4年間は、私にとっては何かの学問的専門領域をつきつめたという感覚がないのです。文献をたくさん読んだり、適切な方法論や理論に基づいた研究デザインをしたり、適切なタームを用いたり、そういったことは修士論文執筆過程であっても不十分だったと今でも悔やんでいます。「学際」といえば聞こえはいいようですが、さまざまな学問領域の知見をつなぎあわせるに過ぎない場合も多く(私の論文がそうなのですが)、一つの領域を根本的に攻め込んだ従来の学問領域の研究者の強さには太刀打ちできないと考えています。

では、SFCで身につけたであろう「専門性」とは何なのか。私が今思う、「政策・メディア研究科」の専門性とは、もちろんそれは「総合政策学」や「環境情報学」の専門性でもあるのですが、それは「実践への連結」だと思います。多くの先人たちが積み重ねてきた学問の知見に敬意を示しながら、その知見をつなぎあわせたり統合したりしながら、実践活動に落とし込んでいくという部分において、SFCの学生や研究者は高い能力を持っているのだと思います。知見を実践につなげていくのはもちろん、すでに行っている実践を学問知見によって説明することを試みる点にもSFCの強みがあると思うのです。大学院進学を控えた2011年の3月の大半を費やした、あのprayforjapan.jp多言語翻訳プロジェクトは、言語政策学の知見に基づいた実践であり、その現象を研究に落とし込んだということの成果でした。また、アカデミーキャンプで行った実践「デジタルオリエンテーリング」は、ソーシャルメディアの利用の経験を実践につなげ、そして学問的なことばで説明を試みるに至ったものでした。私は、この「学問知見と実践をつなぐ」という分野においては、能力を蓄えたと思っています。

ところで、「自分のやりたいこと」に向き合う機会が多いのがSFCという環境なのですが、ある後輩が自分自身の研究テーマ、つまり「自分のやりたいこと」に悩んでいました。そのときに私は、「「何を」学ぶかではなく、何を用いて「どう」考えるかがポイントになると思いますよ」ということばをかけたことがあります。誰が言っていたかは忘れましたが、大学という場所は「考える」場所であると捉えられるそうです。もちろん、特定のトピックやコンテンツを学ぶというふれこみで大学が構成されている訳ですが、しかしそうしたトピックやコンテンツは、「考える」という営みのツールであると考えることもできます。その一方で、たくさんのことを「やりたい!」という熱意で行動に起こし、しかしそれらの行動を串刺しにするような言葉を持てない学生もいることも確かです。

「研究」とは、客観性のある事実や証拠や結果を、整理して構造化して示すことだと思っています。再現性や客観性が求められるのですが、しかし「研究」とは、決して全て客観的になれるものではないと思います。なぜなら、個々の研究者がその分野を選択するうえでは、その研究者個々の「これをやりたい、知りたい、訴えたい!」という主観的な情熱や動機が存在するからです。だからこそ、「研究プロジェクト」を中心に据えるSFCにおいては、情熱や想いや動機に支えられた「やりたいこと」を手にすることが求められるのです。SFCにおける「研究」は、文献を読み、調査・実験をし、論文を書き、という流れである必要はありません。自分でプロジェクトを動かしてもいいわけですし、何らかの制作物に落とし込んでもいいのです。だとしてもはやり、情熱や想いや動機に支えられた「やりたいこと」について悩む時が必ず訪れるのだと思います。

じゃ、その「やりたいこと」は、どうやって見つけるのでしょう。

私が3年生だった春学期に、5月まで学部長をしていたある先生は、こうおっしゃいました。「扉は勝手に閉まっていく」と。つまり、年月が進めば、「自分のやりたいこと」に絞りがかかるというのです。でも私は、勝手にしまる扉を待つには4年では短すぎると思います。私は幸せなことに、6年間大学にいることを許されたし、追いかけるテーマが決まっていたからこそ、勝手に閉まっていった扉の先で、共通したテーマである「コミュニケーション」ということばに基づく活動を広げることができました。しかし、全員がそういった期間を持つことはできない。だとすれば、「自分のやりたいこと」に向き合うためには何が必要になるのでしょうか。

それが、タイトルにあげたことば、「現場に出よう。右手には情熱を、左に知恵を持って。」です。

すでに述べた通り、SFCの専門性は、現場での実践活動において真価を発揮すると思います。「研究的実践者」や「実践的研究者」といった人材を育てていくことこそ、福沢諭吉が目指した実学の学塾の在り方だったのだと思っています。それにはまず、実際の現場に出て行き、そこでさまざまなものを見て、聞いて、話して、感じて、動いていくことが必要だと思います。「問題発見・問題解決」というスローガンが現在でも廃れずに残っているというのは、やはり実社会の諸問題を解決へと導く人材を育てていくという理念が連綿と続いているからだと思います。その「問題発見」は、現場で生の情報に触れるからこそできることであり、「問題解決」は、現場に寄り添う形でこそ効果を発揮する政策になるのだと思います。

私自身は、考えてみればいろいろな現場に出ていきました。そういった現場で、課題点になるようなことを自分なりに見いだし、自分自身の理想を持ち出し、それがうまく行かずに悩み、それでも何かの答えを出そうともがいて動いて、だからこそこの『卒業政策』シリーズに載せたようなことを思考した訳です。だからこそ私は、現場に出ることににこだわりたいし、全てではないにせよ、多くのSFC生に、現場に足を踏み入れるということを実践してほしいと思うのです。

そのときに、右手(というか、利き手)には情熱を持っていてほしいと思います。どうしてもこの現場に関わっていきたいと思うモチベーションがなければ、何も得られません。やらされている感覚は、時おり出ることもあるでしょう、とくにプロジェクトの場合などは。それでも自分なりに、関わりを持ちたいと思うモチベーションのポイントを見つけていくことが重要だと思います。私の場合のそれは、「くっだらないと思うほどおもしろい」という好奇心だったり、「何かしたい」という焦燥感だったりした訳です。そうした情熱は推進力となって、「考える」時間を忘れてしまうほどに自分自身を没頭させます。その先に、なにかが見えてくるはずです。

しかし、「右手の情熱」だけでは自分自身で没頭してしまい、「考える」ことを忘れてしまったり、あるいは見えてきたものが何なのかを考えることが難しくなってしまいます。左手(つまり利き手ではない手)で「知恵」をもつことで、行動しているときの自分の想いだったり、悩みだったり、発見だったり、そうしたものを説明するための言葉を手に入れることができるのです。ここで「知識」としなかったのは、いざという時に使うには「知識」のままではすこし難しいと思ったのです。自分の中で解釈を挟み、自分のものとして手に入れた「知恵」だからこそ、自分の中に起きていることを説明しやすくなるのだと思います。でも、その「知恵」は、「知識」をとりいれていくプロセスによって可能になるのだと思います。だからこそ、教養課程の授業だったり、SFCで言えばさまざまな分野の講義やワークショップというものが重要になるのでしょう。

このように考えていけば、SFCという学問環境において、「総合政策学」や「環境情報学」や「政策・メディア学」という学問の名前そのものは重要ではないのかもしれません。というか、現場という環境において適切に情報を得て、解決策としての政策につなげていくという現場実践にこそSFCの真価があるという説明が、現在の私にとって一番しっくり来るものだと思っています。そうした、「現場実践と学問知見の交渉領域」はまだまだ未開拓であり、だからこそSFCの役割というのはこれからも続いていくのだと思うのです。まだまだ、挑戦は続きます。

間もなく日付が変わり、会社員としてビジネスの世界に飛び込むことになります。ビジネスもまた、社会実践の現場です。私が学んできた「知識」や「内容」自体は、次のフィールドには直接は役立たないかもしれません。しかし、これまでの6年間で行ってきたさまざまな活動のなかで得た経験と、その経験のモチベーションになった情熱、そしてそうした活動を進める中で得た知恵は、私自身が困難に打ち当たったとしても、決して消えることはないだろうと思います。私は過去に執着する人間ですから、それをポジティブに捉えれば、そうした過去の経験は私にとっての血肉そのものだと思って自分を奮い立たせることができます。そうした環境への感謝を抱きつつ、そろそろ次の現場に出て行く時間になるようです。

みなさまこれまで、本当にありがとうございました。

【『卒業政策』vol.7 】ことばの教育の、あした

私は、たとえば「理系の大学院でしょ」と間違われたり、「専門はITでしょ」と勘違いされたりすることが多いのですが、主たる研究分野は外国語教育学です。社会言語学、教育政策学、教育心理学あたりを包括する形で研究論文をまとめていました。実はこの研究分野は、SFC入学から6年間ずっと追いかけてきた分野であり、研究会のテーマ選択はもちろん、講義の選択、そして教職課程の履修といった部分に至るまで、SFCの生活の中核に位置していたと言えます。「政治家になりたい」と言っていたAO入試の時からは想像がつかないものでした。

茨城県では、県教育委員会が主催で、英会話コンテスト「英語インタラクティブ・フォーラム」が開催されています。このコンテストの出場者に、どのような変化や学びが起きていたのかを追いかけることが私の研究テーマでした。そもそもの取り組み自体が、教育実践としても、また教育政策としても面白いと思っていました。初対面の中学生たちが、あらかじめ示されたテーマについて、即興で英会話をする。原稿は持たないし、質問と受け答えによって会話が進んでいく。まさしく、インタラクティブ性(双方向性)をもった実践です。一部の代表者が出場するという点では「学校教育」というよりも「課外活動」なのですが、しかし英語のテスト成績が良くない生徒であっても、力を発揮することがある場だったのです。

私が追いかけていたのは、中学生時代の自分の経験です。つまり、そもそもの研究の動機は、自分がそのコンテストに出場したこと、そして、その当時やその後に感じた自分の中の学びや気づきが、他の子どもたちにも起こるのかどうかを検証したいと思ったことでした。自分にとって、そのときに学んだ、コミュニケーションの楽しさ・難しさ・大切さだったり、自分自身がそこで認められるという経験は、私自身がずっと信じ続けていたものでした。だからこそ、自分が信じている経験を、他の子どもたちにも経験してほしい、それが教育が抱える諸問題の解決につながるのではないか、と考えたわけです。

「コミュニケーション」ということばはマジックワードです。私は、斉藤孝さんの「意味と感情のやりとり」という定義を持ち出すのですが、その内実はなんだかよくわかりません。それでもなお、人間はこのコミュニケーション行為を避けて生きることはできないと考えています。より良いコミュニケーションを通じて、「わたし」を知り、「あなた」を知り、そして「わたしたち」になることを目指すことが、秩序ある社会の形成に必要だと考えています。ことばは、さまざまにあるコミュニケーションの媒介の一部でしかないことは分かっています。しかし、意味を持ったことばで相手に何かを伝えたり、あるいは自分自身で何かを考えたりすることは、言語を操ることのできる生物の特権ではないでしょうか。

私は別に、この研究題材を通じて、英語の力を伸ばさなければいけないと考えている訳ではありません。英語の力は、たしかに「グローバル社会」とやらにおいて、共通語として使われている事実からしても、ある一定層の人間には必要な力です。しかし、何も外国語は英語だけではなく、世界にはもっと多くの言語が存在する訳で、そうした言語たちに目を向けてもいいはずだと私は考えています。英語は、合理的な選択の一つでしかなく、あくまでも外国語学習の入り口として中学校から導入されているのだと考えています。つまり、学ぶべき言語は何でもかまわないし、何を勉強してもいいが、合理的に考えれば「まずは英語だろ、その後に別の言語だろ」と考えられるというわけです。

それよりも私が大切だと考えているのが、この「コミュニケーション」という得体の知れない事柄そのものです。しかし、得体が知れないにも関わらず、避けて通ることはできないところに、コミュニケーション行為の根源性があるのだと思います。コミュニケーション能力ではなく、コミュニケーションの経験を積むこと、そのためにも、日々のコミュニケーション行為を相対化して、楽しさだけでなく難しさも経験し、その先に困難を乗り越えるスキルや意志を持っていけるようにしたいと考えています。このスキルと意志によって、人間関係によって生ずる課題や困難を乗り越えることができるのではないだろうか、と考えています。外国語を学ぶ意義とは、この「コミュニケーション行為の相対化」をする上で、あえて通じない・理解出来ない言語に触れるという経験をする点にあると思っています。難しくて投げ出してもいいし、楽しくてハマってもいい。そこで「何か」を感じることが重要なのです。

だからこそ、教育においては、英語一辺倒になってはならない。繰り返しますが、合理的理由から英語を中学校における外国語として採用することについては問題ないと考えています。しかし、英語「だけ」で止まってしまっていることが問題だと思うのです。小学校が「外国語活動」ならば、なぜ英語以外の言語に触れる機会をもっと増やさないのか。なぜ、多様な人々が住んでいるこの国において、そういった人々の言葉を学ぶ姿勢を見せることで彼らに安心感を与えないのか。そうした態度を示すことは、国力の増強につながると私は捉えているのですが、しかし経済成長を志向する人の多くは英語しか見ていない現状があります。だからこそ、個人研究では「英語」の活動を研究しつつ、ゼミでは「小学校多言語活動」を推進してきました。そうしたバランス感覚を持つことが、必要になるのでしょう。

繰り返しになりますが、コミュニケーションの目標は、「わたし」を知り、「あなた」を知り、そして「わたしたち」になることを目指すことにあると思います。そのためには、酸いも甘いも知る必要がある。そして、経験のなかで学びを得ていく必要があると思います。よりよい「あした」をつくっていくことに対して、ことばの教育が貢献出来るのだとすれば、それは、よりよい「あした」をつくるための言語使用の経験を得てもらうという点です。コミュニケーションという行為が、難しくて、もどかしくて、それでも楽しいから諦めない、という態度を持っていくことが、あしたの世界を創っていく、グローバル時代の人間に求められる態度だと思います。外国語教育は、だからこそ意義深いと信じています。

【『卒業政策』vol.6 】「じぶんごと」で考えて動くように

教育や地域のことに携わってきた私にとって、2010年に出会った「新しい公共」や「熟議」の考え方はしっくりくるものでした。私自身は、ながらく「熟議」を、方法として捉える勘違いをしていましたが、実際はそうではないということにようやく気づきつつあります。それでもまだ、「熟議」や「新しい公共」の本質は分かっていません。だんだん自分の中でみえてきたことは、問題を「じぶんごと」として捉えて、そして動いていくということです。これを実践することって、なかなか難しい。

2010年に「熟議」という言葉をなんとなく耳にしたとき、友人が突然「俺は、熟議をしなきゃいけないんだ」と言い出しました。なんのこっちゃ分からないなかでメーリングリストに入れられ、そしていつのまにか携わっていた「リアル熟議in日吉」。7月24日に、仲間たちと熟議を主催した時の機材準備ぶりはものすごいものだったと思い出されます。全面Ustream中継やTwitterでの実況などを行い、大々的なイベントになりました。その後私は、文部科学省熟議協働員という役名を拝命してしまい、とくに何ができた訳ではなかったのですが、なまじhttp://real-jukugi.org/ というドメインをとってしまったり、大学熟議主催団体の一員だったことから熟議懇談会委員のみなさまと就職活動について話し合うという役回りを与えられたこともありました。とにかく2010年から2011年にかけては、「熟議」がブームのように感じることもありました。

「熟議は課題解決の方法なんだ」と考えを改めることになったのが、教職員熟議Saitamaという取り組みです。埼玉県を中心とする先生方といっしょに熟議を運営し、「学校をチームにする」というテーマで、連続の熟議に取り組みました。そのあたりから、それぞれが持っている課題をもちより、ひざ詰めになって話し合いながら、実際の行動に落とし込んでいくという取り組みであると解釈するようになりました。特に、連続熟議ということで、課題を抽出する熟議、その解決方法を考える熟議、時間をおいて実際に行動をとってその反省をする熟議、そしてまとめの熟議という4回にわたって実施しました。先生方のチームとともに、「熟議を学校に!」という提案書を制作したことが思い出されます。

そのさなかに起きたのが、311の震災でした。あのときは、自分の身を守ることや、家族の心配をするのはもちろんですが、「なにかしなきゃ」という焦燥感が先行していました。自分にできることはないか、なにかの行動にでなければいけない、そのように考えている中で、「熟議」で出会った皆さんはそれぞれに行動を起こしていました。「プロジェクト結」に関わるようになったのもそれがきっかけです。プロジェクト結は、「子どもの学びと遊びを支援する」という理念のもとに、石巻で「学校サポート」や「子どもの遊び場」、そして現在では託児所事業を展開しています。現在の形になるまでの過程で、石巻の現地で活動するメンバーや、それを東京で支えるメンバーが、何度も話し合いを重ねてきました。もちろん、現地で起きていることに対して、メンバーは真摯に向き合ってきました。

私自身は何ができたかといえば、ただ言われるがままにやっていただけだ、と認識しています。「僕には、なにもできていない」と思う日々もありました。プロジェクト結では「やりたい人が、やれることを、やれるだけ」という考え方があります。あくまでも、ボランティア・プロボノ組織である以上、過度な負担を持つことは避けなければいけません。それでも、自分がやりたいと思って参加している以上、それが続くようにしながらも、やりたいことを全うすることにこそ意義があるのだと思います。時おり自分でも恥ずかしくなるのが、自分自身でも「じぶんごと」に引き寄せて、行動をとれない部分があるという点です。

最近、この「じぶんごと」に引き寄せて考えて行動をとるところに、熟議の考え方の本質があるんじゃないかと思うようになりました。まだ自分にはできていないことです。でも、問題をだれかに任せきりにしないで、自分のこととして取り組んでいこうとするからこそ、課題もみえてくるし、解決策も具体的になるし、それに対する納得度も変わってくるのでしょう。そのために熟議を行うのであって、決して熟議はイベントごとでもなければ方法論でもない、ということが、ようやく見えてきました。私には、「熟議民主主義」の学術的な議論は全く分かりませんが、それでも「じぶんごと」の5文字に落とし込むことによって理解をするようになりました。この理解を、今度はきっちりと、自分の実践に落としていけるように頑張りたいと思います。

【『卒業政策』vol.5 】「マジック」と呼ばれる、自律性と自主性

奇跡的なことが起きて、それが良い方向に向かうとき、人はその現象を「マジック」といいます。しかし、そうした現象は本当に魔法として起きている訳ではなく、なにかの事柄が起きているからこそ発生するわけで、偶然のようですが、しかし偶然の積み重ねから必然的に「マジック」が発生することは多いと思います。「マジック」を「マジック」のままにさせておくことはストーリーとしては美しい。しかし、その「マジック」が良いものであればあるほど、それがいつでも起きるように、その要素が何なのかを解きほぐすこともまた、必要だと思います。この「マジック」を解き明かすことは、組織というものがどのような場合に成果をあげるのか、ということを理解する上で重要なことだと考えています。

何の話かといいますと、私が所属をしていた吹奏楽サークル「Dolce」でしばしば起きる現象です。私自身は吹奏楽を10年以上続けており、中学生の頃からチューバという楽器を演奏してきました。大学でも吹奏楽を続けた訳ですが、愛着のあるサークルと暖かく迎え入れてくれる仲間たちがいるということから、大学院生になっても顔を出し、しまいには2012年11月の定期演奏会では、修士論文を控えていながら出演と司会を務めてしまいました。学生だけでマネジメントまで行う団体にも関わらず、自己資金のみで大型のコンサートホールを借り切って演奏会をするほど。演奏レベルも決して低い訳ではありません。東京ディズニーリゾートが行う「Disney Music Festival Program」というアマチュア演奏団体の招待プログラムに、2009年から4年連続で出演を果たしています。

実は、そうした演奏成果が発揮されるのは、決まって本番直前です。それはまさしく、慶應SFCの割に多くの学生が、締切前に焦りだしてレポートを仕上げるような成長曲線に似ています。本番が近づくにつれ、それまでの練習とは比べ物にならないくらいの曲の仕上がりや和音の響きがすることが多く、練習開始期や中盤に頭を抱えたり堪忍袋の緒を切ってしまう指揮者たちを、最後には涙の大雨にさらすということがここ数年ながらく続いていました。

そうした、本番直前期に格段にレベルが上がる現象を、サークル内では「Dolceマジック」と呼んでいます。この現象は、決してマジックではなく、なにかしらの事柄が積み重なって起きた、必然のものであると捉えるべきだと考えています。そしてもちろんこの現象が起きるための要素はいくつかあると思いますが、その中核に位置していると考えられるのが「自律性と自主性」です。

指揮者や幹部の心配は、ひとえに練習に人が集まるかどうかです。特に、開始期や中盤期にはなかなか人が集まらない。しかし、本番が近づくにつれ、それに焦りを感じて練習に参加するというメンバーは増えていきます。そうした類いの自覚が現れることによって練習の物理的回数が増えて質が向上するということが一番大きな原因なのでしょうが、それは心理的にはネガティブファクターです。「マジック」という、ポジティブな捉え方のなかで質が向上していくのは、焦燥感ではない、別の要因によって生じる「自律性と自主性」によって、メンバーのテンションがあがっていくからだと考えています。

たとえば、その機能の一つに、「班」という制度があります。「Dolce」というサークルでは、幹部役員、指揮者のほかに、団体運営に必要な庶務やイベントの窓口担当を2年生相当の学年が「係」として担当する体制をとっており、規約にそれが示されています。「班」は、この枠組みの外側で、有志によって運営されるもので、おもに演出、広報、映像、音響などの係があります。この「班」への参加は義務ではなく、自主的にやりたいことをやる勝手連でしかありません。だからこそ、自分たちのやりたいことをとことん追求し、自主的に行動をとることでその質を高めているのです。私自身も音響班として、前述のディズニーのプログラムに応募するための映像撮影時には、多地点録音を行いました。また、広報班の制作するパンフレットは、毎年デザインに凝っています。演出班に寄る演奏会演出では、毎年のように小道具大道具の制作を行っています。

彼らは、好きでやっているだけです。自律的に(つまり自分たちのコントロール下で)、自主的に、好きなことをやっているだけ。ですが、クオリティを追求することによって出てくる高いレベルの制作物を他のメンバーが見ることによって、彼らのテンションが全体的にあがっていくということがあると思います。そうした、個々の自律的かつ自主的な貢献によって、組織全体の質が向上する現象が「マジック」なのだと思います。

【『卒業政策』vol.4 】学校と、おっちゃんおばちゃん、またはあんちゃんねぇちゃん

学校の先生の仕事が大変だと言われています。もはや昨今の学校教員は世論からの批判にさらされる存在になっているような気がします。一方で、校務分掌は増え、部活動にも取り組み、そして会議の連続… ゆっくりと子どもたちに向き合ったり、授業の教材研究に専念する時間はなかなかなさそうです。そこへ来て、東日本大震災でより鮮明になったのが、地域の中での学校の役割の高まりです。住民同士のコミュニティ形成が難しくなっている昨今、学校は最後のよりどころなのかもしれません。そうすると、学校の先生は勉強だけ教えればいい、なんてことが通用しなくなります。

私自身は、自分の研究フィールドとしてのみならず、教職課程の履修を通じて、かなり頻繁に学校現場を訪れるだけでなく、生徒と接する矢面に立つことが多くありました。また、学校の先生方の「熟議」の経験もあり、学校教育現場で何が起きているのかを自分の目で観察したという自負があります。特に、教育実習の経験は大きいものでした。就業インターンと捉えた場合、職場としての学校に対して考えを巡らせたのは、事務量の多さ、職場のチーム性、そして労働時間でした。特に最後について、若手教員は「セブンーイレブン」状態になっている方もいらっしゃるほどです。「日本最大のブラック企業は公立学校だ」などと言うときがありますが、冗談では済まされません。

そんな私だからこそ、学校のなかに、保護者だけでなく地域の住民が入っていき、学校運営を支えていこうとする考え方や、そうした方法を活かした地域コミュニティづくりの大筋には賛成しています。先生方が生徒と向き合い授業で真剣勝負ができる環境を整えるために外部の人間にできることを労力分散することは大切だと思っています。そうした地域との連携が、地域づくりのハブになるということにも期待を寄せています。何より、どうしても閉鎖空間になりやすい教室および学校という「社会」のなかに、外から人材を入れることで、多様性を生むだけでなく、より多くの「目」によって、児童・生徒に関わることができると思います。そしてそのときの地域の人々の立場は、「○○先生」ではなくむしろ、「おっちゃん・おばちゃん」あるいは「あんちゃん・ねぇちゃん」で充分だと思います。

私自身は、「古河市英語サポーター」として、市内の中学校での「放課後英語補習」に4年間従事しました。1年目は、同じ学校に派遣された方に用意してくださったプリントを実施し、2年目は教材を自分でコピーをとったりしました。しかし著作権的にグレーだということになり、3年目で共通教材作成プロジェクトが立ち上がります。その際に作成した「Five Star English Support」は、基礎基本の総復習教材を心がけ、私が中心になりつつ、他のサポーターの方と協働して問題選定などを行いました。そして4年目には、新たに加わったメンバーどうしで「英語サポーターズ・クラブ」が発足します。

この、「放課後英語補習」の「英語サポーター」は、多くが地域住民の「おねえさま」です。主婦として生活をしている方もいれば、個人経営の英語塾をなさっている方もいらっしゃって、それはさまざまです。そうしたサポーターたちが、教育委員会に登録され、指導主事のコントロール下で各学校にマッチング・派遣されていきます。しかし、なかなかうまく行かない部分もあり、学校とサポーターとの関係、その仲介としての教育委員会指導課の処理能力などには、課題が残ります。それでも、事業開始から4年で、自主制作教材やサポーター同士の自主サークルが立ち上がったことだけでも、成果だったと思います。

この事業を行いながら、生徒にとっての意義とは、新しい関係性のなかで何かを発散する機会になる、ということだと感じました。関係性が親密になればなるほどに、生徒はいろいろなことを話してくれます。私もイジられたりイジったりしました。その、先生−生徒という関係ではない関係性があったことに、大きな意義があったと思います。一緒に同じ学校に派遣されたある「おじさま」は、日本語指導サポートもなさっていて、担当する生徒が「先生には内緒ね」という話をしてくると聞きました。また、別の「あんちゃん」(大学生)サポーターは、補習終了後も質問のある生徒にずっと付きっきりでした。そういった関係性の構築は、生徒たちにとっても新鮮だったのでしょう。

だからこそ、温厚そうに話を聞いてくれる「おっちゃんおばちゃん」という地域住民や、近しい年齢どうしの「あんちゃんねえちゃん」という大学生が関わりを持つことは、これからの学校運営においても必要になってくると考えています。そうした人材を、どう活用するか・できるか、その経営能力もまた、教育委員会や学校の管理職には求められるのではないでしょうか。

【『卒業政策』vol.3 】未来創造塾に望むこと

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスは1990年に開学しました。問題発見・問題解決を掲げて、様々な領域の学問を取り扱う場所として設計され、そして藤沢の里山の中に産声をあげてから20年。様々な大学改革の取り組みに挑戦してきたなかで、新たな挑戦を打ち出しました。それが、未来創造塾です。滞在型の教育・研究施設をつくる、その狙いとしては、一つには海外からの研究者がスーツケース一つで研究をしにくることができる環境を設計するという研究のハブとしての機能、もう一つには共同生活を学生が送ることによってグローバル人材を育成しようとする教育施設としての機能を持たせる点にあるようです。計画では、もう建物は建っているはずでした。しかし、経済の浮き沈みは突然で、資金面からなかなか計画は進まない。現在では基金室のホームページが立ち上がって、塾員のみなさまにご支援をお願いしているところです。タイトルにある「望むこと」を最初に挙げるとすれば、「早く建ってくれ」です。

しかし、私には「早く建って」と思う以外にも「望むこと」があります。それは、「未来創造塾ハウスプロジェクト」の一員として動いてきた経験を持つ身として「望むこと」です。一言に集約するならそれは、「学生が、生きることと真剣に向き合う場所にしてほしい」ということです。

新しい施設が建つことで新しい制度が動き出すことに対して、自分も関わりたいという思いを持った大学2年生の頃に、友人に誘われる形で集められたのが「ハウスプロジェクト」のはじまりです。滞在型教育施設(いわば寮)に新入生を一定期間滞在させるときの「先輩」(別名「ハウス・リーダー」)の候補として、実際に建物が出来上がる前から、新入生どうしのつながりの形成のイベントを実験的に行っていこう、というプロジェクトでした。履修相談会やスポーツ大会、夕食会など、サークルでも研究会でもない、昔で言う「アドバイザリーグループ」のようなくくりでイベントを運営してきました。

その後、2010年の2月と3月に、「ハウス・リーダー」を育成する研修プログラムの「実験」が行われます。私と、仲間たちは、実験の参加者でしたが、そのくくりとは全く異なる「絆」のようなもので結ばれたような気がします。本城慎之介さん、今村久美さんといった方々とワークショップを共にしながら、徹底的に自分と向き合い、仲間と向き合いました。2泊3日の合宿を行った2週間後には1週間の泊まり込みも経験。涙を流すこともありました。自分自身が揺さぶられながら、自分という人間について見つめなおし、そして仲間たちとていねいに付き合いながら一つのものをつくりあげる試みをしました。

おそらくですが、滞在型教育施設ができれば、たとえばAPUのように、希望する学生がそこで共同生活を行うための場所になるだろうし、あるいは新入生が順繰りで宿泊プログラムを受講していく場所になるかもしれません。そしてそこには、「先輩」の存在は不可欠です。まず求められるのは、「命を守ること」にあると思います。それは面倒を見る居住者だけでなく、「先輩」本人も、です。決して事故や事件があってはいけない。物理的な人体の損傷だけでなく、精神的に追いつめられたり、文化的な生活が崩壊することのないようにしなければいけない。でなければ、良質な研究や活動、まして勉強はできないはずです。

そして、様々な活動に自分が接するとともに、授業やSA業務などを通じて様々な後輩たちと接点を持つなかで気づいたのは、良質な研究や活動、その足場となる勉強をするには、自分ときちんと向き合い、自分が持つ想いや熱意を正直に自覚すること、そしてそれを仲間とシェアしながら高めあっていくことが必要だということです。SFCは、様々なことが多岐に渡るからこそ、どうしても独りになってしまいやすい環境だと思います。だからこそ、自分と・仲間と真剣に向き合って、自分の考えや相手の考えをぶつけ、刺激を得る場が必要になると思います。もちろん、そうした刺激を毎日得ることはとても辛いことです。だから、時おり殻にこもることも必要で、しかし殻にこもって落ち着いたらすぐに戻って来れる場としての機能が必要だと思います。そうした、「向き合うこと」の行き来こそが、SFCで「生きる」ことだと思います。この点において、私は「グローバル人材」なんちゃらとか、求めません。それは高尚過ぎます。

ぶつかりあい、また落ち着ける。真剣に取り組み、また安息を得る。現在の残留のシステムにおいても、本気で学問をすることは可能ですが、物理的にも文化的にも健康とは言えません。滞在施設に大きなお風呂があるだけでも違いがあります。それに、親御さんが安心して子どもを学ばせる環境として宿泊施設は必要です。しかしそれ以上に、「自分と、相手と、丁寧に付き合う」ことを可能にすることこそ、「未来創造塾」の担うべき役割として期待するところです。

【『卒業政策』vol.2 】地域活性の3つのキーポイント

地域活性ネタをもう一つ。イルミネーション湘南台の慰安旅行として行った、新潟県魚沼市小出の「小出国際雪合戦」は、私の冬の年中行事となるほど重要なイベントとなりました。2013年は都合により行けなかったのですが、これほどまでに楽しみにしているイベントは無い、というほどにハマってしまっています。イルミネーション湘南台の卒業生たちが、現在では社会人雪合戦チームを結成して臨むほど、人々を魅了します。毎年のように、社会人になっても手間を惜しまずに準備を行い、たった2日間を大いに楽しむ、その魅力はいったいどこにあるのでしょうか。そしてその魅力の源泉は他の地域活性事例にあてはめられるのでしょうか。

地域が活性するポイントとして私が捉えている要因は3つあります。特に、外の人に来てもらうようなイベントとして地域活性が成立するには、次の3点がポイントになると思っています。一つはおいしい食事とお酒、もう一つはデメリットをメリットにしてしまうだけの資源とアイディア、そして最後はバカバカしいほどのくだらなさ、です。小出国際雪合戦には、その全てが集約されていると感じました。だからこそ僕はハマってしまうし、同様のリピーターも多いのだと思います。イルミネーション湘南台については、この3要素はそれほど当てはまりません。しかしそもそも、過疎化地域における活性化と、新興都市部における活性化とでは、わけが違います。いわゆる「いなか」に来てもらうための仕掛けが何か、というのがこの『卒業政策』のポイントになります。

一つ目のポイントである「おいしい食事とお酒」ですが、正直言えばこれは「いなか」であればどこにでもあると思っています。特に、いわゆる中山間地域で農業地帯であれば、食材もお水も美味しいに決まっています。もちろん魚沼といえば全国に知れ渡る米どころ、かつ酒どころです。小出国際雪合戦大会では、その前夜祭において、地酒とおにぎりとその他たくさんの食事が振る舞われますが、それのおいしいことおいしいこと。多くの地元外の参加者がこの要素に惚れてしまうのです。このおいしい食事とおいしいお酒は、必然的にコミュニケーションを形成します。外部と内部との接点だけでなく、内部コミュニティにおいても同様です。

二つ目のポイントになる、デメリットをメリットにしてしまうだけの資源とアイディア。これについては少し説明が必要ですね。魚沼市は、2012年の話ですが、災害対策基本法による豪雪地帯の指定を受けました。つまり、雪が災害指定レベルで降るわけです。尋常じゃないほどの積雪量は、中山間地域で老齢人口が増すばかりの地域にとってはデメリットでしかないと僕は見ています(もちろん地域の人々は昔からそれと付き合ってきた訳ですが)。スキー場の観光資源化もなかなかむずかしい。そんなデメリットになってしまうような雪を、雪合戦というアイディアでコンテンツ化してしまっている点に、小出国際雪合戦の工夫が感じられます。雪はまぎれもなく資源です。その資源をどのように活かすかに、活性化のアイディアのポイントがあると思います。

最後のポイント、そしてこれは僕がさまざまな物事の価値判断をする際にかなり重視していることであり、また小出国際雪合戦以外にもいくつかの事例であてはまるのですが、それは「くっだらない、ばっかばかしい」ことを本気でできることです。小出国際雪合戦については、かつて私が書いたブログの記事をご覧いただくか、Googleで画像検索※していただくと分かるのですが、とにかく「ガチ」なんだけど「ガチ」じゃない。コスプレ参加が推奨されていたり、審判長の独断と偏見で決勝リーグにあがれる推薦枠があったり、男性が女性に本気で球を投げると怒られたり、ワイロが歓迎されていたり、どうしてそんな「ばっかばかしい」ルールで平気で楽しめるのか!というほどの設計になっています。しかし、そこがミソなのだと思います。それがとにかく面白いのです。面白いから人が来る。「くっだらない、ばっかばかしい」と思えるようなことをオトナたち本気で取り組むことが珍しいでしょう。その情熱と、そしてコンテンツ自体に人は魅力を感じるのかもしれません。

私の知り合いが、「伊那谷デザイン会議」という取り組みをしていて、地域活性系の助成金を得るほどの取り組みなのですが、それもまた「くっだらない、ばっかばかしい」。畑一面を使ってジオラマをつくったり、正月にゲリラ的に年賀状を各家庭にばらまいたり、そんな活動を通じて、外部と内部との人の交流が生まれる話も聞いたことがあります。日本の関心はグローバルを向いていますが、まだ発見できる魅力は日本にも眠っている。そこに目を向けることもまた、価値創造につながるのでしょう。

※ちなみに、画像検索をしたとき、私の検索結果の一番最初に出てきた写真は、私が関わっているチーム「湘南台冬将軍」のコスプレ部隊のものでした。

【『卒業政策』vol.1 】地域づくりの担い手とは – イルミネーション湘南台を通じて

 私が学部生としての一歩を踏み出してから最初に取り組んだのが、イルミネーション湘南台の活動です。大学の最寄り駅である湘南台駅は、小田急線を挟んで東西に分かれており、地下コンコースでつながっています。比較的新しい街でありながら、広島県広島駅よりも多い乗降客数を誇り、ベッドタウンとしてだけでなく、多くの大学の最寄り駅として使われる文教地区や、近隣の工業団地の玄関口としての機能を持っています。その一方で、伝統や文化と言われるものはほとんどなく、商店街や地域住民の努力と工夫に寄って、文化創造が行われている地域でもあります。活動では毎年冬場に、その東西の大通りや商店街にイルミネーションを取り付け、また地下コンコースには巨大クリスマスツリーを設置しています。すでに10年以上続く活動で、慶應SFCの学生サークルと、地域商店街、地域住民、行政担当者が実行委員会を組んで取り組んできました。

 入学したての僕にとって、地域活性化は興味のあるテーマの一つでした。地元の魅力に気づいてもらい、若い人たちの活気があふれる街づくりについて思うところがあったため、このプロジェクトは僕にとって最良の実践の場だと思った訳です。1年目には音楽ワークショップという企画を運営し、2年目には音楽イベントの実施、3年目は子ども対象の企画の運営を行いました。そうした企画の運営の他にも、地域の企業や商店のみなさんへの協賛金のお伺いや、イルミネーション取り付け、企画を運営する上での学校との折衝などなど、とにかく湘南台地域のことを本当によく理解できるほどに駆け回りました。

 大学生が中心となり、地域の皆さんを巻き込んで企画を運営していくことは本当に辛くもあり楽しいことでした。たくさんの地域の方とのつながりができ、顔を合わせれば挨拶するのはもちろん、イルミネーション湘南台以外の地域活動にも参画することもたくさんありました。たとえば、地域の子どもたちの夏キャンプだったり、商店街主催のイベントでの司会業だったり。それはそれはかけがえのないもので、湘南台は僕にとって第二のふるさとのようになり、たくさんの魅力を発見しました。しかし一方で考えていたことは、「大学生はいつか離れていく存在」ということです。

 あるとき僕は、「地域の住民の手によって回っていくことが最終ゴールだ」と実行委員会の中で発言したことがあります。所詮はよそ者でしかない大学生という存在は、高慢にならずに、愚直に泥臭く地域の人々と関わっていかなければいけません。そういう関係性を、それまでの先輩方は本気で築いてきました。そのおかげで、長い間続く企画になったことは確かです。しかし最終的には、それが住民の手に渡ってもなお継続することが大事だと僕は考えています。同時に、いつかはいなくなる存在であることを自覚した上で、最後まで責任を持った関わりが大学生には求められるのだと思います。

 そしてもう一つ、私が「いつかはいなくなる存在」であるからこそ心がけたことは、子どもたちの意識を地域づくりに向けることでした。たとえば、3年目には学校企画担当として、小学校の子どもたちに湘南台の好きなところの絵を描いてもらう企画を引き継ぎましたが、それまでの「好きなところ」というテーマを「ありがとう」に変え、自分たちの街の魅力に感謝するということを行いました。それ以上に心がけたのが、中学生ボランティアをどう巻き込むか、という点です。街の活性の担い手は、そこに住む子どもたちだと考え、イルミネーション湘南台の場を、単なるボランティアの場としてだけでなく、複数中学校のコミュニケーションの場や、地域の人と関わるトレーニングの場と捉えて、さまざまなことを、あまり指示せずに自分たちで考えて取り組んでもらいました。こちらが予想した以上に、自分たちから主体的に動いてくれた中学生ボランティアたちにとって、イルミネーション湘南台は「居場所」と化していたのかもしれません。

 その後、ある事情があって、慶應のサークルとしてのイルミネーション湘南台は解散することになります。が、地域住民の主導と複数の大学生の関与によって、イルミネーション湘南台は継続しています。そして現在の担い手は、高校生になった「中学生ボランティア」たちです。彼らは、もがきながらも地域の人々と関わり、まわりの友人を巻き込みながらイベント事業を運営してきました。いまや、そうしたコアメンバーのほとんどが、湘南台の地域住民の高校・大学生です。湘南台にとって、このことは大きな価値を持ったと言えるでしょう。地域づくりの担い手をどのように育てるかが、地域に問題意識を持つ「よそ者」大学生に求められることではないでしょうか。