アメリカでの臓器移植が成功した神達彩花ちゃんのニュースを見ました。
それを見て思ったことを書きました。彼女のために俺は何もできませんでした。しかし、何か書き残しておきたいと思って。
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勇気の人:杉原千畝に思う
杉原千畝という人をご存知でしょうか。先日日テレでドラマやってましたね。俺も見ました。この記事もそれに触発されて書いたんですけどね。彼の行動こそ、まさに勇気ではないのでしょうか。そう思えて仕方ありません。
ドラマから彼の生き様を整理しましょう。
第二次大戦に入る前、外交官であった千畝は満州鉄道の領有権に関する日ソの会合でソ連を打ち負かしました。やり手の外交官として名が轟いた千畝はソ連・モスクワへの派遣を命ぜられます。しかしソ連政府は彼の入国を拒否しヘルシンキに派遣されます。この少し前に妻の幸子と結婚する訳です。彼はバルト三国の一つ、リトアニアへ派遣されます。ここには日本の領事館がありませんでした。彼は一から領事館を立ち上げます。その後現地の人々と交流するなかでユダヤ難民達に出会うのです。ナチスの迫害から逃れてきた彼らは日本の通過ビザの発給を千畝に求めます。しかし日本は十分な条件を満たさない限りビザの発給はできないとしていました。ある日、領事館の前に多くのユダヤ人達が集まりました。ビザの発給を千畝に訴え、発給されるまでずっと待ち続けたのです。千畝は本国外務省に発給を要請しましたが本国の回答はずっとNoのまま。さらに、侵攻してきたソ連軍から領事館退去を命ぜられることに。苦難の末、千畝は自らの進退を捨ててユダヤ難民にビザを発給することを決意しました。その噂はリトアニア全土に広がり国中からビザ発給を求めて多くの人が押し寄せました。休む暇もなくビザを書き続けた千畝、領事館退去後も滞在先のホテルでビザを発給し続け、リトアニアを離れる際も列車の発車ぎりぎりまでビザを発給し続けたのです。戦後千畝は外務省を解雇されます。これはGHQの公務員削減計画による物ですが、一節によれば大量ビザ発給が原因ともいわれています。数年後、千畝はイスラエル政府からヤド・バシェム賞を授与され、諸国民の中の正義の人に列せられています。千畝の死後からしばらく経って、外務省は千畝の行動を評価し記念碑を建てたのでした。妻幸子さんが本を出版、それが今回のドラマの原作となったのでした。
日本のシンドラーと言われる杉原千畝。彼の、命を救いたいという思いと大いなる決断・行動、そして妻幸子の「私のことはどうぞ気になさらないで」(ドラマより引用)という決断はまさしく勇気ある行動であったと思います。最後まで難民を救いたいという一心でビザを書き続けた彼の行動は、戦争に近づきつつあった世界で人間の生きる価値・尊厳を守った大いなる行動だと思うのです。「命を守れない者に、国は守れない」(ドラマより引用)この言葉は、劇中の言葉で最も心にしみた言葉です。当時は人間の命が軽んじられていたと言ってもおかしくはありません。多くの犠牲者を出す戦争が国を守る行為と言えるのか、そう考えさせてくれた言葉でした。自分が将来、政をやろうとするときに、このことを基本の考えとしてやっていかなければならないと痛感しました。世界で困っている人を同じ人間として助けたい。当時の社会ではまれだったこの考え方、しかしいまはそのような考え方をする時代はとっくに終わっているはずです。慢性的な飢餓・貧困に苦しむ地域、未だ戦争が続く地域、不幸にして災害に見舞われた地域。世界には困っている人がたくさんいる。その人たちを救う事こそ国、いや世界を守る行為になるんでしょうね。
あの、目を覆いたくなる殺戮が繰り返された時代、常に殺戮の恐怖におののいていた人々にビザを発給した杉原千畝は、いつ死ぬのか分らない恐怖を生きる希望へと変えた。その「生きる希望」こそが平和の原動力になるのではないのでしょうか。
「生きてやるぞ」劇中で、千畝達の乗った列車に向かって一人の男性がこう叫びました。これは単にドラマ上の演出かもしれない。でもこの「生きてやるぞ」の一言が、千畝の行動の全てなのだと思うのです。
おかえりなさい
久しぶりの勇気の日です。テストが開けたら勇気の日に取り組んでいこうかと思っています。とりあえず今日は本日起きたストーリーを。
学校からの帰り道、家の前を掃除する一人のおじさん。と突然、「はいお帰りなさい」と声をかけられた。実はそのおじさんとは・・・・・・面識などあるはずがない。しかし、その時、妙に清々しい気分になった。こちらも笑顔で会釈をした。なんて言ったらいいかは分らなかったので、それしかなかった。
それから歩いていくうちにふと思った。こういうことが日常的にある社会ってのが治安のいい社会なんじゃないのかなって。もちろんいまでもそういうことはある。でもそれはせいぜい近所のおばちゃんなんかの場合が多い。見知らぬ人から「おかえりなさい」なんて声をかけられるなんてことは、まずない社会になっていると思う。でも、昔はそういうことが常にあったんじゃないかなぁと思う。これは単なる予想であるが。昔は近所のおばちゃんやおじちゃんが子供に気さくに声をかけていたり、悪いことをしたらしっかり注意をしていた、そんなイメージがある。同時に昔は犯罪が少なかったイメージもある。それこそ少年犯罪なんてものは昨今起きている物の法がずっと凶悪だろうというイメージがある。
今、見知らぬ人に注意が出来る大人が減っていると思う。もちろんそうだ、そんなことしたら何されるか分らない時代になっている。下手に声をかけてぶっ飛ばされるなんてごめんだ。それでも、悪いことは悪いっていわなければならないと思うし、子供はその親だけではなくて、地域全体で育てていくべきだと思う。そういったときに、どんな些細な一言でもいいから子供に声をかけてあげる優しさ、勇気は必要だと思うな。それが子供にも、大人にも心の余裕を与えてくれるんじゃないかと思う。そのうち子供が大人の言うことを素直に聞き、大人が誰であろうとしっかり注意できる時代になれば、心を閉ざした子供が犯罪に走ったり、とんでもない非行なんて起きないと思うのは俺だけだろうか。
これは全てきれいごとにしか過ぎないのは分っている。でも一歩ずつでも大人が勇気を出してくれれば、少なくとも俺は気持ちよい日々を送ることが出来ると思う。朝通学時の「おはよう」の一言、下校時の「お帰りなさい」の言葉からスタートしてみてはどうだろう。明るい社会って、そういうことが平気で誰にでも出来る社会をいうんじゃないかな?
受け入れるという勇気
少し関係のない話になるでしょうが、書かせてください。
現代文の授業で、中島敦の『山月記』をやりました。
最近、その主人公の李徴と自分を照らし合わせるようになってきました。
本文に載っている李徴の性格がなんか自分に似ているような気がしてくるのです。
だからでしょうか、複数の文章が頭から離れなくなっています。
さて、人間には受け入れたくない事実という物があるはずです。
最愛の人をなくしたときは、その事実を受け入れることができない、いや受け入れたくなくなると思うのです。
事実と理想には大きな差があります。その差が大きければ大きいほど、人は受け入れることを拒みたくなるのではないでしょうか。
事実は嘘をつきません。曲がることはないはずです。まして自分の都合のいいように曲がることはないと思うのです。
山月記に「理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。」(山月記より引用)という一節があります。
主人公の李徴はある日突然発狂しそのうちに虎になってしまいます。李徴はその理由など知る訳がありません。
いったいなぜだ?と考えてみても分からない。分からないなら受け入れるしかない。
彼の運命感に非常に共感できました。
事実は自分のいいようには曲がらない。
曲がらないから、事実が自分の理想や夢と反対の方向に向いたとき、とりうる選択肢は一つしかないのです。
受け入れるしかないのです。ではなぜ受け入れられないのだろうか。
僕の経験を持ってすれば、答えはこうなります。
「自分で描いてきた夢や理想はそう簡単には捨てられない」
想い出の品をなかなか捨てられないように、自分が作り出した思い入れのある物はなかなか破り捨てることはできないのです。
想い出はいい物ですが、いつまでもすがりついていてはいけません。
夢・理想を持つことはすばらしいことです。しかしそれが「どうにもならなくなったとき・あきらめるしか方法がない」というときは素直にあきらめるべきなのです。
「あきらめってネガティブなことだろ?enshinoが言う、勇気はもっとポジティブな物じゃないのか?」
書いている途中にそう思えてきました。しかし、あきらめることにも勇気は必要なのではないでしょうか。
夢破れ、現実を見、それを受け入れる。悪く言えば「あきらめた」となります。
しかしこれは新しいスタートになるのではないでしょうか。新しいことを始めることって勇気が必要なんですよね。
でも時に古い物が新たなスタートを阻むときがある。その古い物って、実は自分が作り上げてきた物だったりする。
自分がつくってきた物を手放すのは嫌なことです。しかし要をなさなくなった古い物を捨て新しい物をつくり始めるのも勇気ではないでしょうか。
奥山さんが他界されてから1か月経ちます。
実はまだそれを受け入れることはできません、まだ元気で奥多摩へツーリングしているような気がして。
遺族の方は忙しさが終わり、ようやく「死」を受け入れられる頃だと思います。
仮にもご遺族が、「貴宏の分まで生きたい」と思えるようになったとき。
それが新しいスタート、勇気の誕生でしょう。
また文が乱れてしまって申し訳ありません。
自分自身ちょっとした受け入れがたい事実を抱えてしまいました。そこで思いついた記事だったので。
しかしそれもちょっとしたこと。時間が勇気を少しずつ与えてくれ、何も思わなくなると思います。
環境を守る
実は、今日はもう一つネタがありまして。
個人的に、あるクラスメイトに感動を覚えたというか、感心したと言うか。
地歴公民。社会の科目ですね。
僕は現在公民では「現代社会」という教科を学習しています。
しょっぱなから環境学習です。
レポートをつくり発表せよ。ここ5時間くらいの生徒へのミッション。
それぞれが調べるテーマは決まっており、僕は「砂漠化」を調べることに。
一応レポートは完成し、今日は同じテーマを調べた物同士発表し合い、班の代表が次の時間にプレゼンをするためのまとめの時間でした。
結局僕のレポートに肉付けする形でまとめることになったのですが。
クラスメイトのS君。
いつもみんなからいじられていますが、「いじらせておけばいいんだよ」的な態度を常に取る強い男。
おまけに勉強はよくでき、志望校もハイレベル。
今日は、そんな彼の意外な一面を見ることができました。
班員の発表に耳を傾け、それを仕切り、僕がとったメモと僕のレポート見て自らまとめをつくり始めたのです。
「この資料使えそうだね。」「この部分いいね。」と、活発に取り組んでいました。
「レポート作りの授業なんか受験に役立たない、かったるい」と言うのかと思いましたが、彼の環境学習への真剣な態度に胸うたれました。
彼のレポートを見ました。
彼は、電子辞書の百科事典の項目のみで2枚のレポート用紙を埋めました。
彼の意見の方が多く書かれていた印象が強かったのですが、彼の言っていることは的確でした。
砂漠化は、主にアフリカ・アジア、さらに南欧、アメリカ大陸全般、オーストラリアで進行し、年間で九州と同じくらいの土地が砂漠化しています。
砂漠化の原因は気候的要因と人為的要因とがあり、前者は他の地球環境問題・特に地球温暖化と密接に関わっており、後者は過開墾、過放牧、過度な森林伐採等、文明の発達による人間の仕業である訳です。
圧倒的に後者が原因で砂漠化する地域が多く、またその地域のほとんどが本来であれば植物に適する場所であるのです。
過度の熱帯雨林の伐採により、雨が降るにもかかわらず砂漠化する地域さえあると言います。
彼は言います。「原因をつくってきたのは先進国の人間たちである。」
確かに、環境を度外視した農業・森林伐採で得た資源は先進国に回ってくるのです。
「先進国の人間が資源を節約し、環境に配慮することが必要だ」と言った感じのことをレポートで訴える彼。
本題はここから。
「でも、今まで豊かな生活を送ってきた先進国の人間にいきなり節約しろと言ってもつらい。」
確かにそうですよね。今の生活に慣れちゃったから、節約をしてそれ以下の生活水準になることは大きな負担ですよね。
僕は、そこに勇気の必要性を感じました。
「どんなに対策を講じても追いつかないと思う。砂漠化で緑が減って地球温暖化のせいで海面があがり、生物は滅亡する。」
彼は、未来への展望をこう書いています。
悲しいかな、これも合っていると思うのです。
このままでは地球が危ない。という意識があるにせよ、大きな勇気がないと対策がとれない気がします。
でもやはり、「自分を少しくらい犠牲にするくらいで環境が良くなるなら」という気持ちを少しでも持てば、かわってくる部分はあるはずです。
それが勇気ではないでしょうか。
じゃ今の俺には何ができるのか。
身の回りを見渡して考えてみれば、紙資源を無駄に使う俺、水を無駄に使う俺、電気製品がなければ生きていけない俺。
節約どころはいっぱいあるはずなんですよね。
必要最低限に押さえる。まずはここからでも始めないと。
僕の場合、いつもそう思って行動に現れません。まずは、意志を持つ勇気からつくっていく必要がある様です。
考えたり思っているだけでは何事も解決しない、解決への糸口は行動しかない。
行動することの勇気を考えさせられるまでに発展してしまいました。
それほど、今日の彼の姿は、かっこ良かった。
募金ってさぁ。
久々の勇気の日オピニオンです。
ブログを統合し、携帯投稿が可能になったおかげで、より多くのオピニオンを書けると思ったのですが、どうでしょうかねぇ。
今日もまたまとまらない変なオピニオンですが、読んでくだされば幸いです。
突っ込みは大いに結構ですが、僕はうたれ弱いので傷つかない程度にお願いします。
さて今日、あるとんでもない噂を耳にしました。
「ある駅前で募金をすると某アイスクリーム屋のアイスがタダだってさ!」
アイスクリームがタダ?!タダという言葉に敏感な俺、部活帰りに行こうと思ってすっかり忘れてました。
自宅に戻り、久しぶりに勇気のオピニオンを書こうと考えていると、行くのを忘れていたことを思い出しました。
いや、でも本当にやっていたのかは定かではありません。
あれ、待てよ。
噂は確実に、「アイスがもらえることを目的に募金する」と言う趣旨のもと流れていた様な。
何度も言いますが、そのような活動があったかは、実際に行っていないから分かりません。
でも、本来の「募金」のあるべき姿からは離れているように思えます。
それじゃぁ、単純な売買行為じゃないですか。
そう突っ込むと同時に、その噂にのせられ、目先の甘さ欲しさに行こうとしてしまった自分を責めています。
お前、「勇気の日」だのとさんざん言ってるやつがそれでいいのか、と。
募金というのは、日本人が一番身近にできるボランティアだと思います。
助けなきゃいけない、守らなきゃいけない人・物があります。
しかし福祉活動にしろ、環境保全活動にしろ、「人手」だけでは活動できるものではありません。
社会の中で、お金というものがなければ何もできないんですから。
だからこそ、募金という物が必要になってくる訳ですよね。
その資金をもとに一部の有志がアクションを起こす訳です。
おかしな話をします。
募金というのは、「何かの・誰かの役に立ちたい」と思ったときにするものじゃないでしょうか。
その「役立ちたい」という思いは、同じ社会の中で生きる者としての意識から生まれる物のはずです。
そしてその意識は、言葉悪く言えば、そう思った本人が勝手に思っただけのことです。
そこに、見返りは必要でしょうか。
それは確かに、「募金にご協力お願いします」とは言っていますが、「払え」と言っている訳ではないのだから結局は本人の自由です。
それで、趣旨に賛同した人が「勝手に」協力する訳です。
もちろん僕も、数多くの募金活動に「勝手に」協力してきました。
勝手にやったことに対して見返りは必要か。と考えると、要求などできるはずはないでしょう。
まぁ、唯一求める見返りは、「ありがとう」という笑顔ですかね。
ボランティアで得られる物は、「自己実現」と「他人からの感謝」でしょうね。
それが生き甲斐と言ってボランティアをする人が多いと思います。
見返りなど要求せずせっせと人のためを思って活動できる勇気はすばらしいと思いますね。
なかなかはじめの一歩は踏み出しにくいですからね。そこには大きな勇気があると思います。
中には、偽善活動だとか、どうせ自己満足だという人もいるでしょうが、実際その活動が誰かの役に立っていたらそれだけで申し分ないじゃないですか。
汗水たらしてためた「自分のお金」(働いたことのない僕はまだ実感がありませんが)を誰かに見返り無しであげることも勇気がいると思いますよ。
自分で苦労したんだから自分で使いたい、それでも何かの役になってほしいと差し出そうという気持ちは勇気に違いありません。
変な理論ですが、僕の考えでは、ボランティアに見返りは必要はないと思います。
つまり、今日流れた噂が真実で、それを求めて募金した人がいるとするならば、それは募金なんかじゃない。
そう思いつつ、その場に行こうとしてしまった自分をただ恥じ、後悔するのみです。
今更ですが、俺は馬鹿だ。と感じました。
ドラえもん・・・
アニメというものは、私たちに勇気を与えてくれる作品が多いものです。
ドラえもんは多くの人を通気づけてきた作品といっても過言ではないと思います。
ドラえもんの長編アニメーションは、勇気を与えてくれます。
いつもはいじめっ子のジャイアンやスネ夫も映画のときばかりは、ドラえもんたちと行動をともにし、優しさや、強さを見せてくれます。
その姿は子供たちに友情の大切さを教えてくれると思うのです。
一番勇気を与えてくれるのは、のび太の姿ではないでしょうか。
のび太はいつもはひよわで、成績も悪く、いつもいじめられてしまう。
でも、映画の中では、ここぞという時に活躍するのはいつものび太です。
そののび太の強さに、子供の頃、勇気を与えられました。
映画の中ではドラえもんはあくまで、道具を提供し、のび太に困難に立ち向かうための勇気を与える存在だと思います。
そもそものドラえもんの使命は、便利な道具を通して、のび太を強い人間にするという事だったのではないでしょうか。
ドラえもんの作品の中で感動を覚えたのは、タイトルは忘れましたが、のび太の亡くなった祖母の姿をタイムマシンで見に行くというお話。
溢れ出るのび太の優しさに、感動を覚えました。
優しさを持つ者には、勇気が宿ると信じています。
話がずれました。そして今日も話がまとまりませんでした。
全く勇気と関係ないじゃないか。とお思いの方は、完璧に無視してください。
というのも、ドラえもんの声優陣が交代するというニュースを見かけ、
「そういえば、ドラえもんから勇気をもらった気がする」
と思い、記事を書きました。
声優が変わっても、子供たちに、優しさと勇気を伝える作品であってほしいと考えます。
ただショック2
寝屋川の事件は本当に衝撃でした。
事件を犯した少年と僕は年がひとつしか違いません。
少年犯罪がまたしても起きてしまいました。
少年犯罪といえば、勇気の日の当初の目標は「少年犯罪をなくす」こと。
見て見ぬふりをせず、相談する、注意をする、そういうような勇気をみんなで持とう、というのが当初の理念でした。
現在、僕の中ではこの理念はさらに飛躍をしているのですが、根本的な部分は変わりありません。
今回の事件では学校の安全対策にばかり重点が置かれていますが、果たして原因はそれだけなのでしょうか?
やはり少年犯罪において重要なのは、その子供がなぜそういう事件を犯してしまったのかという事ではないでしょうか。
今回の犯人の少年は、不登校状態にあったといいます。
周りからは、いい子と言われていたそうです。
なぜあの子があんな事を。というのが周囲の人が口にする事だと思います。
僕の偏見かもしれませんが、何か自分をつくっている所があって、うっぷんがたまっていたのではないのでしょうか。
Yahooニュースの内容ですが、少年は中2から不登校になり、担任が家庭訪問をしても、その理由はつかめなかったとの事です。
実は母親もその理由を把握していなかったとの事。自分で抱え込んでいたのでしょう。
登校していた頃は、同級生によくいじられていたとの事ですが、同級生はその事を深刻には思っていなかったとの事です。
これがいじめられていたという発言の元だったのでしょう。
なぜ気づく事ができなかったのでしょうか。優しく声をかける勇気があってもよかったのだと思います。
同じく少年も、なぜ勇気をだしてやめてほしいという事が言えなかったのでしょうか。
このように、現在では、勇気を行使する機会が非常に少なくなっているせいで、いざというときに勇気が出せないわけです。
もっと勇気をだす機会を増やさなければいけません。
今日もまとまりませんが、少年犯罪の防止には、勇気という要素も必要だと思います。
ただショック
先生を訪ねた少年。応対をした教師。
教師は刺されて死亡。少年は容疑を否認。
逮捕された少年は17歳。
家に帰ってこのニュースを聞いたとき、ただショックでした。
まだ詳しくは把握していませんが、早いうちに考えた事を勇気の方に書こうと思います。
スペシャルオリンピックス
スポーツの場面では多くの感動が生まれます。
同時に、頑張っているアスリートたちの姿は、僕らに勇気を与えてくれます。
昨年のオリンピックでも、多くのアスリートが感動を与えてくれました。
夏の高校野球の応援に行きましたが、感動しました。
何もオリンピックばかりがスポーツ大会ではありませんが、オリンピックという大会自体に大きな意味があり、多くの選手が金メダルを目指し頑張っているからこそ人々は感動するのではないのでしょうか。
さてオリンピックといえばオリンピック開催後に行われるのが体に障害を持つ人の大会、パラリンピックが有名ですね。
昨年のアテネでも、日本人アスリートの活躍が目立ちました。
で、みなさんはスペシャルオリンピックスをご存知でしょうか。
とっくに知っていた方もいるでしょうが、知的発達障害を持つ人のために、トレーニングの場、成果を発揮する場である大会を年間を通して提供する国際的な活動のことです。
第3のオリンピックと言っても過言ではありません。
今月の26日から3月5日にかけて長野オリンピックの開場を利用してスペシャルオリンピックス冬季世界大会が開催されます。
今回開催される冬季世界大会が、初めてアジアで開催されるスペシャルオリンピックスになります。
約80か国から約2,500人のアスリートが参加予定うち、日本選手団は150人で、今回の日本選手団の人数は、過去最高になります。
今回は7つの競技が開催される予定です。
面白いのは、ディビジョニングという独自のルール。
予選・決勝の順で競技が行われるのは当たり前ですが、この予選は決勝に進出できる人を選ぶためのものではありません。
予選の結果をもとに、その結果が同程度の人を集めてその中で競技を行います。
つまり、予選でクラス分けを行い、決勝ではそのクラスの中で競い合うというシステムです。
さらに面白いのは、あくまで個人を尊重するということ。
そのため、国家間でのメダル数を競うという事はなく、表彰においても、国旗掲揚、国歌演奏もありません。
さらに、出場選手の全てに表彰があるというのです。
勇気をだして で注目したいのは大会のときに読み上げられる選手宣誓。
日本語バージョンを引用して掲載します。
わたくしたちは、精一杯力を出して勝利をめざします。
たとえ勝てなくても、がんばる勇気を与えてください。
きっと今回の大会では多くのアスリートたちが勇気を与えてくれる事でしょう。