コミュニケーションをなんだと思っているんだ (シークレット・ライター #03 – 作品12)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。
なお、作中において槍玉に挙げられている「あいつ」は筆者・遠藤自身であり、特定の他者に向けられたものではありません。

テーブルに座ってごはんを食べているとき、ぼそっと愚痴っぽくつぶやいたら、突然スイッチを入れてきて、根掘り葉掘り聞いてきやがる。いちおう「スイッチ入っちゃっていい?」とは聞いてくるけど、でもそもそも、こんな話、みんながいるところでするものでもないだろう。

しかも、けっこう質問がするどい。というか、あんまり考えたことのないことを聞いてくる。すぐに答えられるわけないじゃないか、そんなもん。それに、誰が聞いているかもわからないところで、本音で答えられるとでも思っているんだろうか。本音なんて、なかなか出せないよ。

たしかに、悩みはあるし、そしてそれを話すこと・吐き出すことができるのは、この家に住んでいて「ありがたい」と感じる。いろんな生き方をしている人がいて、それぞれに価値観が違っていて、だからアドバイスをもらえると、考えの幅が広がる感じがする。

でもそれって、すぐにできるってもんでもないじゃん。どっかに出かけたり、飲みに行ったり、一緒にごはんつくったりして、それで少しずつ相手のことを知れるから、話したいって思えるんじゃないか。あいつ、いつもただテーブルにいるだけじゃん。みんなで飲んでても、あんまり絡んでこないし。

百歩譲って、話を聞いてもらえるのはありがたいし、考えたことがない質問をしてくれるのは、考えを整理するのに役には立っていると思う。でも、別に今そんなテンションで揺さぶられても困るし。それになんか、「スイッチが入った」状態で、なんかズケズケと入り込まれてくる感じがするんだけど。

いや、たぶん本人としては、自分のためを思って聞いてくれているんじゃないかとは思う。なんとなくそれは伝わるんだけど、それ、実際「あなたが知りたいことを聞いているだけなんじゃない?」なんて思ってしまう。いま答えていることって、自分が「ほんとうに話したいこと」なのか、自信はない。

いちおう、アドバイスを言いたそうだから、「どうしたらいいっすかね」と聞いてみると、逆に質問で返される。こっちが聞いてんだ、これ以上聞いてくんな。「思ったこと言っていい?」と聞かれたから「どうぞ」って促したら、めっちゃ長く語ってきた。長いよ、そんなに長いやつ、求めてないって。

そしたら流れで「俺の場合はさ」とか言って本人の話をし始めた。これ、こっちに対するアドバイスをしているんじゃないの? これもしかして、実のところ本人の話を聞いてほしいだけなんじゃないか?人の話を聞くふりをして、人に話を聞いてもらおうとするのは、あんまり気持ちがいいもんじゃない。

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。

そういえばこの前、ラウンジでおしゃべりしてたときも、なんかずっと同じ話題で話し続けている感じがあったな。気軽な会話でそんなにずっと同じ話題しゃべらんて。そうかと思えば、全然会話にも入ってこれない時もあるし。なんだろ、無理して話題についてこようとしてるというか。

あと別の時も、なんかしゃべってて、ずっとなんか頑張って質問されている感じがした時があったな。気を遣われているっていうか、なんとかして会話続けようとしているっていうか。そんな頑張らんでもいいのに。空気読もうとしてるけど、空気読めてないっていうか。バランス悪いんか。

もっと自然に振る舞えばいいのに。無理して話そうとしなくたって、別にこっちがそのモードだったらこっちから話するし、そのモードじゃなかったら静かにしているのを大事にしてほしいし。それにさ、聞いてほしいんだったら、素直にそう言えばいいじゃん、こっちに問いかけてその状況にしなくても。

ここにいると、みんなやさしくてあったかくて、だから寂しく感じなくて済んでるんだけど、だからといって、みんなと仲良くできるわけじゃない。合う人もいれば合わない人もいて、だからコミュニケーションの濃さも、グラデーションになるはずでしょ。別にそれでいいじゃん。

なんかあいつは、よく言えば、みんなとフラットに接しようとしているんだけど、裏を返せば、みんなと仲良くなろうとしていて、みんなから好かれようとしていて。でも、それ無理じゃん、って。平等に均一に、同じ濃さで関わるって、そりゃ無理だよ。コミュニケーションをなんだと思ってるんだ。

別に、みんなで盛り上がらなきゃいけないわけじゃない。別に、みんなと仲良くしなきゃいけないわけじゃない。無理してそんなことして疲れるくらいなら、やらなきゃいい。好きなように居ればいいだけのことなのに、それをこじらせて「うまく溶け込めてない」なんて思われても、知ったこっちゃない。

そういえば、あれだ、「みんしる*」だってそうだ。たぶん本人は、自分のことを聞いてもらうのが好きだから、人を選ばずに語るってのは得意なんだと思う。でも、みんなそれが得意じゃないし、みんなが自己開示をぽんぽんできると思ったら大間違いだ。自己開示は、人と場所を選ぶもんだろ。
*みんしる=物件内で行われるトークイベント、住人が自分自身のことを形式フリーで語ることができるイベントを月イチで開催している。

無理やり引き出されることをしなくたって、自分なりのやり方で、自分なりの心地よさで、この場所に溶け込んでいけるんだ。あいつだって、そうすればいいだけなんだけど、でもこっちの心地よさも尊重してほしい。ペースに合わせる、までしなくても、合わせようと様子を見てくれればそれでいい。

自分のことを基点にするのがコミュニケーションなのか? 相手ありきなんじゃないのか?

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。


「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

Beyond language (シークレット・ライター #03 – 作品27)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。

Over twenty-five articles from sixteen writers living in this social apartment reflect how diverse our share mates see their lives and communication here.  However, the language itself is still homogeneous, Japanese.

Japanese, which is one of the most difficult languages to acquire, is very beautiful to express the writers’ inner feelings and thoughts because of its diversity of vocabulary, ambiguity by absence of the subject, and variability of sentence structure.  And because of these, the articles under this exhibition called “Secret Writer” are striking readers’ hearts.  But, the experience of being moved by each article is limited only for fluent Japanese readers.

Here, I feel unconscious-exclusiveness.  Yes, even I, both the writer of this article and the organizer of the exhibition, excluded other languages users unconsciously.


There are several reasons why I organize the exhibition.  One is that there are many residents here who like to write essays or even work as professional writers, and I wanted to read their essays which reflect their feelings and thoughts through the social apartment lives.  Each writer has to hide their name from each article under the regulation of the exhibition, and this makes readers think who to write, and therefore communication among the residents occurs.

On the other, and moreover, I wanted to express myself through essays, not by verbal communication.  This is because I, who some residents recognize as talkative, feel lonely or being a minority in the community here, and this kind of my negative perspective for being a part of this community wouldn’t be appeared through the daily communication even I don’t hesitate hiding.  Because I can hide the name as a writer, I can express what I want to express more freely.

Surprisingly to me, not only me but also other writers put their inner feelings into the essays with their own way of the expressions.  Readers, and they are our residents in other words, encountered different aspects of writers which couldn’t be appeared in the daily conversation on the 2nd floor.  This is what both writers and readers enjoyed the exhibition the most.  But, we cannot share this delighted “re-discovery” of the residents here with non-native readers of Japanese.


I was so lucky that myself in childhood was both talkative and interested in acquiring English, now I can enjoy talking with residents from other countries even they cannot speak Japanese fluently.  One thing to add here, residents from other countries put so much hard work into learning Japanese and their fluency get tremendously better day by day.  I even appreciate, as one person fostered in Japan, their relentless effort for acquiring Japanese language and basic interests for the culture and habit in Japan.

Because of that, I feel a disappointment to myself that I couldn’t put the consideration for non Japanese users even though I hope to create a world where all people share the ideas of inclusion.  I always state that knowing and giving respect to each other are the basic keys to create a better future of inclusion beyond each difference.  The life in this social apartment is the right place for the actual practice, I suppose.


I cannot truly understand, and should not predict what the non Japanese users here feel or think.  But I imagine that living in a different country where one’s native language is limited to use makes one’s heart feel alone or being a minority.  But I strongly believe that we, as residents here, can melt such feelings by sharing a precious time in the same community.  Language itself is a one of the tools, but sometimes verbal communication doesn’t need the fluency of the language.  The interest and desire for knowing each other can go beyond language.  But on the other hand, we need to understand that languages themselves become the barrier for the desire to understand others.

The old proverb says “When in Rome, do as the Romans do”, but this couldn’t be a reason that native Japanese users here don’t put consideration to the non Japanese users here.  Or, even the distinction between Japanese users and non Japanese users is not appropriate for the mutual understanding as people under the shared community here.  I want to make the opportunity for participation into this community open for everyone.  And to enable this, I don’t want to make the opportunity closed into the Japanese language.

This is why I wrote this essay, with my regrets for less consideration for international members here.


I want to see each of you as individuals who have different interesting life-stories, many aspects of the life, and shared interests among the life in the social apartment.  We can be life-long “share mates” even though we spend a short time together.  At that time. our friendship can be beyond language, I believe.

So I promise you. I won’t make the language itself a barrier to our communication.  I won’t let you alone.



「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

「言語化」を言語化する:相手の言語化を促すための 「いっしょにみとおす」問いかけ

比較的言語化が遅い人への接し方が不得意なんだけど、なんかコツを掴みたい

という悩みが、知人からもたらされた。思わず私は

出るまで待ってあげてくれ

とレスをしてしまった。

これが思いのほか自分の思考をぶん回してしまったので、他に書くべきことがある最中だが、結局記事にしてしまった。

「言語化が遅い人への接し方が不得意」には、おそらく2つの課題が含まれていて、それは

  • 相手からの言葉による返答が遅い(ので俊敏性を上げたい)
  • 返答が遅い人の対応がもどかしい(ので適切な接し方が知りたい)

ということだと思う。

で、ここでポイントだと思うのは、相手の言語化力をどう伸ばすか、ということと同時に、自分の接し方の部分をどう最適化できるか、という双方をセットで行うことの大事さだ。

当方、障害者雇用を担当している。また、教員だった経験もある。なにより、長らく続けてきたブログのおかげで、時折「言語化おばけ」と言われることもある。聞く側の私の言語化力の高さに比して、話す相手のそれとに非対称性があるようなケースも、多く経験がある。そして、私も、もどかしさを感じることがあった。

ではどうしてきたか。ここいらで少し棚卸しをしてみようと思う。

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初任者へおすすめの一冊2024 – 吉藤オリィ『ミライの武器 – 「夢中になれる」を見つける授業』

まだ少し寒いが、春は確実に近づいてくる。曜日感覚が薄れているが、もう3月になってしまった。

年度の切り替わり。日々奮闘する教職員たちにとっては、おわりとはじまりが背中合わせとなる時期。そしてもうすぐ、教育現場には「初任者」がやってくる。

毎年この時期になると、私は、一般社団法人かたりすと・サイト “カタリスト for edu” の企画「初任者へおすすめの一冊」を楽しみにしていた。それは読み手としてもだが、書き手として、という方が強く、お陰様で3年連続執筆、うち、Web掲載の1本目を2年連続で務めさせていただいた。

なんなら勝手にもう一冊紹介したこともあった。

しかし、2024年は、この企画をお休みにする、という知らせが届いた。2023年の時点で紹介する本は決めていたのに・・・

ええい、なら勝手に紹介するまでだ。

すでに教職を離れて2年、そんな私が何を言うか、と思われたとしても、初任者として学校現場に向かう尊い人々に、未来をつくる仕事に向かう人々に、その想いを託したい。

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業務報告書作成のコツ

業務報告書作成のコツは?

そんなLINEが、ある日曜の朝に来た。まだベッドに横たわっていた僕は、こう返した。

すでに頭のなかにあるんだけど、書くのがめんどいので後でやる。一日ちょうだい。

そしてそのままにしてしまい、結局コツを伝えないままでいた。ようやく、その「コツ」とやらを書き出すことができたので、ここでシェアしたい。

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ぼくたちは、災害に、無力だ (シークレット・ライター #02 – 作品15)

ぼくたちの元日など、お構いなしに

2023年を見送ってすぐ、珍しく元日から開いていた地元のカフェに向かう道すがら、けたたましく唸りをあげるスマホ。その刹那、ゆったりとしたゆらぎが、アスファルトの上で感じられた。

1月1日、16:10。マグニチュード7.6の地震が能登半島を襲い、最大震度7を記録する大きな揺れが、多くの建物を倒し、数々の道路を遮断し、有名な市場を焼き払い、津波と土砂崩れを引き起こした。

カフェに着いて、お気に入りのフレーバーカフェラテ(ストロベリー・ホット)とフレンチトーストを頼んですぐ、NHK+を起動してニュースで情報を見る。「たまたまうちの常連でPCに強い人たちが揃っている」と曰う店主。ラテアートを描きつつも、「どうなってる?」と私に聞いてくる。

NHKはひたすら、能登半島沖の映像を流しながら、女性アナウンサーが繰り返し叫ぶ音声を届けた。

「今すぐ逃げること。テレビを消して、いや消さなくていいです、いますぐあなたが逃げてください」

3.11の津波警報をおおごととして捉えられなかった人々がいた反省から、強い口調で警戒を呼びかける報道姿勢を「かくあるべし」と思いつつ、他のテレビ局も災害情報に徹し続け、結局、正月の風物詩である格付けチェックも東西ドリームネタ合戦も、埼玉県政財界人チャリティ歌謡祭も、放映がされなかった。ただ唯一、テレビ東京だけが「充電させてくれませんか」を放映した、精神衛生上それは救いだった。

多くの人が、能登に帰省をしていたはずだ。ジョージア国の大使も石川に観光に向かう道程だった。

みんなにとって、等しく・穏やかに訪れたはずの元日を、そんなことなどお構いなしに天災が襲う。

「人間の都合など知らん」と言わんばかりの自然の威力。ぼくたちは、災害に、無力だ。

ぼくたちは、自分と「おとなり」の命を守れるか

1月3日、同居人たちとの会話のなかで「防災備蓄を買った」という話になった。私はこれといって備蓄はしていないが、ふるさと納税返礼品のパックライスと湖池屋のポテトチップスがあり、また無印良品の「バウム」を大量購入していて、そして炭酸水が大量にある。ちなみに、冷凍食品は、無力だ。

備蓄まではいい発想だとして、さてあなたは、この家のリスクと、逃げ場所を、知っているだろうか。

大規模災害が発生した際の、東十条一体の「避難場所」=火災から逃げる開けた場所として指定されているのは、URの王子五丁目団地。ジャパンミートの手前側の、あの団地だ。一方、建物が住めなくなった時の避難所に指定されているのは、この家の近くの東十条小学校だ。

しかし、王子五丁目団地も東十条小学校も、そしてこの家も、ハザードマップによると、荒川が氾濫すると0.5m〜3mで、沈む。また地盤については、建物倒壊危険度も火災危険度も5段階中で3。東京都内の「丁目」の区切りのうち、危険性が高い方から並べて上から1/4以内に位置する、東十条2丁目。もちろん耐震工事はされているが、しかし輪島のあのビルの倒壊を見ると、我々も安全とは言い難い。

いざということが起きた時、ネイバーズ=おとなりどうしは、助け合うことができるだろうか。

その前に、自分の命を確保することはできるだろうか。そもそも、あなたは、逃げられるのか。

ベランダに物を置くことを禁じられているのも、「オリロー」を使った避難をする通路になるからだ。3階をのぞいて、奇数階は外側2部屋、偶数階は中央2部屋に、避難はしごが設置されている。ということは、奇数階は中央2部屋の上から、偶数階は外側2部屋の上から、人が降りてくる。その避難を妨げず、先に降りた人が後から降りる人を助けることができるだろうか。

オール電化のこの家は、電気がないとお湯すら沸かせられない。キャンプ好きな住人が多いのは幸いなことだが、104人すべての住人が身を寄せるには、いつもは広く感じる2階も、手狭がすぎる。

「いつか」がいつか、わからない災害。知識と覚悟に乏しいままでは、ぼくたちは、災害に、無力だ。

何かしたくても、何もできないぼくたち

過去の災害対応の蓄積から、地震発生後72時間は「緊急期」として、現地の自助で対応するのが通説とされている。その後、現地の状況が見えてきて、外からの支援を受け入れられるようになってきて、徐々に物資や人的支援が始まっていく。それまでの間、被災地外にいるぼくたちは、報道機関の情報に触れ続けることになる。

苦しんでいる人たちがいるのに、苦しんでいない、ぼくたち。

そんな状況下で大事になるのは、被災地の無事を祈りつつ、ぼくたちの心身を健やかに保ち、いつも通りの生活を営むことなんだ。

Yahoo!募金が、いち早く募金の受付を開始した。多くの人が「いまできることを」といって、募金をし始めた。一方で、募金先に迷うという声も多く聞かれた。ぜひ知っておいて欲しいのは、「義援金」は最終的に被災各県に集約されて被災状況に応じて被災者本人の手に渡るものということ。その一方で、現地への支援に入るNPOやNGOの活動を「活動支援金」として支える方法もあるということ。支援金は即効性があるが、義援金は直接支援になる。

ぼくたちの祈りを、どう届けるか、よく考えて欲しい。なおのこと、物資そのものの個人送付ほど、いまこのタイミングで迷惑この上ないことはないのだ。

北陸の冬は寒く、三連休には雪が降るらしい。思った以上に建物の倒壊も火災の焼け跡も凄まじい。

生活を何とか営める「復旧期」を超え、「復興期」に至るまでには、思ったより時間がかかるだろう。

今を苦しんでいる人の安寧を祈り、支援の気持ちを向けること以外に、ぼくたちは、災害に、無力だ。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第2回(テーマ:わたしの「ゆく年・くる年」)に寄稿した作品です。
「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

2023年12月に、こんな記事を書いた。

「大人の文化祭」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.51)

現在住んでいるソーシャルアパートメントで、”Share Our Culture!” をコンセプトにしたイベント・Higashi-Jujo Neigbors’ Culture Day 2023を開催した。いわゆる「大人の文化祭」なのだが、そのなかで「シークレット・ライター」という企画を行った。これが思った以上に大きな反響を得たので、どうやって思いついて、どうやって取り組んだか、記録に残しておきたい。 続きを読む

だれかとともにすごすということ(シークレット・ライター#01 – 作品10)

たとえばそれは、ごはんを一緒につくって食べるということ。

「ねーねー、〇〇たべたい」なんて一言を「えー」と言いながらも受け止めて、そこから、どうやってなにを作ろうかをひとしきり考える。冷蔵庫には何があったっけ。足りないものは、歩いてコンビニまで行くか、チャリでスーパーまで行くか、どうやって調達しようか。頭のなかをぐるぐると駆け巡っていく「ああしよう」「こうしよう」たちが、ついに一つのレシピに辿りつく。わたしは料理をし始めると自分の世界に入ってしまいがちで、だからあたまのなかに浮かんだ手順を進めようとすると全てを自分で取り組もうとしてしまう。そこに「ねぇ、いっしょにつくろうよ」と言ってくれるおねだりの主。あーしてこーして、というのをおねだりの主に伝えながら、出来上がった共同作業のお昼ごはん。破れが補修されたソファに座ってからの「いただきます」、一口目がそれぞれの口に運ばれた刹那、おねだり主から「めっちゃおいしい、最高じゃん」という言葉と満面の笑顔があふれる。それが、うれしい。

たとえばそれは、コーヒーを淹れるということ。

コーヒーがコンセプトのネイバーズ東十条には、それぞれのこだわりをもって暮らしている人が多い。コーヒーにもそれぞれこだわりが現れていて、エスプレッソマシンを使う人、サイフォンで淹れる人、フレンチプレスが好きな人、それぞれのスタイルで楽しんでいる。もちろん多くはドリップなんだけど、だからなのか、だれかがペーパーフィルターを買ってストックしてくれているのが、ありがたい。豆へのこだわりもひとそれぞれで、たとえばわたしは浅煎りが好きなんだけど、深煎りのずしんとした味がいいって人もいる。なかには豆の焙煎だってしちゃう人もいる。東十条には、ひとつぶ珈琲やマヤ珈琲焙煎所、神谷珈琲店といった豆を売るお店もあって、いろんな楽しみ方ができる。一人でじっくりコーヒーを淹れる時間は、コーヒーを飲むことと同じくらい、リラックスした時間になる。だけど、平日の昼下がり、ラウンジで仕事をしている人がいると、誰かが「コーヒーちょうだい」とおねだりしたり、はたまた「コーヒー飲む人?」とめぐんでくれたり、そういったコミュニケーションのきっかけが生まれる。コーヒー好きどうしの「ねぇ、それどこの豆?」「へぇ、そういう淹れ方するんだ」という会話もよく生まれている。コーヒー好きが退去をするときは、エスプレッソマシンの使い方講座が行われる。あなたとわたしの間にコーヒーがあるだけで、今日の一日を心地よく過ごすことができそうだ。

たとえばそれは、他愛もない会話をするということ。

よるごはんを食べて、ラウンジに座っていると、ひとり、またひとりと集まって、長机に座っていく。首から上は、楽しい顔もあれば、疲れた顔もあって、それぞれの一日をそれぞれなりに生きてきたんだなということがよくわかる。「今日、何してたの?」という質問から始まることもあれば、「ねぇ聞いてよ」という声かけから始まることもある。みんな、具体的な何かはなくとも、何かを誰かに話したくて、誰かの何かを聞きたくて、それで集まってくる。日々のラウンジの会話そのものに、どれだけの「意味」があるかなんて、実はあんまり関係なくて、「話したい」と「聞きたい」の間にことばをおいて、その温もりを感じられさえすればいい。「めっちゃウケる」って笑ったり、「それはないわー」と怒ったり、「それはしんどいね」って悲しんだり。いや、そんなに感情が上がったり下がったりしなくたって、なんの変哲もない日常の、他愛もない会話を共有できる人がいるだけで、それでいいと思う。

たとえばそれは、夜の散歩に出かけるということ

たしかにネイバーズ東十条に住んでいると、それぞれの趣味を集めたら、その幅はとても広いものとなって、週末ごとにいろんな「おでかけ」が生じる。ごはん行こう、カフェ行こう、イベント行こう、展示会行こう、映画行こう、ライブ行こう、フェス行こう、スノボ行こう、キャンプ行こう。そうした、東十条を飛び出すおでかけは、非日常の楽しさの中で、わたしたちのつながりをもっと深くしてくれるし、思い出に深く刻まれる。だけど、そんな「トクベツ」を味わわなくても、「ちょっと行こうよ」といって、玄関を出て少し歩くだけでも、十分楽しいって思えることが多い。夜の外の雰囲気って、不思議な引力を持っていて、夏なら涼しさ・冬なら寒さを感じながら、少し暗い中を話しながら歩いていくと、しぜんとじっくり話せる気がする。コンビニに行くたった数分の距離だって、なんかワクワクしてしまう感じがある。いちばんいいのは、サミットのある通りのマンションの中庭。あそこ、夜になるとすごくいい照明が灯って、めっちゃ雰囲気いいんだよね。遊具の網みたいなところに座って、酔い覚ましをしながら話していると、すごく落ち着いた話ができる。そんな時間が好きだったりする。


だれかとともにすごすということは、特別なことなんかじゃなくて、むしろ日常の方にこそそんなシーンがたくさんつまっていて、日常の中にある温もりを感じることが、うれしさをわかちあえることが、だれかとともにすごすということの良さなんだと思う。

そういう暮らしができることの幸せ。狭い自室にとどまらないシェアの日々が、わたしは好きなんだ。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文化祭「Higashi-Jujo Neigbors’ Culture Day 2023」内で開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

無題(シークレット・ライター#01 – 作品06)

「ねぇ」

「なに?」

「最近さ、ラウンジも雰囲気変わったくない?」

「それなー」

「新しい人も増えたじゃん」

「やっぱさ、だいたいみんな更新のタイミングで、出ようかなってなるよね」

「オープニング組もほとんど出ちゃったし、やっぱ雰囲気変わるよね」

「なんか最初は、夜帰ってきて、2階が盛り上がってる音、ちょっとビビってたんよね。なんか、うちすごいとこ来ちゃったんかな、みたいな」

「わかる。ぜったい楽しいんだろうけど、なんだろ、気後れしちゃう感じっていうか、勇気いるよね」

「入ったころはさ、けっこうみんな夜ラウンジで飲んでて、しかも遅くまで。ほんとみんな元気だなって思ってて、みんな起きているから自分も起きてないといけないのかなとか思ってたかも」

「えー、それは考えすぎでしょ、寝たくなったら寝ればいいじゃんって思うけど。あ、でも、なんか楽しんでるところに入っていくのはちょっとしんどいかも」

「そっか、でもけっこうみんなウェルカムじゃない? なんか、思ったよりみんな優しいっていうか」

「いや、意地が悪い人はこんなとこ住めないでしょw」

「たしかにw でもたしかに、うちらが入った頃から、雰囲気変わったなーってのはあるよね」

「でしょ。だって夜も遅くまで飲んでいる人たち、減ったもん。前は平日だって2時くらいまで起きてた人いたけど、最近は平日だと12時すぎたらシーンってしてない?」

「いやいや、遅くまで飲んでる人はいるよ。でもだいたいおんなじ顔ぶれな気はする」

「でもさ、なんていうか、群れてはないよね。よくこの組み合わせ見るよなーとかはあるけど、でも特定の人とだけ一緒にいるとかなくて、みんなけっこうお互いに話したりご飯食べたりしてるじゃん」

「下、降りてくる人は、基本みんな話すの好きなんだよ。だからシェアハウス住むんじゃんね。寂しがり屋かガチの陽キャ。うちらはどっちかっつーと」

「寂しがり屋?w」

「絶対そうw でも別に苦手な人とかいないじゃん。みんな優しいし。だから群れないんじゃん?」

「じっくり話すとみんなめっちゃおもしろいんよね。おもしろいっていうか、興味深いっていうか。夜だとあんまり仕事の話とかなりにくいけど、昼にワーキングとかラウンジで仕事してると、真面目な一面とか見れるからそれもいいなーってなるよね」

「わかる。マッチングアプリがどうこうとかばっかり話してる人もさ、ちゃんと仕事とかキャリアとかの話聞くと、めっちゃ考えてて参考になったりすることあるよね」

「そうそう、だから新しい人たちも、もっと話したらいろいろ堀り甲斐ある気するんよね。だから、なんかさ、もっとみんな気軽にラウンジ降りてこられたらいいんだけどさ」

「いやーみんなはむずいって。別に関わりたいって思ってない人もいるだろうし」

「それはそうなんだけど、でも関わりたいって思っててもチャンス逃した人もいるくない?」

「あー、たしかに。長く住んでくると居心地よくなって、よく顔合わせる人と喋っちゃって、別に群れてるつもりないけど、グループできちゃうと入りにくく感じるんかな」

「だから言ったんじゃん、『楽しんでるところに入るのちょっとしんどい』って」

「長く居る人たちのほうが、新しい人が入りやすいような雰囲気つくるのが大事なんじゃね?」

「あとは、イベントとかごはん会とか、きっかけがあればだいぶありがたいんだろうねー」

「キャンプとかフェスとか行くのもそういうのがきっかけだもんね。うちは誘われるばっかだけど」

「おんなじー。誘ってもらうのはすごくありがたいよね。でもうち、逆に誘うの苦手なんだよね」

「あんま気にしないでいいんじゃん? 誰か誘ってみんなでどこか行きたかったら、ごはんのときに『〇〇行きたいんだけど』ってしれっと話してみたりすればいいし。みんなフッ軽だから、けっこう乗ってくれること多いしさ」

「でも、1対1とか、みんなどうしてんだろ。なにがきっかけでそうなったりするんだろうね。みんなネイバーズの中でってガッついてる感じもしないじゃん」

「それ、自分で言う?w」

「ほら、うちらは、あれじゃん、類は友を呼ぶ、みたいな?w」


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文化祭「Higashi-Jujo Neigbors’ Culture Day 2023」内で開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

「大人の文化祭」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.51)

2022年6月に、こんな記事を書いている。

ソーシャルアパートメントに暮らしています。2(ネイバーズ東十条の暮らし)

それから1年半くらいが経った。

あんだけ「ソーシャルアパートメント、なじむのしんどい」と言っていた自分が、「大人の文化祭」なる企画を主導してしまうところまできたのが自分でもびっくりだ。

“Share Our Culture!” をコンセプトにしたイベント・Higashi-Jujo Neigbors’ Culture Day 2023を、11月23日(木・祝)に開催し、現住人はもちろん元住人や住人の友人を含む50人を動員し、有意義かつ楽しい時間を過ごすことができた。実質的に「実行委員長」になった自分が、何を考えて企画を組んでいったか、記録に残しておきたいと思う。

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