目分量の日常 – ここのところの料理習慣をめぐるいろいろ

物書きをしたい衝動に駆られ、テーマを募集したところ、いくつかのトピックが寄せられた。その中に「生きてきて一番美味しかった食事の時間」というトピックがあった。そこから発想を広げ、料理のことを書こうと思い立った。そこで思い浮かんだのが「目分量の日常」というタイトル。このタイトルと、冒頭のトピックだけを構想に携えて、どこに着地するかわからないエッセーを書き出してみたいと思う。


ここ半年で、キッチンに立つ頻度が増えた。

本当の意味での一人暮らしを始めたのは2019年の4月からのことで、福岡県飯塚市の、川沿いのワンルームに住んでいたわけだが、その物件にはミニキッチンしかなく、小さなコンロが一台だけだった。そもそも仕事が朝早くから夜遅くまでというスタイルだったこともあり、キッチンに立って料理をするという生活にはほどとおく、したとしても、スパゲティを茹でて、キューピーのあえるパスタソースを筆頭とする混ぜるだけ系のソースで食べるか、はたまたイオンの野菜スープの具という冷凍食品をコンソメで煮込むというものくらいしか食べてこなかった。

2013年から住み始めたシェアハウスには、いわゆる一軒家のキッチンがあったわけだが、大2+小1のコンロのセットが1台しかなく、それはそれとして、そもそも終電まで働くようなスタイルだったこともあり、料理をするという発想にすら至っていなかった。別に自分が作らなくても、とある同居人が冬場になると、毎回のようにチキンスープを「作りすぎる」ので、そのお裾分けの恩恵にあずかっていた。その物件は2年半で退去し、その後実家暮らしをしていたのだが、そうなればなおのこと、自分で調理をする必要はなかった。

そんな10年くらいの社会人生活を営んできて、ここ半年が、最もキッチンに立っている。自分でも、よく料理をするようになったもんだ、と思っている。

いや、全く料理ができないわけではなかった。確かに、自分のための食事においてはキッチンに立つことは少なかった。しかしなぜか、大学時代くらいからか、誰かの家で宅飲みをする、とか、大学時代のアルバイト先の恒例行事でもあった、地元の公園にあるコテージを借りて行う夜通しの飲み会の際、とか、普段料理をしないくせに、そういった場面では積極的に料理を作っていた。ある時のコテージ飲みの際、平野レミさんが考案した「バカのアホ炒め」を調理した時は絶賛されたし、1社目の同僚たちとよく開催した「泥酔部」という宅飲みでは、誰よりも率先してキッチンに立っていた。

 

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イベントごとにおける料理、というか「キッチンに立つ」という行為は、ある種の「場への貢献」みたいなものであり、それが自分なりの楽しみの見出し方だった部分がある。そのなかで、たとえばレシピサイトを見たり、あるいは「この食材とこの食材を組み合わせるとこうなるだろう」という予測を立てたり、そんなことをしながら料理が仕上げていくのは、それはそれで楽しかった。しかし、それを自分のためにする、ということには至らなかったのがこれまでの人生だった。


そんな自分が、ここ最近になってキッチンに立つ頻度を増やしていることには、自分としても驚きである。

一つには、時間的余裕ができたことがあると思う。今の仕事になり、8時間の労働で家に帰るようになった。そうすると19時にはだいたい自宅に到着できる。そうすると、料理をして食べるくらいの時間に対する心の余裕が生まれる。そうか、それまでの社会人人生では、よほど夜の時間を仕事にまみれさせていたのか、と気づくほどだ。

もう一つには、そもそも今住んでいる物件のキッチンがそれなりに大きいということもある。大2+小1+グリルという組み合わせのコンロが6台ある。100人に迫る勢いの人間が住んでいるのだから、それくらいの数が必要なわけだし、それでも足りないんじゃないかと思われるが、案外混むことはない。ここで言いたいのは、一軒家にあるレベルのキッチンがあると、せせこましいミニキッチンよりも幅が広がるのは当然だろう、ということだ。

だからといって、手の込んだ料理をするかというと、そういうわけでもないだろう。実際、今の物件に入居した半年前は、ひたすらに「ずぼら料理」をしていた。スバゲティを茹でて、あいかわらず「あえるパスタソース」と絡めるだけ。いちおう、なけなしの健康への気遣いとして、冷凍ブロッコリーを一緒に茹でて添える。3年間の福岡生活と変わらないようなメニューがしばらく続いた。

少しだけ毛色を変えたのが、「地獄蒸しもどき」だ。福岡を離れる直前に、友人を訪ねて滞在した大分・別府で食べた、温泉の蒸気を利用した蒸し野菜。ザルのうえにキャベツとしゃぶしゃぶ肉を乗せて、蒸しあがったらポン酢と共に食べる(下のインスタ投稿の5枚目がそれだ)。ほんとうにサウンドが「むしゃむしゃ」という音がする。たいへんお行儀の悪い食べ方になる、この「地獄蒸し」の再現を試みた。ほぼ必要な調理器具が揃っているキッチンにあって、蒸し料理用の機材がなく、100円ショップでザルを購入したくらいだ。

 

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調味料や油を必要としない料理習慣。それがいつのまにか、少しずつバリエーションが増えてきている。油を使い、何かを炒めるようになった結果、油がはねて服につき、それを落とすためにわざわざクレンジングオイルを買いに行ったという出来事も起き、結果エプロンをつけるようになった。エプロンと共に台所に立つと、同居人たちが「料理が上手そうに見える」と言ってくれる。しかしそれは誤解だ。同居人各位よ、騙されてはならない。


しかしなぜ、そんなに料理をするようになったのか。それはひとえに、同居人の仲間たちと畑を耕すようになったことがきっかけとして大きい。現在は、冬野菜への仕込みに向けて、収穫は一旦おちついたのだが、自分が関わるようになった6月以降から、夏場は大量のきゅうりとトマトと茄子、時おり空芯菜やカブといった葉物、夏の終わりから秋にかけては依然として茄子、そしてピーマンが、毎週のように収穫された。そしてそれらは、だいたい収穫を楽しまれこそすれ、共用冷蔵庫に眠る始末だった。

土いじりは楽しいが、収穫した野菜は消費しないとどんどん悪くなる。あまりに悪くなりすぎて、とても言葉で形容しがたい状態になった茄子を冷蔵庫で発見した時には、何も言葉が出なかった。みんなが食べないなら、私が食べねばならぬ。そういって、収穫された野菜をいかに消費するか、という頭が働くようになった。すると、この野菜にはこれを合わせて、という発想をすることが増えてきた。

といいつつ、結局主食となるのはスパゲティである。炊飯器を持っていないため、米を炊くのがめんどくさいという発想から、いつも主食をスパゲティにしてしまう。そんなにスパゲティだらけで飽きないのかと思われるかもしれないが、私は案外、同じものを何度食べても飽きを感じない人間なので問題ない。それに、スパゲティを茹でるのは本当に手軽である。その、スパゲティに、何を合わせるのか。その発想が、野菜の消費という目的において、格段に広がった。

オリーブオイルににんにくペーストを入れると、ペペロンチーノの手前である「アーリオ・オーリオ」になる。その味だけでも十分だと気付いてから、スパゲティに絡めるものの選択肢が「あえるパスタソース」以外にも広がった。この、オリーブオイル+にんにくという組み合わせに対しては、野菜とベーコンを入れればそれで充分、というレベルになる。その手間を惜しまなくなったのは、過去の自分に比べたら大進歩である。


畑では、夏場にかけてバジルを育てていた。水分を嫌うトマトの横にバジルを植えると、植え合わせがいいらしい。バジルとトマトが食べ合わせもいいというのは、育てる面でも合理性があるらしい。そんなわけで大量に収穫されたバジルだが、そのまま食べるには用途が限られるということで、バジルソースを作った。オリーブオイルを用いてミキサーでバジルを粉砕し、出来上がったバジルソースを冷凍保存する。これがまた、自分がつくるスパゲティのバリエーションを増やした。なす、ベーコン、そしてバジルソース。この組み合わせは最高だった。

 

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夏場にきゅうりの大量発生を経験した時には、ひとまず悩ましさを覚えた。それなりの細さであれば、生で食べるのが最高!というのがきゅうりという食材だが、週に1回くらいしか収穫に行けない我々だから、「これはズッキーニか?」と思うほどの大きさに育つこともある。大味、と呼ばれるそのレベルになると、まぁ大きいくせにあまり美味しくない。しかし食べないわけにもいかない。

そこで、熱処理をあまり加えないはずのきゅうりをつかったパスタを作った。中のタネの部分を取り出し、繊維質のあるほうを短冊切りにして炒める。相変わらずオリーブオイルとにんにくの組み合わせで味付けし、肉っけはベーコンで補う。そうして完成した、世にも珍しい「きゅうりのパスタ」は、予想に反してきゅうりの繊維質の食感が残り、「悪くはない」味となった。もはや自分にとって、料理が「実験」と化した瞬間だった。

9月の中旬に、陸前高田を訪れた。3泊のワークショップに参加する中で、その主催者の一人が取り組んでいる「シーベジタブル」の、すじ青のり生産の様子を見に行ったのだが、その青のりがパスタに合うという話を聞き、お土産に買って帰ってきた。しかも、その人曰く、香りが高い分、オイルベースよりもバターに合うとのことで、バターパスタづくりを試みた。海でとれた青のりだから、具材は海鮮がいい。エビ好きの私にはもってこいのメニューだ。

 

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しかし初回は、あまりに早いタイミングで青のりに火を通してしまい、また青のりをほぐさずに入れた結果、あまりおいしくない仕上がりになった。数回の試行錯誤の末、すじ青のりをきちんと粉砕しておくこと、麺を絡めるタイミングで青のりを入れることを心がけると、香り高いバターパスタに仕上がることがわかった。ところが、スーパーで買った小エビに火を通すと、残念なくらいにエビが縮こまってしまう現象が生じた。その問題の解決には、まだ至っていない。


このように、私の「パスタ」をめぐる試行錯誤は、もはや料理というよりも「実験」の連続なのである。これだけインターネットでレシピを探すことが当たり前の日々にあって、いっさいレシピを見ず、「なんとなくこんなかんじかな」で料理をしている。パスタであれば、ある程度それが許されるような気がしている。考えてみれば、パスタといえば聞こえがいいのかもしれないが、主食を具材とともに絡めるようにして炒めるのは、チャーハンと変わりないと気付いて、ハッとした。

前述の通り、エプロンをつけてキッチンに立つと、「料理がうまそう」と同居人に言われる。ある時、とある同居人から「レシピは見るんですか?」と聞かれ、「全然見ない。感覚でやっている」と伝えた。それで自分でも気付いた。日々の調理が、ぜんぶ目分量なのだ。だから、味が安定しない。しょっぱすぎる時もあれば、味がしない時もある。だいたい、そういう振れ幅は徐々に落ち着いてくるはずなのだが、まだその安定を見ない。その意味では、味付けはなかなかに難しい問題だ。

ある夜、共用のリビングで過ごしていると、同居人から「えんしのさん、ネギいりませんか?」と問われた。ネギか・・・ 用途に困りつつ、ひとまずもらうことにした。ネギに合わせる具材があるとすれば、しらすだろうか。その発想になってから、ネギとしらすのパスタ、という着想が湧き、作ってみることにした。もちろんレシピは参照しない、目分量の料理。結果、ベーコンも入れることにして、いつもの「アーリオ・オーリオ」にした。

結局、ねぎは2本もらったので、初回に1本使って作ってみたところ、確かに美味しかったのだが、やや調味料を使いすぎたようで、しょっぱさが残ってしまった。リベンジと言わんばかりに、これを書いている直前の昼食でもう一度作ってみたら、今度は少し塩気が足りない感覚を得た。あと、ネギの切り方を、1回目は半月切りにしたのだが、今回は1/4にカットしたため、1回目に感じられたネギの甘みを、今回は出せずに終わった。

 

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今回はこうだった、次はこうしてみよう。そんな考えを巡らせながら料理をするのは、意外におもしろい。そう思うようになり、幅が広がったのは確かだ。しかし、セオリー通りに物事を進めようとせず、自分の独自の路線を進もうとするのは、極めて自分自身らしいとも思える。そろそろ寒くなってきたこともあり、クリームベースのパスタにも挑戦してみようと思い始めているが、それも「ん?これは違うな」みたいな試行錯誤を繰り返すことになるのだろう。


それで、思った。自分の日常は、自分の料理スタイルよろしく、だいぶ「目分量」である。

誰かが作った、レシピという名のセオリーにしたがい、材料もその量もその通りにし、手順の示すままに作ることで、安定した味を享受できる。一つの型に従うのも、成功を手にするための最短ルートとしては適切だ、というのはわかっている。実際、私自身の好きな言葉に、千利休の言う「守破離」があるくらいだ。しかし、日々というのは、そのセオリー通りにいかないのが常であろう。

ここのところ、仕事において「コミュニケーション」を取り扱うトレーニング講座をデリバリーしている。しかし、やればやるほど、コミュニケーションという営みの曖昧さを感じる。その絶妙な塩梅を整えていくとき、まさにそれは「目分量」なんだと思う。相手との「うまい」状態を築く上では、自分の手元と、相手の様子とを見極め、その媒介となるコミュニケーションの加減を調整していく。さながら、調味料による味付けに似てやしないだろうか。

昨日採れた茄子があるはずだ、とか、同居人からネギをもらった、とか、この青のりを買って帰って使ってみよう、とか、そうした「手元にあるもの」で、「うまい」ことする、というのが、自分自身が得意とするところであり、また楽しんでいる営みであることを、自分自身がよく知っている。レシピ頼らず、自分流に作ってしまうというのは、料理にせよ仕事にせよ、共通する部分があるのだな、と思うに至った。

目分量というのは、何も調味料に限ったことでなく、自分の腹の具合に合わせた材料の量しかり、その材料たちを炒めたり茹でたりしている間の出来具合しかり、目の前で繰り広げられる「料理」にまつわるプロセスを、目で分かるがままに捉えて推し量っているわけだ。日常のコミュニケーションや、私が得意とするプロジェクト運営なり研修デリバリーなりにおいても、同じように「目で分かるがままに捉えて推し量る」ということをしているように思う。

たしかに、出来上がりの「味わい」に安定がみられないかもしれない。しかし、あまりにもダメ、という「味わい」になった試しはない。少しずつ試しながら、ちょうどよいあたりを探っていく。その感覚を、自分の中に蓄えていきながら、ちょっとずつ新しいことを試していく。案外、目分量の日常を過ごしていくほうが、レシピ通りよりも面白かったりするのかもしれない。

なんてな。

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