1991年10月4日。母が亡くなった。
この記憶が、私にはまるでない。もっといえば、母の記憶が、私にはまるでない。
私が生まれたとき、母は里帰り出産をしたようだった。生まれ落ちたのは、東京都立豊島病院。豊島といっているくせに板橋区にある。当然私が生まれた時の建物は古いものだったが、2000年ごろに建て替えられてから、ドラマ「ナースのお仕事3」のロケ地にもなったところだ。ドラマのクレジットを見て、少し心が躍ったことを思い出す。
私が生まれた病院は、母の実家にもほど近いところだった。東武東上線の中板橋という駅を降り、閑静な住宅街を歩くこと10分ほどのところにある弥生町という土地が、母の地元である。母の家から歩けるほどのところに、「ハッピーロード大山」という、都内でも有数のアーケード商店街がある。これを書く上で久々に調べてみて判明したが、なんと再開発のために取り壊しをしているらしい。
母の実家は、どうやら住宅建設業を営んでいたようだ。その詳細はよくわからないまま今に至るが、母の亡き後に母方の祖父母を訪ねていた時の記憶をたどると、建設用重機が駐車場に停められていた記憶がある。母は、3人兄弟の真ん中のようで、結局その家業は母の弟さんに引き継がれたようだった。母の姉は、奈良の方に嫁いだらしく、母方の祖父母とともに奈良を訪れた記憶が微かに残っている。ちょうど、300系新幹線・のぞみが、世に出始めたころだった。
聞くところによると、母の出身高校は豊島岡女子だったそうだ。池袋にある女子校で、近年では東大進学率も高く、医学部進学も多い、女子高としてかなり高い学力を誇る私立だったらしい。なぜかどの大学に進学したのかという情報はわからないのだが、大学生の頃の塾のアルバイトで豊島岡の高い学力レベルを知った際、それが母の出身校だと知ってかなり驚いたことを覚えている。
どうやら母は、茶道と華道の先生をしていたらしい。このことについてはこれ以上の情報がなく、30歳までカメラマンになる夢を追い続けて行方不明になっていた父とお見合い結婚をしたらしいのだが、いったい何が起きたらそんな結ばれ方になったのかについては全くもって謎のままである。あきらかに洗練された都会暮らしをしていたうるわしい女性が、池袋から1.5時間程度の距離とはいえ、北関東の田舎で工場を営む、夢破れた男のもとに嫁いだのだ、いったい何事か、というのが息子としての本音だ。
断片的に聞いた事実を紡ぎ合わせて「こんな人だった」ということを想像できても、私に記憶がない。
なんとなくおぼろげにある映像は、豊島病院の古い建物のガラス張りの入り口から、サーモンピンクのジャージを着た女性がこちらに手を振る姿を、タクシーから見ていたというビジュアルだけだ。悲しいかな、そのおぼろげな映像の中には、触れた温もりも、優しい声も、その顔つきさえも残っていない。
私を産み落としてすぐ、母はほぼ一つ返事で、お茶の水女子大学の児童発達の研究室の調査協力を承諾していたらしい。地元から東北線に乗り、当時1時間に1本だけ走っていた池袋行きを終点まで乗り通し、丸の内線の古い車両に乗り換えて、茗荷谷に至る。少し歩いて煉瓦造りのお茶女のキャンパスに至るというルートを定期的にしていたらしく、それが私の鉄道好きのきっかけだと、私は認識している。
いつだったか、母が私にしたためた手紙のようなものを見た記憶がある。そこには、丸の内線の車両が丁寧に描かれ、やさしさのある言葉が書き連ねられていた。私の好きなもので彩られた手紙は、その下地の色が水色だったような記憶がある。しかし、残念ながらその内容がまったく記憶になく、さらにいえば、その手紙がどこに行ったかまったくわからない。自分の薄情さが、悔しい。
母の死因は、大腸がんだと聞いている。まだ当時、「がん」という病気は、恐ろしいものとして捉えられていた時代だったはずだ。若くして、自らの細胞によって、自らの体が蝕まれていく状況。抗がん剤治療をしたのか、手術をしたのか、まったく聞かされないまま、ただその死因の情報だけが私の記憶に刻まれている。そのせいだろうか、健康には気をつけないと、くらいには思っているものの、それ以上に母について問いを立てることは、私の身には起きていない。自分の薄情さは、もはやなんなんだ。
母の亡き後、茗荷谷のお茶の水女子大学に定期的に出向く日々は6歳まで続いた。母方の祖父母はずっと気にかけてくれ、板橋の実家を訪れるべく東京に向かう日々は、盆と正月の恒例行事となった。池袋の東武デパートで買ってくれた、船橋屋のくず餅とまい泉のカツサンドは、東京でこそ手に入れられる贅沢な味として記憶されている。東京に住まう今でも、その味と光景は、特別なままだ。
そうした思い出や記憶は、母につながるものではあったとしても、母そのものの記憶がそもそもない。だから、思い出しようにも思い出せない。なぜかは知らないが、母が私を抱くような写真に遭遇したことがない。そのためか、母の面影を知る唯一のすべは、遺影に限られている。その遺影でさえ、自宅の仏壇に飾られることは久しく、それもあってか、母の存在を求めて寂しくなる、ということすら、自分の身に起きたことがなかったのだった。
母方の祖父母はすでに十数年前に他界し、そして私の父も8年前に亡くなった。いよいよもって、亡き母のことを直接聞ける人はいなくなった。ただ、私という存在が、亡き母の遺伝子を受け継いでいるのみになっている。生きていれば母は、私を小学校から私立に入れたかったそうだが、結果そうならずとも、納得感のある人生を歩めていることだけはせめて、亡き母に誇れるようでありたいと思う。
この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。