#14歳の栞 を鑑賞して – 感想が溢れて流れ消えゆく前に

14歳の栞という作品を観てきた。

まず思うのは、この作品を新学期前に観ることができて、よかったと思った。

ある中学校の、ある年度の「2年6組」35人の3学期に密着したドキュメンタリー。その密着は、学級内に留まらず、部活や球技大会、家庭や習い事、さらには休日や放課後のプライベートの時間まで。誰かを切り取ってフォーカスするでもなく、視点を教師や親といった誰かに寄せるでもなく、作品自体が、35人それぞれを、一人ひとり見つめている。

いてもたってもいられず、感想を書くためにPCを開けてしまった。これは、Twitterに残すよりも、ブログに「ログ」として残しておきたい。

※ヘッダ画像は、チラシを写メってインスタにアップした画像です。
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高校生マイプロ2019九州サミットのファシリテーターをやった:後編・プロジェクトへの葛藤と成長

2月23日に、全国高校生マイプロジェクトアワードの九州サミットに、発表会場のファシリテーターとして参加した。そのことは、「前編・場づくり担当のあたまのなか」でも書いていて、自分にとって久々に心から楽しいと思えると同時に周囲からもお誉めにあずかったファシリテーションのポイントを書いた。ちなみにその後、『博報堂流 対話型授業のつくり方』(大木浩士, 2020)を読んだが、面白いほどに近い考え方で場づくりをしていたことが分かった。

ところで、僕自身は「プロジェクト」にものすごい強い思い入れがあることもあって、当日の午前中のブロック別プレゼンの場づくりにおいては「くやしさ」を一つのテーマにした。けれどプロジェクトを進める上では、「くやしさ」以外にもさまざまな感情がうずまくことが多い。そうした感情は、葛藤や悩みや引け目として訪れることもしばしばある。そしてこの日の午後、僕はそうした感情を持っていた、ある生徒と出会う。

ギリギリのラインで、ストーリーの一端を記述するので、もしかするとこの記事は今後お蔵入りするかもしれない。けれどこの話は、僕を揺さぶり、僕を「おせっかい」に駆り立てる、そんな話だ。前編をお読みいただいた上で読んでもらえれば、様相がありありと浮かんでくると思うので、前編と合わせてどうぞ。 続きを読む

宮古島での「 #人事ごった煮 」交流会の振り返り

今年も、宮古島に行ってきました。というのを大々的に言うのが憚られる時期に差し掛かってきましたね。もちろん、感染対策は十分に講じながら過ごしたのは言うまでもありません。

昨年は1泊2日でしたが、今回は2泊3日することができ、少し余裕を持った過ごし方をすることができました。昨年に引き続き、折りたたみ自転車を持ち込んで島内を走り、昨年は伊良部大橋を、そして今年は来間大橋と池間大橋を渡ることができました。癒される場所なのに、自分の体を酷使するというのは、なんとも変態的だなと自分でも思いますし、さらに言えば、ライドは前回の宮古島以来の1年ぶりだったので、劇的な体力低下を感じました。

さて今、帰りの飛行機の中です。今回の来島も「 #人事ごった煮 」というコミュニティの交流会への参加がその理由です。そこで感じたことを書き連ねることで、ここのところしばらくサボっていた文筆の感覚を取り戻したいと思います。

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生徒会役員向けに使ってきたフレームワーク集

生徒会役員の顧問教師をしている。

どうやら普通なら数名で担当する、それこそ各学年に1名ずつ担当者がいるようなのだが、勤務校は1人1分掌制なので、担当者は私だけである。昨年の12月に、ピンチヒッターとして参加した修学旅行のUSJの入り口で言い渡されたのがすべての始まりで、昨年度の担当者が早期退職をすることになったことに伴い、2020年1月から引継ぎ期間を持ちながら、2020年1月に代替わりした令和2年度の役員たちの顧問をしている。校長に「なんで私なんですか」と聞いたら、「その方があなたの引き出しを活かせると思って」とのことだった。

実際ここまで、確かに自分の引き出しを出せている感覚はある。

大学と大学院で研究をし、マーケティングリサーチ企業でマーケティングとデータ分析を経験し、人事として採用・研修・制度設計を担当し、教育団体でプロボノとして動き、ワークショップデザイナーとして学びと実践をしてきた人生であった。それを通して学んできたのは「わたしとは違うあなたと、一緒にうまいことやって、だれかに役立つことをする」というスタンスと、それを達成するための技術だった。特にその技術とは、相手と対話する、相手の納得と協力を引き出す、相手と事を成すために越えるべき課題を紡ぐ、といったことがらのために、考えを整理すること=フレームを用いることだと思う。

つい先日、1学期の生徒会活動の大舞台でもあった生徒総会が終わったのだが、あらためてここまでの活動で私が生徒に提示してきた「考え方」や「フレーム」を紹介していきたい。きっと誰かの役に立つことを願いつつ。 続きを読む

学年通信への文筆 – 「お互いを分かり合い、信頼し合う方法 – #BlackLivesMatterから」

※タイトルに書いた学年通信への文筆そのものは、この記事の中段にあります。

この仕事をしていると、「腹立つ」と思うことが多い。

思春期においては、それはどうしようもないことなのだと分かっているが、「うざい」とか「きしょい」とか「だるい」とか言われるし、こちらが授業で説明をしていたりすると(こちらがそう捉えるところとしての)不規則発言で遮られるし、そのくせ話を聞いていなかったり学習活動に取り組もうとしなかったりするし、それでいて挙句「先生の授業はわかりにくい」とどストレートに言われる。

去年の最初はそういう反応にガチギレし、その後そうした反応に心を痛めつけられ、今では「腹立つわ〜、マジ今感情がコントロールできん」と言いながら相手をいびるという形でようやくコントロールを図れるまでにはなってきたが、それにしたって「腹立つ」という感情から離れられないので、まだまだ甘ちゃんだし、んにしたってこちらも一人の人間なので、そこまで聖人君主然とはできない。

本題からずれた。前述したような「腹立つ」はどこか、瞬時にどうにか治められる感情で、まぁ「小さいこと」なんだが、それはこの仕事になってから増えた気がする。他方、前職時代にときたま感じていたような、誰に対してという訳ではないが、構造上存在するような、とうてい一人の力ではどうにかできるものではない、理不尽ともいえる状況に対する、ふつふつとした怒りは、感じることは減った。

しかし今週、詳しくは言わないが、隣のクラスのある状況に出会した際に、具体的な誰かにではなく、しかしその空間に横たわる雰囲気と状況に対して、久々にふつふつとした怒りがこみ上げた。それは、信頼関係にまつわることであり、そしてともすれば、それはどうしても人々の心に蔓延ってしまう、差別を生みかねない無意識の心の動きにまつわることであった。もちろんその怒りの矛先の一つには、自分自身も含まれていて、つまり自分もそういった「無意識」を発動しかねない気もしていた。

そうして僕は、その怒りがこみ上げた日の午後の授業で、#BlackLivesMatterを引き合いに出し、生徒たちにこう突きつけた。「君たちの雰囲気に、こうしたことを起こしかねないものを感じた」と。いや、行きすぎた表現だったかもしれない。それでも、自分への戒めも多分に含みながら、人は分かり合えないこと、自分に危害を及ぼすと思しき相手を無意識に遠ざけ敵視しかねないこと、それでも、あるいはだからこそ、わかり合う努力を必要とすること、という話をした。あまり響いた感じはしなかった。

それで、以下の文章を学年通信に著した。このブログ記事に書いた通り、昨年度に期せずして最終号となってしまった学年通信に好き勝手なことを書いて以来、自分の中のたがが外れて、本当に好き勝手書いている。どうしても、学年の雰囲気を鑑みたときに、これを書きたかったし、片方のクラスしか#BLMの話をしなかったので、もう一つのクラスにも知ってもらいたくて、知識も浅はかながら書いた。教頭先生チェックは通過したし、学年主任からは「文才が素晴らしい」と言われたので、思ったより「好き勝手」とは思われなかったようだ。


お互いを分かり合い、信頼し合う方法 – #BlackLivesMatterから

6月23日(火)には、避難訓練がありました。不審者対応の避難訓練ですが、その背景には、今から19年前の6月に起きた、大阪教育大学附属池田小学校での事件があります。8人の小学生の命が奪われた事件を二度と繰り返さないように、学校をみなさんの「安心・安全な場」にするためにも、教職員のみならず、生徒の皆さんも自分の身の安全を確保することを心がけたいものです。

一方で同じ日は、沖縄慰霊の日でした。4人に1人が命を落としたといわれる、太平洋戦争の沖縄戦が終結した日。多くの命が失われることになった戦争を二度と繰り返さないためにも、生きたくても生きられなかった人々に思いをはせるのもまた、とても大切なことではないでしょうか。

学年通信の担当者は思うのです。どうすれば、お互いを憎しみ合うことなく、分かり合えるのだろうかと。しかし人はどうしても、自分が見知らぬ存在を「自分の身の安全をおびやかす」と思い込み、遠ざけたり敵意を向けたりする習性があるようです。担当者が観ていたアニメ「ソマリと森の神様」というファンタジーでも、異世界の種族が人間のことを「種族の見た目が違うだけでどうして残酷なことをするのか」と言うシーンがありました。これは現実世界にもあることで、私たちが持ってしまいかねない心の動きでもあります。

今、アメリカでは、#BlackLivesMatter という運動が起きています。警官によって黒人男性が命を落とすこととなった事件から起こったこの運動の背景には、アメリカに存在する人種差別問題があります。様々な見方・考え方がある問題ですが、相手に対する印象【だけ】で相手のことを判断してしまう、人間の特性が引き起こした事件だったとも言えます。では、私たちにできることは何なのでしょうか。サンリオのキャラクターたちが、「よりよい友人や味方になる」ためのヒントを教えてくれています。

 

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Friends are always there for one another. Here are some tips on how to be a better friend and ally 💕

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「話を聴く(LISTEN)」
「支える(SUPPORT)」
「学ぶ(LEARN)」
「質問する(ASK)」
「認める(ACKNOWLEDGE)」

思春期を過ごすみなさんの気持ちは、心の成長過程の半ばであることやホルモンバランスの関係から、安定しないことも多々あります。だからこそこの5つのヒントから、互いに分かり合うためにできることを考えてみませんか。


確かに、日々腹が立つことは以前に比べて多くなった。それはきっと、前職時代までの「オトナ」のコミュニケーション、言い換えれば、交わされる語彙が豊富であり、また何らかの「共通目的」を持ったコミュニケーションだったものが、現職においては「生身の」コミュニケーション、または語彙数が豊富でないが故の感情剥き出しのコミュニケーションになったことが原因だと分かっている。私はまだ未熟なのだが、やっぱり先達側であるこちらが、心を広く持たないとならない。

で、別に自分が何かを言われるのであれば100歩譲ってしょうがないし別にいい。けれど、自分はこと他人に対して、というか信頼をおいている仲間に対して、その存在が毀損されかねない状況になると、どうしても「ふつふつとした怒り」を感じかねないようだ。どうして、こうも分かり合えないのだろうか。どうして、こうも分かり合おうとしないのだろうか。その問いは、自分が「それでも最後には、人は分かり合える」とどこかで信じていて、それが叶わないことに対する失望でもあるのかもしれない。

僕自身は、平田オリザ氏の「わかりあえないことから」という本に修士論文執筆中に出会い、そもそも他者は自分とは完全に異なる存在である以上、完全にわかり合うことなんて無理だ、というところからコミュニケーション行為を紡いでいく、という彼の論旨に至極同意したので、「分かり合えない」ことを前提にしている。余談だが、平田オリザ氏の論は好きだったが、その後受講した青学WSD育成プログラムで平田氏のワークショップを受けた際、僕が勇気を出して挙手して発言したのを公開処刑が如く思いっきり否定された経験があり、心理的安全が毀損された思い出があるので「ふざけんな」と思っている節はある。

話がまた逸れた。僕は、たとえ「分かり合えない」ことが前提であったとしても、それは分かり合う余地がゼロな訳ではないと思っている。むしろ、互いにとってのイイカンジの落とし所は存在すると思っていて、それを互いに探り合うことこそがコミュニケーションだし、その落とし所の積み重ねこそが信頼関係だと思うのだ。それが、私のVision・Mission・ValueのValueにおいている

「わたし」とは違う「あなた」と
いっしょにうまいことやって
「だれか」に役立つことをする

という表現につながっている。

相対する「あなた」が、「わたし」と違う存在だからといって、
ラインを引いて分け隔てていいのだろうか。

どこかに分かり合える部分がないかと探っていくことは、
そんなに難しいことなのだろうか。

いや、難しいんだと思う。その意味では、学年通信に記載したアニメ「ソマリと森の神様」で柴田理恵さんが声優を務めたローザおばさんが言っていたストーリーのなかでの人間の描写は真理だし、やっぱり「分からん相手は敵」というのは元来備わった防衛本能な気がする。だからこそ、その「本能」を解きほぐし、「分かり合えない」ことを、そのままにせず、少しでも「分かり合う」ための方法を学んでもらうことが、私の教員としての役目の一つだと信じてやまない。

サンリオキャラたちが提示した5つのヒントは、こうして記事を書いている自分自身に対してもまた、つきつけられるべきものだと思っている。決して生徒たちの意志ではなく、ただ彼らの成長過程が道半ばであるということからくる、語彙の少なさや感情表現の未経験さ、そして接する人の事例の少なさが故に生じてしまう、こちらが「敵意」と感じてしまったり、あるいは「コントロールしたくなる」情況に対してこそ、学び・尋ね・聴き・認め・支えるということが必要となるのだ。

この仕事についていると、自分が言った言葉はだいたいブーメランである。自分自身が「できた人間」である必要を感じるが、しかしだいたいそうもいかないので、「人間そこまで、分かり合えないし、完璧にはなれない」ことを前提にしながら、相手にていねいに接していこうとする気持ちは忘れないようにしたい。そうした接し方こそ、「分かり合い信頼し合う」ためのヒントを相手に配ることにつながると信じて。

【終了】「いま、それぞれの居場所から」 – 遠藤忍とフレンドたちによるZoomトークイベント

<このイベントは終了しました>

Zoomに課金をして、持て余したらいかんと思い、「イベントやったら需要あるかな」と投稿したら、思いの外いい反応だったので、調子に乗って登壇者を募ったら、なんと9人も申し出てくれたので、誕生日直前の土日に2時間×3セッションのイベントを企画しました。

承認欲求を拗らせ続けた私による、ちやほやされたいが故の俺得イベント。けれど「公共財、えんしの」としての自負のもと、乗っかってくれた仲間たちといっしょに、「いまここ」を見つめて、考えを深める時間を過ごしたいと思っています。

※「そもそもお前誰だよ」と思った方はこちら

全体のコンセプトや、各セッションのテーマと登壇者情報は、長くなるので以下に記載しますが、ぜひじっくり読んでいただいて、参加をいただきたいです。 続きを読む

【登壇者募集】誕生日前オンラインイベント「いま、それぞれの居場所から」

Facebookに

ちょっと使いたい用途があったのでZoomに課金してProにアップグレード。3ヶ月くらいは課金する予定です。ただほったらかすと持て余すので使い道があればとも思うんですが、「俺主催」イベントは、果たして需要があるのだろうか。もしくは、えんし…

遠藤 忍さんの投稿 2020年5月22日金曜日

という投稿をしたら、いいねのみならず、割とコメントもいただけたので調子にのりまして、イベントの開催を企画しました。日時は、私の誕生日の直前でもある6/20または6/21です。

昨年の8月に実施した、Teach For Japanのオフィスを借りたイベントと、人事ごった煮の枠を間借りしたイベントをしてみて、私が喋るだけでなく、私をハブにして他の人と一緒に話すというのをやると、案外面白いなぁと思ったので、そのスタイルでイベントを実施します。なので、一緒に喋ってくれる人を募集します。

フォームを開くにはこの画像をクリック

どうぞ、よろしくお願いします。 続きを読む

ワニが死んだ。僕は時々「死にてぇ」と思っていた。

ワニが死んだ。

とっても優しいワニだった。でも、ちょっとした勘違いやすれ違いで、気を揉んだり不安になったり違う自分になろうとしたりした。けれども、そのままの彼であることを周りも認めたし、彼もありのままに振る舞いながら、未来に希望を持っていた。

でも、そのワニが死んだ。

わかっていたこの結末を、しかし儚さをもって見つつ、生きることの尊さを感じる。しかしながら一方で、僕には時折「あぁ、死にてぇ」という感覚を持つことがあって、いつかはそのことについて書きのこそうと思っていたけれど、それが今な気がした。

職業柄、憚られることは分かっている。けれども多分、こう感じている人は、きっといるんだろうと思いながら。

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教育キャリアで迷う人への10の質問

2010年からの友人であり、Teach For Japan教員の先輩であり、新興ツイッタラーながらも教育界隈では絶大なインフルエンサーであり、それがゆえにいい意味で憧れと嫉妬を抱く相手である木村くんが、こんなことをつぶやいていたので、「記事書けよ」とハッパをかけたら「じゃぁ書いて」と逆に言われました。私としては追い込んでやって書かせるつもりでしたが、私としてもネタになるので、つい書き出してしまいました。

元人事であり、駆け出しの現職教員として、世に問うてみることくらいはしたいなと思ったので、「10のアクション」ではなく「10の質問」を作ってみました。

ちなみに、先んじてこんな記事も出ており、これを前提に書いた部分もあるので、参照してください。

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高校生マイプロ2019九州サミットのファシリテーターをやった:前編・場づくり担当のあたまのなか

2月23日に、全国高校生マイプロジェクトアワードの九州サミットに、発表会場のファシリテーターとして参加した。時すでに新型コロナウイルスの影響が出始めているところではあったので、なんとかイベント自体が開催できてよかったなと思う一方、これから書こうと思っている「プロジェクト」のことを思うと、なんというタイミングなんだろう、と思う。

突然の臨時休校となり、生徒たちには「学びを止めるな」というメッセージを発したが、それから数日経ってネットの意見を見ると、何とかして大人が子どもに「学ばせる」ことをしようとしている側面があるように思えてきたり、はたまた「こんな時くらい宿題とか教科学習とかじゃなくて、ボーッと考え事したり、本を読んだり、外遊びしたり、そういう解放をしてもいいじゃん」という意見を目にしたり、休校中の過ごし方については、余白を持たせるような言葉かけや手立てをとってもよかったんじゃないかと思うところがある。

それでもやっぱり、生徒たちへの願いとして「学びを止めるな」と伝えたいと思うのは、年度最後の授業でも語ったような、自分自身の原体験があるからだと思う。この状況下だからこそ、自分で学びを進めていく、あるいは、この状況をどうにか切り拓いていく、そんな活動が起きてきたっておかしくはないだろう。友人にこれを話したら、それは求めすぎだと言われたのだが、それでも私がそうした希望を「生徒たち」に持ったのは、マイプロ九州サミットで感じた、高校生たちの「プロジェクト」という挑戦を介して伝わってくるエネルギーがあったからに他ならない。

前置きが長くなったが、この記事では2つのことについて書こうと思う、と思ったら案の定長くなったので、前後編に分けた。前編では、出場各チームがブロックに分かれてプレゼンテーションを行うセクションで、ファシリテーターとしての私が場づくりで心がけたことを。後編では、プレゼンテーションを終えて振り返りをしているときに生徒たちから聞こえてきたストーリーを。そのどちらにも共通するのは、ポジティブな意味でもはや逃れられないと思うほどに、私の根底に「プロジェクト」が根ざしている、ということだ。 続きを読む