初任者へおすすめの一冊2025 – 高田裕美『奇跡のフォント』

2022年の3月まで教員をしていたのだが、その当時の教え子から大学進学の吉報が届いた。それで2つのことを思い出した。自分が教員だったことと、そろそろ春が近づいている、ということだ。

2025年もまた、初任者たちが現場にやってくる。私はもうその現場を離れて久しく、年度の切り替わりという感覚は遠のいているのだが、それでも自分が、講師ではありながらも教員1年目を迎えた30歳の春の高揚感は思い出せるし、翌年以降に入ってくる新卒の初任者たちの初々しさもなんとなく覚えている。

2021年から2023年まで、私は、一般社団法人かたりすと・サイト “カタリスト for edu” の企画「初任者へおすすめの一冊」への寄稿をさせてもらっていた。2022年は1冊に絞れなかったので2冊目を自分のブログで紹介もした。

2024年は企画をお休みするとの知らせを得てもなお、勝手に執筆をした。

そして2025年。さすがに現場を離れて3年、もはや教育業界から離れてしまっている自分がなにを、と思いつつ、そういえばあと1冊あったんだ、と思い出した本があった。今回も勝手にそれを紹介したいと思う。


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機能的リーダーシップと情緒的リーダーシップ (シークレット・ライター#04 – 作品34)

体育館の入り口のところには、長らく使われた形跡のない並行棒が壁沿いに置いてあった。片付けの途中、そこに少しもたれかかり、ふと通りかかった音楽教師に声をかけた。音楽教師は、学年教員団の一人であり、また自分が部長を務めていた吹奏楽部の顧問でもあった。

「どうだったでしょうか」「僕はよかったと思っている」

実際に交わされたセリフに、確からしい記憶は一つもない。ただ覚えているのは、その瞬間に糸が切れるように涙と嗚咽が溢れてしまった、ということだった。クラス全員が集まるなかで担任が言葉をかけた時、周りが悔しさに涙を滲ませていた時には、涙すら出なかったのに。中学3年生の11月、文化祭の終わりのことだ。

中学校時代、文化祭の合唱コンクールでは、3年連続して最優秀指揮者賞を受賞した。もとより、学年あたり3クラスしかない小さめの学校である。そもそもの競争相手が少ないという話はあるが、それでも吹奏楽部にいたことや指揮の振り真似みたいなことをしょっちゅうやってしまう人間だったからか、いわゆる本物っぽい「振り」ができたのだ。

しかしそれは、奇異な目で見られてもおかしくはない。事実、中学校1年生の時は、どこか空回りをする感じがあったというか、「おかしいやつ」という目で見られるような感覚があった。実際はどうだったかはわからない。しかし、体育祭に比べても「やる気のない男子」の比率が高まる合唱コンクールにおいて、自分のガチ度と周りの温度感とのズレは、確かにあった。結果的には、学年の最優秀賞を取れた中1のとき。しかし、むず痒さがあった。

中2になり、担任が変わった。クラスづくりにおいて実力のある教員だった。彼女の不断のクラスづくりの仕掛けと、「間違いなく賞が取れる」という選曲の提案のおかげで、課題曲「Let’s search for tomorrow」と、自由曲「あの素晴らしい愛をもう一度」は、長らくたった今でも、振っていて楽しさを覚えていたことを思い出す。中1の時とは明らかに違って、指揮そのものも、合唱指導も、居心地良くできていたのだと思う。再び学年の最優秀賞をクラスで受賞した。しかし一方で、その練習の過程で、ピアノ伴奏の一人が、プレッシャーからパニックを起こしてしまう、という出来事も起きていた。

同じクラスメイトの構成のまま3年生を迎えた。9月の体育祭で、メインとなる4人5脚と総合得点との両方で勝利したクラスは、その勢いのまま文化祭期間に突入した。当然また、指揮者を務めた自分は、クラスを最優秀賞に導かんと息巻いていた。と、同時に、クラスはある決断をした。担任は、過去の他校での指導経験上、自由曲に「親知らず子知らず」という、歌詞は暗いが完成度を高めるとダイナミックに聞こえる曲を提案した。しかし、クラスの意思決定は、「『翼をください』を、アカペラで」というものだった。伴奏のプレッシャーをなくして、みんなで歌声を合わせたい、という意思決定。

楽譜は、インターネットで見つけてきた。アカペラだから、伴奏がない。その無伴奏を補う必要のあるアレンジを探してくるのは、少し難しかったことを覚えている。これなら大丈夫だろうとチョイスした楽譜は、しかしながら、間奏部分のハーモニーや、男性パートのハモりの音とりが、なかなか難しいものだった。伴奏がない分、音のズレが発生すると、顕著にそれが分かってしまう。かたや別のクラスは、昨年度の優勝クラスが歌った「青葉の歌」をチョイスした。個人的にも好きな歌だっただけに「あぁ、あっちの曲はいいな」と練習中に口から出してしまったことがあった。指揮者の発言として、士気を下げることにつながってしまい、ひんしゅくを買ったことも記憶している。

「緊張して険しい顔になっていると、こちらも緊張する。だから、指揮台に立ったら笑顔を見せてね」

こんな声を本番前にもらった記憶がある。自然と自分は、責任と、プレッシャーと、緊張と、その全てを抱え込んでいたのかもしれない。選曲と、楽譜選びと、そして曲作りと。敗因は、その全てに、自分があったと、今でも思っている。


小学生の頃から、学級委員的な立ち回りに好んで手を挙げていた。だがそうした役回り=「機能」が、必ずしも集団の中心的存在にならないことを、自分は体感してきた。高校生の時は、役割としての学級代表として行事の際の実務的な取り回しは行えども、体育祭や文化祭の際にクラスの精神的支柱となる「団長」ポジションになれることはなかった。何より決定的だったのは、中学時代、生徒会長選挙に落ちたことだった。選挙から1年後、卒業式で、想いを叫ぶ答辞を放った、私を下した相手の姿を目の当たりにした時、自らの「精神的支柱になれる」器の小ささを知った。彼はサッカー部部長だった。

このコンプレックスは、いまだに自分を苛んでいる。あのころよりも溶きほぐしはできてきているが、解脱はしきれていない。常に付きまとう「隣の芝生は青い」と「何者かになりたい」という欲に対して実態が伴わないような感覚が自分の中に蔓延っている。ここでの暮らしもそうだ。自分で自分を、中心に置いておけないように感じとらせてしまっている。そんな状態のまま、シェアハウスでの2回目の文化祭を迎えた。

ただ実のところ、機能を果たすことが自分の持ち味だということを、分かっていて立ち回っているのは自分でも分かっている。住人たちそれぞれの「好き」や「したい」が、誰にも後ろ指を刺されることなく解放されていくことを、自分の持ち味で作り出せたらいい、と、そう思えている自分がいる。それは今年、この物件に身を置きながら、徐々に自分の、癖の強い「好き」や「したい」が、実は受け止めてもらえるんだということに気づいていくことができた、その恩返しみたいなものでもあるのだ。

どうせなんとかなるし、なんとかする。枠組みさえあれば「精神的な中心」がなくとも、個は活きる。

なぁ思春期の自分よ。お前が「情緒的リーダーシップ」を発揮できなくても、「機能」を押さえられているなら、みんなの想いが集まって、物事は進んでいくから。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

母を、思い出せない。 (シークレット・ライター#04 – 作品30)

1991年10月4日。母が亡くなった。

この記憶が、私にはまるでない。もっといえば、母の記憶が、私にはまるでない。

私が生まれたとき、母は里帰り出産をしたようだった。生まれ落ちたのは、東京都立豊島病院。豊島といっているくせに板橋区にある。当然私が生まれた時の建物は古いものだったが、2000年ごろに建て替えられてから、ドラマ「ナースのお仕事3」のロケ地にもなったところだ。ドラマのクレジットを見て、少し心が躍ったことを思い出す。

私が生まれた病院は、母の実家にもほど近いところだった。東武東上線の中板橋という駅を降り、閑静な住宅街を歩くこと10分ほどのところにある弥生町という土地が、母の地元である。母の家から歩けるほどのところに、「ハッピーロード大山」という、都内でも有数のアーケード商店街がある。これを書く上で久々に調べてみて判明したが、なんと再開発のために取り壊しをしているらしい。

母の実家は、どうやら住宅建設業を営んでいたようだ。その詳細はよくわからないまま今に至るが、母の亡き後に母方の祖父母を訪ねていた時の記憶をたどると、建設用重機が駐車場に停められていた記憶がある。母は、3人兄弟の真ん中のようで、結局その家業は母の弟さんに引き継がれたようだった。母の姉は、奈良の方に嫁いだらしく、母方の祖父母とともに奈良を訪れた記憶が微かに残っている。ちょうど、300系新幹線・のぞみが、世に出始めたころだった。

聞くところによると、母の出身高校は豊島岡女子だったそうだ。池袋にある女子校で、近年では東大進学率も高く、医学部進学も多い、女子高としてかなり高い学力を誇る私立だったらしい。なぜかどの大学に進学したのかという情報はわからないのだが、大学生の頃の塾のアルバイトで豊島岡の高い学力レベルを知った際、それが母の出身校だと知ってかなり驚いたことを覚えている。

どうやら母は、茶道と華道の先生をしていたらしい。このことについてはこれ以上の情報がなく、30歳までカメラマンになる夢を追い続けて行方不明になっていた父とお見合い結婚をしたらしいのだが、いったい何が起きたらそんな結ばれ方になったのかについては全くもって謎のままである。あきらかに洗練された都会暮らしをしていたうるわしい女性が、池袋から1.5時間程度の距離とはいえ、北関東の田舎で工場を営む、夢破れた男のもとに嫁いだのだ、いったい何事か、というのが息子としての本音だ。

断片的に聞いた事実を紡ぎ合わせて「こんな人だった」ということを想像できても、私に記憶がない。

なんとなくおぼろげにある映像は、豊島病院の古い建物のガラス張りの入り口から、サーモンピンクのジャージを着た女性がこちらに手を振る姿を、タクシーから見ていたというビジュアルだけだ。悲しいかな、そのおぼろげな映像の中には、触れた温もりも、優しい声も、その顔つきさえも残っていない。

私を産み落としてすぐ、母はほぼ一つ返事で、お茶の水女子大学の児童発達の研究室の調査協力を承諾していたらしい。地元から東北線に乗り、当時1時間に1本だけ走っていた池袋行きを終点まで乗り通し、丸の内線の古い車両に乗り換えて、茗荷谷に至る。少し歩いて煉瓦造りのお茶女のキャンパスに至るというルートを定期的にしていたらしく、それが私の鉄道好きのきっかけだと、私は認識している。

いつだったか、母が私にしたためた手紙のようなものを見た記憶がある。そこには、丸の内線の車両が丁寧に描かれ、やさしさのある言葉が書き連ねられていた。私の好きなもので彩られた手紙は、その下地の色が水色だったような記憶がある。しかし、残念ながらその内容がまったく記憶になく、さらにいえば、その手紙がどこに行ったかまったくわからない。自分の薄情さが、悔しい。

母の死因は、大腸がんだと聞いている。まだ当時、「がん」という病気は、恐ろしいものとして捉えられていた時代だったはずだ。若くして、自らの細胞によって、自らの体が蝕まれていく状況。抗がん剤治療をしたのか、手術をしたのか、まったく聞かされないまま、ただその死因の情報だけが私の記憶に刻まれている。そのせいだろうか、健康には気をつけないと、くらいには思っているものの、それ以上に母について問いを立てることは、私の身には起きていない。自分の薄情さは、もはやなんなんだ。

母の亡き後、茗荷谷のお茶の水女子大学に定期的に出向く日々は6歳まで続いた。母方の祖父母はずっと気にかけてくれ、板橋の実家を訪れるべく東京に向かう日々は、盆と正月の恒例行事となった。池袋の東武デパートで買ってくれた、船橋屋のくず餅とまい泉のカツサンドは、東京でこそ手に入れられる贅沢な味として記憶されている。東京に住まう今でも、その味と光景は、特別なままだ。

そうした思い出や記憶は、母につながるものではあったとしても、母そのものの記憶がそもそもない。だから、思い出しようにも思い出せない。なぜかは知らないが、母が私を抱くような写真に遭遇したことがない。そのためか、母の面影を知る唯一のすべは、遺影に限られている。その遺影でさえ、自宅の仏壇に飾られることは久しく、それもあってか、母の存在を求めて寂しくなる、ということすら、自分の身に起きたことがなかったのだった。

母方の祖父母はすでに十数年前に他界し、そして私の父も8年前に亡くなった。いよいよもって、亡き母のことを直接聞ける人はいなくなった。ただ、私という存在が、亡き母の遺伝子を受け継いでいるのみになっている。生きていれば母は、私を小学校から私立に入れたかったそうだが、結果そうならずとも、納得感のある人生を歩めていることだけはせめて、亡き母に誇れるようでありたいと思う。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。 (シークレット・ライター#04 – 作品12)

気がつくと、東京方面の京浜東北線に足を踏み入れていた。上野駅で降りて銀座線に乗り換えるには、先頭車両はとても都合がいい。森山直太朗の「さくら」が流れる、天井の低いホームで電車を待っていると、レトロ感のある黄色い車両が流れ込んでくる。ちなみに私は高校生の頃、森山直太朗の曲を弾き語りしていたことがあった。「太陽」と「今が人生」が好きだ。

浅草に行ったところでさしたる用事はない。浅草寺をお参りするでもなく、仲見世を楽しむでもなく。というか浅草寺も仲見世も、昼間に行きようもんなら身動きが取れないほど人の波に苛まれてしまう。そういえば大学生のころ、連携協定を結んでいたドイツの大学から短期フィールドワークに来ていた学生のアテンドで浅草寺にいったとき、寺の敷地の中にある神社(そもそも神仏習合ってすごいよな)のしめ縄を指さされて「あの白いギザギザした紙の形の意味はなんだ」と聞かれて、「知らん」と答えたことを急に思い出してしまった。

用事がないのに浅草に出向いているのは、ただただ、大黒家の天丼を食べに行くためだ。

大黒家は、伝法院通り沿いにある。仲見世を、雷門方面から進んでいくと、両サイドにあったはずの店が、ある交差点を境に右側にしかなくなる。その交差点で、仲見世通りとクロスしているのが、伝法院通りだ。浅草寺方面に向かっていくとき、その交差点を左に見ると、頭上にでかでかと「伝法院通り」と書いてあるのでわかるはずだ。仲見世を左に曲がり、スカイツリーを背にしながら、浅草ROXが見える方に伝法院通りを進んでいく。そうすると、コロッケを買ってその場で食べる人だかりに遭遇するはずだ。昼間は歩行者天国になっているから、ここが道だということを忘れるほど、人が溢れる。

そんな伝法院通りを進むと、左手に「大黒家」の看板と、二階建ての古い家屋が目に入ってくる。ちょうど丁字路の角にあるその店の向かいには、デフォルメ似顔絵の「カリカチュア・ジャパン」がある。正直にいえば、あそこでデフォルメ似顔絵を嬉々として描いてもらっているカップルの気がしれない。そんな似顔絵屋を横目に、決して大きくもない引き戸を開けて店に入ると、決して大きくもないテーブルと椅子が所狭しと並んだ、昔ながらの風情の空間に案内される。

ちなみに、私は大黒家に、ランチタイムを狙っていくことは、まずない。並ぶ。観光客で並ぶ。インバウンド観光客も多い。旅行雑誌やネットメディアで紹介されているんだろう、つまり、そういう店だ。そもそも昼に行きようもんなら、仲見世の混雑に巻き込まれる。そもそも私は仲見世を通らずに至る。

ただただ、あの、真っ黒い天丼を食べるためだけに、ここに来る。安くはない、海老天2本と、小エビと貝柱のかき揚げ、という構成の天丼で、2,200円する。そのくせ天丼なんて昔のファストフードみたいなもんだから、長居もできたもんじゃない。それでも、あの天丼を「むしゃくしゃ」したいのだ。

あの天丼を表すオノマトペは、やっぱり「むしゃくしゃ」だと思う。天ぷらのくせに、サクサクしていない。あれはむしろフリッターというべきだろう、衣がしっとりとしている。そして何より驚くのは、真っ黒い、ということだ。天ぷらといえば、黄金色の衣に、タレが線状にかかっているビジュアルを思い浮かべるだろう。しかし、大黒家のそれは、おそらくだがタレにどっぷり浸かっている。そしてそれ以前に、ごま油でしっかり揚げられていることもあって、だから色が濃い。だが、もっと驚くべきは、味がいうほど濃くない、ということだ。

「大黒家」とネットで調べると、変換を間違えて質屋が出てきてしまう。「浅草」とキーワードを追加してまた調べると、食べログのページが出てくるが、口コミで絶賛されているわけでもない。なのに、ここに足繁く通ってしまうのは、ここがどこか、自分にとって「東京」を感じられるからなのだろう。

私はある時代に3年間、東京ではない土地で暮らしたことがある。関東に帰省する際に東京を通ると、必ず大黒家で「むしゃくしゃしてやった」。自分の心の置き所は、実は東京にあるのかもしれない、と異なる土地に居ながらも感じていたのだろう。怒りに任せるような聞こえのする「むしゃくしゃ」を鳴らしつつも、どこか安心感を覚えていたのかもしれない。

食べるたびに毎回、インスタに写真をアップする。その度に「むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。」とキャプションをつける。しかし、2021年11月29日は、少しその様子が違った。

「むしゃくしゃしてやった。ほんとうに、むしゃくしゃしている。」

 

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福岡に身を置いていたその当時、キャリアチェンジを図ろうと、2度目の国家公務員の中途採用試験を受けていた時期。人事院が実施した試験を突破し、各省庁の「官庁訪問」を受けていた。2020年は文部科学省一本勝負をして念願が叶わず、そして2021年には文科省と経済産業省、そしてデジタル庁の門を叩いた。文科省と経産省はオンライン面接だったが、デジタル庁がまさかの対面の面接。「デジタル」とはいかに。それで面接を受けたあと、経産省からもデジ庁からもお祈りの電話を受けたあと、自然と足は大黒家に向かっていた。なお文科省からはすでにお祈りされていた。「今年も、だめだった。」

罪悪感のある、真っ黒い天丼。海老好きの私にとっては贅沢の極みとも言える2本の海老天と小エビと貝柱のかき揚げをたらふく食べても、「反省はしていない」と言い切ってしまう。ここで、好きなものを食べることくらい、日ごろの「むしゃくしゃ」を思えば、許されたっていいはずだろう?

いつか、「むしゃくしゃ」したからではなく、純粋に自分の願いが叶ったことへのご褒美として、天丼を食べたいものだ。とてもどうでもいいが、大黒家の娘さんは夢を叶えて声優をしているらしく、このことをコミケに出展した日の帰りに大黒家に立ち寄ったときに知った。年末に大黒家で「大黒家」を調べていたら、店主の娘がコスプレで有明にいたらしい、という衝撃。好きな天丼を出す店の関係者が夢を叶えているのだとすれば、そのうち私だって、報われる日々がやってくると信じたいものだ。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。

「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

コミュニケーションをなんだと思っているんだ (シークレット・ライター #03 – 作品12)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。
なお、作中において槍玉に挙げられている「あいつ」は筆者・遠藤自身であり、特定の他者に向けられたものではありません。

テーブルに座ってごはんを食べているとき、ぼそっと愚痴っぽくつぶやいたら、突然スイッチを入れてきて、根掘り葉掘り聞いてきやがる。いちおう「スイッチ入っちゃっていい?」とは聞いてくるけど、でもそもそも、こんな話、みんながいるところでするものでもないだろう。

しかも、けっこう質問がするどい。というか、あんまり考えたことのないことを聞いてくる。すぐに答えられるわけないじゃないか、そんなもん。それに、誰が聞いているかもわからないところで、本音で答えられるとでも思っているんだろうか。本音なんて、なかなか出せないよ。

たしかに、悩みはあるし、そしてそれを話すこと・吐き出すことができるのは、この家に住んでいて「ありがたい」と感じる。いろんな生き方をしている人がいて、それぞれに価値観が違っていて、だからアドバイスをもらえると、考えの幅が広がる感じがする。

でもそれって、すぐにできるってもんでもないじゃん。どっかに出かけたり、飲みに行ったり、一緒にごはんつくったりして、それで少しずつ相手のことを知れるから、話したいって思えるんじゃないか。あいつ、いつもただテーブルにいるだけじゃん。みんなで飲んでても、あんまり絡んでこないし。

百歩譲って、話を聞いてもらえるのはありがたいし、考えたことがない質問をしてくれるのは、考えを整理するのに役には立っていると思う。でも、別に今そんなテンションで揺さぶられても困るし。それになんか、「スイッチが入った」状態で、なんかズケズケと入り込まれてくる感じがするんだけど。

いや、たぶん本人としては、自分のためを思って聞いてくれているんじゃないかとは思う。なんとなくそれは伝わるんだけど、それ、実際「あなたが知りたいことを聞いているだけなんじゃない?」なんて思ってしまう。いま答えていることって、自分が「ほんとうに話したいこと」なのか、自信はない。

いちおう、アドバイスを言いたそうだから、「どうしたらいいっすかね」と聞いてみると、逆に質問で返される。こっちが聞いてんだ、これ以上聞いてくんな。「思ったこと言っていい?」と聞かれたから「どうぞ」って促したら、めっちゃ長く語ってきた。長いよ、そんなに長いやつ、求めてないって。

そしたら流れで「俺の場合はさ」とか言って本人の話をし始めた。これ、こっちに対するアドバイスをしているんじゃないの? これもしかして、実のところ本人の話を聞いてほしいだけなんじゃないか?人の話を聞くふりをして、人に話を聞いてもらおうとするのは、あんまり気持ちがいいもんじゃない。

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。

そういえばこの前、ラウンジでおしゃべりしてたときも、なんかずっと同じ話題で話し続けている感じがあったな。気軽な会話でそんなにずっと同じ話題しゃべらんて。そうかと思えば、全然会話にも入ってこれない時もあるし。なんだろ、無理して話題についてこようとしてるというか。

あと別の時も、なんかしゃべってて、ずっとなんか頑張って質問されている感じがした時があったな。気を遣われているっていうか、なんとかして会話続けようとしているっていうか。そんな頑張らんでもいいのに。空気読もうとしてるけど、空気読めてないっていうか。バランス悪いんか。

もっと自然に振る舞えばいいのに。無理して話そうとしなくたって、別にこっちがそのモードだったらこっちから話するし、そのモードじゃなかったら静かにしているのを大事にしてほしいし。それにさ、聞いてほしいんだったら、素直にそう言えばいいじゃん、こっちに問いかけてその状況にしなくても。

ここにいると、みんなやさしくてあったかくて、だから寂しく感じなくて済んでるんだけど、だからといって、みんなと仲良くできるわけじゃない。合う人もいれば合わない人もいて、だからコミュニケーションの濃さも、グラデーションになるはずでしょ。別にそれでいいじゃん。

なんかあいつは、よく言えば、みんなとフラットに接しようとしているんだけど、裏を返せば、みんなと仲良くなろうとしていて、みんなから好かれようとしていて。でも、それ無理じゃん、って。平等に均一に、同じ濃さで関わるって、そりゃ無理だよ。コミュニケーションをなんだと思ってるんだ。

別に、みんなで盛り上がらなきゃいけないわけじゃない。別に、みんなと仲良くしなきゃいけないわけじゃない。無理してそんなことして疲れるくらいなら、やらなきゃいい。好きなように居ればいいだけのことなのに、それをこじらせて「うまく溶け込めてない」なんて思われても、知ったこっちゃない。

そういえば、あれだ、「みんしる*」だってそうだ。たぶん本人は、自分のことを聞いてもらうのが好きだから、人を選ばずに語るってのは得意なんだと思う。でも、みんなそれが得意じゃないし、みんなが自己開示をぽんぽんできると思ったら大間違いだ。自己開示は、人と場所を選ぶもんだろ。
*みんしる=物件内で行われるトークイベント、住人が自分自身のことを形式フリーで語ることができるイベントを月イチで開催している。

無理やり引き出されることをしなくたって、自分なりのやり方で、自分なりの心地よさで、この場所に溶け込んでいけるんだ。あいつだって、そうすればいいだけなんだけど、でもこっちの心地よさも尊重してほしい。ペースに合わせる、までしなくても、合わせようと様子を見てくれればそれでいい。

自分のことを基点にするのがコミュニケーションなのか? 相手ありきなんじゃないのか?

あいつは、コミュニケーションをなんだと思っているんだ。


「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

 

Beyond language (シークレット・ライター #03 – 作品27)

この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第3回に寄稿した作品です。

Over twenty-five articles from sixteen writers living in this social apartment reflect how diverse our share mates see their lives and communication here.  However, the language itself is still homogeneous, Japanese.

Japanese, which is one of the most difficult languages to acquire, is very beautiful to express the writers’ inner feelings and thoughts because of its diversity of vocabulary, ambiguity by absence of the subject, and variability of sentence structure.  And because of these, the articles under this exhibition called “Secret Writer” are striking readers’ hearts.  But, the experience of being moved by each article is limited only for fluent Japanese readers.

Here, I feel unconscious-exclusiveness.  Yes, even I, both the writer of this article and the organizer of the exhibition, excluded other languages users unconsciously.


There are several reasons why I organize the exhibition.  One is that there are many residents here who like to write essays or even work as professional writers, and I wanted to read their essays which reflect their feelings and thoughts through the social apartment lives.  Each writer has to hide their name from each article under the regulation of the exhibition, and this makes readers think who to write, and therefore communication among the residents occurs.

On the other, and moreover, I wanted to express myself through essays, not by verbal communication.  This is because I, who some residents recognize as talkative, feel lonely or being a minority in the community here, and this kind of my negative perspective for being a part of this community wouldn’t be appeared through the daily communication even I don’t hesitate hiding.  Because I can hide the name as a writer, I can express what I want to express more freely.

Surprisingly to me, not only me but also other writers put their inner feelings into the essays with their own way of the expressions.  Readers, and they are our residents in other words, encountered different aspects of writers which couldn’t be appeared in the daily conversation on the 2nd floor.  This is what both writers and readers enjoyed the exhibition the most.  But, we cannot share this delighted “re-discovery” of the residents here with non-native readers of Japanese.


I was so lucky that myself in childhood was both talkative and interested in acquiring English, now I can enjoy talking with residents from other countries even they cannot speak Japanese fluently.  One thing to add here, residents from other countries put so much hard work into learning Japanese and their fluency get tremendously better day by day.  I even appreciate, as one person fostered in Japan, their relentless effort for acquiring Japanese language and basic interests for the culture and habit in Japan.

Because of that, I feel a disappointment to myself that I couldn’t put the consideration for non Japanese users even though I hope to create a world where all people share the ideas of inclusion.  I always state that knowing and giving respect to each other are the basic keys to create a better future of inclusion beyond each difference.  The life in this social apartment is the right place for the actual practice, I suppose.


I cannot truly understand, and should not predict what the non Japanese users here feel or think.  But I imagine that living in a different country where one’s native language is limited to use makes one’s heart feel alone or being a minority.  But I strongly believe that we, as residents here, can melt such feelings by sharing a precious time in the same community.  Language itself is a one of the tools, but sometimes verbal communication doesn’t need the fluency of the language.  The interest and desire for knowing each other can go beyond language.  But on the other hand, we need to understand that languages themselves become the barrier for the desire to understand others.

The old proverb says “When in Rome, do as the Romans do”, but this couldn’t be a reason that native Japanese users here don’t put consideration to the non Japanese users here.  Or, even the distinction between Japanese users and non Japanese users is not appropriate for the mutual understanding as people under the shared community here.  I want to make the opportunity for participation into this community open for everyone.  And to enable this, I don’t want to make the opportunity closed into the Japanese language.

This is why I wrote this essay, with my regrets for less consideration for international members here.


I want to see each of you as individuals who have different interesting life-stories, many aspects of the life, and shared interests among the life in the social apartment.  We can be life-long “share mates” even though we spend a short time together.  At that time. our friendship can be beyond language, I believe.

So I promise you. I won’t make the language itself a barrier to our communication.  I won’t let you alone.



「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)

「言語化」を言語化する:相手の言語化を促すための 「いっしょにみとおす」問いかけ

比較的言語化が遅い人への接し方が不得意なんだけど、なんかコツを掴みたい

という悩みが、知人からもたらされた。思わず私は

出るまで待ってあげてくれ

とレスをしてしまった。

これが思いのほか自分の思考をぶん回してしまったので、他に書くべきことがある最中だが、結局記事にしてしまった。

「言語化が遅い人への接し方が不得意」には、おそらく2つの課題が含まれていて、それは

  • 相手からの言葉による返答が遅い(ので俊敏性を上げたい)
  • 返答が遅い人の対応がもどかしい(ので適切な接し方が知りたい)

ということだと思う。

で、ここでポイントだと思うのは、相手の言語化力をどう伸ばすか、ということと同時に、自分の接し方の部分をどう最適化できるか、という双方をセットで行うことの大事さだ。

当方、障害者雇用を担当している。また、教員だった経験もある。なにより、長らく続けてきたブログのおかげで、時折「言語化おばけ」と言われることもある。聞く側の私の言語化力の高さに比して、話す相手のそれとに非対称性があるようなケースも、多く経験がある。そして、私も、もどかしさを感じることがあった。

ではどうしてきたか。ここいらで少し棚卸しをしてみようと思う。

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初任者へおすすめの一冊2024 – 吉藤オリィ『ミライの武器 – 「夢中になれる」を見つける授業』

まだ少し寒いが、春は確実に近づいてくる。曜日感覚が薄れているが、もう3月になってしまった。

年度の切り替わり。日々奮闘する教職員たちにとっては、おわりとはじまりが背中合わせとなる時期。そしてもうすぐ、教育現場には「初任者」がやってくる。

毎年この時期になると、私は、一般社団法人かたりすと・サイト “カタリスト for edu” の企画「初任者へおすすめの一冊」を楽しみにしていた。それは読み手としてもだが、書き手として、という方が強く、お陰様で3年連続執筆、うち、Web掲載の1本目を2年連続で務めさせていただいた。

なんなら勝手にもう一冊紹介したこともあった。

しかし、2024年は、この企画をお休みにする、という知らせが届いた。2023年の時点で紹介する本は決めていたのに・・・

ええい、なら勝手に紹介するまでだ。

すでに教職を離れて2年、そんな私が何を言うか、と思われたとしても、初任者として学校現場に向かう尊い人々に、未来をつくる仕事に向かう人々に、その想いを託したい。

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業務報告書作成のコツ

業務報告書作成のコツは?

そんなLINEが、ある日曜の朝に来た。まだベッドに横たわっていた僕は、こう返した。

すでに頭のなかにあるんだけど、書くのがめんどいので後でやる。一日ちょうだい。

そしてそのままにしてしまい、結局コツを伝えないままでいた。ようやく、その「コツ」とやらを書き出すことができたので、ここでシェアしたい。

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ぼくたちは、災害に、無力だ (シークレット・ライター #02 – 作品15)

ぼくたちの元日など、お構いなしに

2023年を見送ってすぐ、珍しく元日から開いていた地元のカフェに向かう道すがら、けたたましく唸りをあげるスマホ。その刹那、ゆったりとしたゆらぎが、アスファルトの上で感じられた。

1月1日、16:10。マグニチュード7.6の地震が能登半島を襲い、最大震度7を記録する大きな揺れが、多くの建物を倒し、数々の道路を遮断し、有名な市場を焼き払い、津波と土砂崩れを引き起こした。

カフェに着いて、お気に入りのフレーバーカフェラテ(ストロベリー・ホット)とフレンチトーストを頼んですぐ、NHK+を起動してニュースで情報を見る。「たまたまうちの常連でPCに強い人たちが揃っている」と曰う店主。ラテアートを描きつつも、「どうなってる?」と私に聞いてくる。

NHKはひたすら、能登半島沖の映像を流しながら、女性アナウンサーが繰り返し叫ぶ音声を届けた。

「今すぐ逃げること。テレビを消して、いや消さなくていいです、いますぐあなたが逃げてください」

3.11の津波警報をおおごととして捉えられなかった人々がいた反省から、強い口調で警戒を呼びかける報道姿勢を「かくあるべし」と思いつつ、他のテレビ局も災害情報に徹し続け、結局、正月の風物詩である格付けチェックも東西ドリームネタ合戦も、埼玉県政財界人チャリティ歌謡祭も、放映がされなかった。ただ唯一、テレビ東京だけが「充電させてくれませんか」を放映した、精神衛生上それは救いだった。

多くの人が、能登に帰省をしていたはずだ。ジョージア国の大使も石川に観光に向かう道程だった。

みんなにとって、等しく・穏やかに訪れたはずの元日を、そんなことなどお構いなしに天災が襲う。

「人間の都合など知らん」と言わんばかりの自然の威力。ぼくたちは、災害に、無力だ。

ぼくたちは、自分と「おとなり」の命を守れるか

1月3日、同居人たちとの会話のなかで「防災備蓄を買った」という話になった。私はこれといって備蓄はしていないが、ふるさと納税返礼品のパックライスと湖池屋のポテトチップスがあり、また無印良品の「バウム」を大量購入していて、そして炭酸水が大量にある。ちなみに、冷凍食品は、無力だ。

備蓄まではいい発想だとして、さてあなたは、この家のリスクと、逃げ場所を、知っているだろうか。

大規模災害が発生した際の、東十条一体の「避難場所」=火災から逃げる開けた場所として指定されているのは、URの王子五丁目団地。ジャパンミートの手前側の、あの団地だ。一方、建物が住めなくなった時の避難所に指定されているのは、この家の近くの東十条小学校だ。

しかし、王子五丁目団地も東十条小学校も、そしてこの家も、ハザードマップによると、荒川が氾濫すると0.5m〜3mで、沈む。また地盤については、建物倒壊危険度も火災危険度も5段階中で3。東京都内の「丁目」の区切りのうち、危険性が高い方から並べて上から1/4以内に位置する、東十条2丁目。もちろん耐震工事はされているが、しかし輪島のあのビルの倒壊を見ると、我々も安全とは言い難い。

いざということが起きた時、ネイバーズ=おとなりどうしは、助け合うことができるだろうか。

その前に、自分の命を確保することはできるだろうか。そもそも、あなたは、逃げられるのか。

ベランダに物を置くことを禁じられているのも、「オリロー」を使った避難をする通路になるからだ。3階をのぞいて、奇数階は外側2部屋、偶数階は中央2部屋に、避難はしごが設置されている。ということは、奇数階は中央2部屋の上から、偶数階は外側2部屋の上から、人が降りてくる。その避難を妨げず、先に降りた人が後から降りる人を助けることができるだろうか。

オール電化のこの家は、電気がないとお湯すら沸かせられない。キャンプ好きな住人が多いのは幸いなことだが、104人すべての住人が身を寄せるには、いつもは広く感じる2階も、手狭がすぎる。

「いつか」がいつか、わからない災害。知識と覚悟に乏しいままでは、ぼくたちは、災害に、無力だ。

何かしたくても、何もできないぼくたち

過去の災害対応の蓄積から、地震発生後72時間は「緊急期」として、現地の自助で対応するのが通説とされている。その後、現地の状況が見えてきて、外からの支援を受け入れられるようになってきて、徐々に物資や人的支援が始まっていく。それまでの間、被災地外にいるぼくたちは、報道機関の情報に触れ続けることになる。

苦しんでいる人たちがいるのに、苦しんでいない、ぼくたち。

そんな状況下で大事になるのは、被災地の無事を祈りつつ、ぼくたちの心身を健やかに保ち、いつも通りの生活を営むことなんだ。

Yahoo!募金が、いち早く募金の受付を開始した。多くの人が「いまできることを」といって、募金をし始めた。一方で、募金先に迷うという声も多く聞かれた。ぜひ知っておいて欲しいのは、「義援金」は最終的に被災各県に集約されて被災状況に応じて被災者本人の手に渡るものということ。その一方で、現地への支援に入るNPOやNGOの活動を「活動支援金」として支える方法もあるということ。支援金は即効性があるが、義援金は直接支援になる。

ぼくたちの祈りを、どう届けるか、よく考えて欲しい。なおのこと、物資そのものの個人送付ほど、いまこのタイミングで迷惑この上ないことはないのだ。

北陸の冬は寒く、三連休には雪が降るらしい。思った以上に建物の倒壊も火災の焼け跡も凄まじい。

生活を何とか営める「復旧期」を超え、「復興期」に至るまでには、思ったより時間がかかるだろう。

今を苦しんでいる人の安寧を祈り、支援の気持ちを向けること以外に、ぼくたちは、災害に、無力だ。


この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第2回(テーマ:わたしの「ゆく年・くる年」)に寄稿した作品です。
「シークレット・ライター」のつくりかた(ソーシャルアパートメントに暮らしています。2.52)