「生きづらい」ということばが、さまざまなところで聞こえてくる世の中になった。それまでの世の中では顕在化しにくかった、あるいは、表出させづらかったさまざまな「生きづらい」を、世に放っても受け止めてもらえるようになったのかもしれない。あるいはそもそも、世の中に発するための方法が多くの人の手に渡ってきた、とも言えるかもしれない。
しかし、依然として「生きづらい」というのは、大きなもの・深いものと捉えられるように思えていて、そしてその「生きづらさ」に対してさまざまなラベリングがされるようになってきたが故に、そのラベリングにハマらないものは、かえって「生きづらい」というには及ばないようにも思える。きわめて個人的な、うっすらと感じる「生きづらさ」を発することが、かえって申し訳ない、と思うほどに。
しかし、いかにそれが、うっすらと感じる「ゆるやかな生きづらさ」であったとしても、自分にそうした感覚があることには違いなく、その「ゆるやかな生きづらさ」を、どうにかやりくりしながら、それでもなんとか生きている。共感してほしい、というよりも、自分はただ、そうした「ゆるやかな生きづらさ」を、受け止められる存在でありたいと思うが故に、ただここに、吐き出しておきたい。
そんなシリーズ。1本目は「酒が飲めなくなった」という、「ゆるやかな生きづらさ」。
もともと酒は強くない人間で、2時間半の飲み会でビールジョッキ1杯をようやく飲み干す、みたいな飲酒量が、何事もなく安心して家まで帰ることができるくらいの許容量、という具合だった。調子が良ければ2杯目にハイボール、というのも行けた時期はあったが、だいたいは飲み会では1〜2杯が関の山という人間。それが、コロナ期前までの自分の姿だった。
飲み会は嫌いじゃない。自分から誘うことはなくとも、人と飲みに行くこと自体は好きである。大人数での飲み会や、初めましての人との立食パーティーは苦手(このあたりのことはまたこのシリーズで書くとする)なのだが、気心の知れた人、それこそ古くからの友人や会社の同僚と行くのは案外好きである。一社目においては忘年会などに力を入れることが多く、幾度となく出し物に興じたものだ。
しかし困ったことに、飲み会を好きだと思うのは、その場に出てくる食事はもちろん、交わされるコミュニケーションがあるからなのだが、残念ながらその大前提となる酒が苦手である。何が困るのかというと、酒を飲むことで、反対に食事が喉を通らなくなり、そして酔いが回ることで体調を崩し、かえって話ができなくなる。飲み会で酒を飲むという主目的に興じると、自分が好きだと感じる要素に手を伸ばす前に力尽きる。
2022年の4月に東京に戻り、そこからいろんな友人と食事にいくようになったのだが、大学時代のアルバイトの仲間との飲み会で、たった1杯のグラスビールでかなり酔いが回ってしまった、ということを経験した。このことは、自分をしてかなりショックな出来事だった。体、主に首筋は熱を帯び、胃は動転するかの如く、そして意識は遠のき、口数は減る。
何よりもショックだったのは、「えんしのさん、次にこのメンバーで食事に行くなら何を食べたいですか?」という後輩からの質問に対して、「ごめん、いま食事のことを考えるどころの話じゃない」という返答をしたことだった。神楽坂の美味しいイタリアンでのその出来事。お手拭きに水を含ませては首筋を冷やして、なんとか吐くこともなくその飲み会を過ごしきったのだが、そこからほとんど、飲み会で酒を飲むことを避けるようになった。
この世の中はどこか、酒を飲むことが一つの前提になっているように思う。ご存知の通りソーシャルアパートメントに住んでいるわけだが、夜に共用部で仲良く盛り上がっている人々は決まって、酒を酌み交わしている。自分の身を守るためだといって酒を手にしないと決まって「飲まないの?」という言葉が出てくる。楽しい時間を共有しようよ、という誘いの根底に流れる優しさには感謝だが、しかし申し訳ない、私は酒が飲めないのだ。
大人のコミュニケーションには間違いなくつきものである飲酒。それはまさしく「当たり前の前提」であるように思えてしまう。世の中みんなが酒を飲めることが当たり前で、酒飲みはマジョリティだと言わんばかりのこの社会。そこに加われないような気持ちになる寂しさの一方、私の周囲は、飲めないことで邪険に扱うことはしないのだが、しかし飲めない人間がいると、飲める側の飲酒量には一定セーブがかかるはずで、そこへの申し訳なさが生じてしまう。
しかし勘違いしないでほしい。これは、酒が飲めない人間による酒飲みへのやっかみではない。そしてここまで私は一言も「酒が嫌いだ」とは言っていない。むしろ、味は好きなのだ。味が好きでさまざまな種類を楽しみたいという思いはあるのだ。日本酒も、焼酎も、ワインも、ウイスキーも、どれも味は好きだ。なんなら毎年新潟の雪合戦大会に行っていたころは日本酒が一番好きだった。
好きなのに、そしてかつては飲めたのに、晩酌はせず飲み会ドリンカーだったからか、コロナで飲み会が減ってからというもの、一気にその機会が減った分、いきなり体が受け付けなくなっていた。好きだったものを体に入れようとすると、体が拒否反応を示してしまう。楽しく酒を交わす場に行って、結局楽しくなれずに時間を過ごさねばならなくなる結果。だからといってノンアルを選んでも、うっすらと感じる敗北感。
「飲んでは吐き、飲んでは吐きをして、慣れるもんだ」と亡き父は言った。しかし父よ、アルコールの分解に不得手である性質はあなたからの遺伝なわけだ。結果、酒の飲み過ぎで肝硬変を起こしたあなたを思えば、「吐くほど飲め」というアドバイスには従いたいとは思わない。いや、慣れの問題だろうと思い、自宅の冷蔵庫に低アルコール飲料をストックしてリハビリを試みたこともあった。リハビリ以前に、やはりすぐに酔いが回って中止した。
それぞれが、好きな飲み物を片手に、楽しい時間を過ごし、そのそれぞれの「好き」と「楽しい」を、互いに「それでいいよね」と言い合えればいいんだろうが、飲める側も飲めない側も、どこかに遠慮を持っていやしないだろうか。もっとも、「飲み放題」は自分にとってあまりにも不公平なシステムであるという発想は、とうの昔に通り越してどうでもよくなっている。しかしなお、酒が苦手であるコンプレックスは、抜けない。
これを書くことによって、共感を得たいわけでも、慰めてほしいわけでもない。自分でこうして書き出すことで、昇華させたいだけなのだ。所詮は「ゆるやかな生きづらさ」という、明確な主張をするには至らない、淡い感覚でしかない。ただ、どこかには同じような思いを抱いている人がいて、「あぁ」と重なる部分が少しでもあって、同じく昇華されるところがあれば、ただそれでいいのだ。
「ゆるやかな生きづらさ」にあって、それでも、生きていく。僕の生き方というのは、そういうものなのだから。
<予告>
②交流会での初対面が苦手
③「趣味は?」という質問の答えが見当たらない
書いたところでどうにもならない新シリーズ。書き出してみて思ったのだが、外野からすれば「大したことない」という悩みは、本人からしてみれば「大したこと」なわけで、それはみんな同じなのかもしれない、と。
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