体育館の入り口のところには、長らく使われた形跡のない並行棒が壁沿いに置いてあった。片付けの途中、そこに少しもたれかかり、ふと通りかかった音楽教師に声をかけた。音楽教師は、学年教員団の一人であり、また自分が部長を務めていた吹奏楽部の顧問でもあった。
「どうだったでしょうか」「僕はよかったと思っている」
実際に交わされたセリフに、確からしい記憶は一つもない。ただ覚えているのは、その瞬間に糸が切れるように涙と嗚咽が溢れてしまった、ということだった。クラス全員が集まるなかで担任が言葉をかけた時、周りが悔しさに涙を滲ませていた時には、涙すら出なかったのに。中学3年生の11月、文化祭の終わりのことだ。
中学校時代、文化祭の合唱コンクールでは、3年連続して最優秀指揮者賞を受賞した。もとより、学年あたり3クラスしかない小さめの学校である。そもそもの競争相手が少ないという話はあるが、それでも吹奏楽部にいたことや指揮の振り真似みたいなことをしょっちゅうやってしまう人間だったからか、いわゆる本物っぽい「振り」ができたのだ。
しかしそれは、奇異な目で見られてもおかしくはない。事実、中学校1年生の時は、どこか空回りをする感じがあったというか、「おかしいやつ」という目で見られるような感覚があった。実際はどうだったかはわからない。しかし、体育祭に比べても「やる気のない男子」の比率が高まる合唱コンクールにおいて、自分のガチ度と周りの温度感とのズレは、確かにあった。結果的には、学年の最優秀賞を取れた中1のとき。しかし、むず痒さがあった。
中2になり、担任が変わった。クラスづくりにおいて実力のある教員だった。彼女の不断のクラスづくりの仕掛けと、「間違いなく賞が取れる」という選曲の提案のおかげで、課題曲「Let’s search for tomorrow」と、自由曲「あの素晴らしい愛をもう一度」は、長らくたった今でも、振っていて楽しさを覚えていたことを思い出す。中1の時とは明らかに違って、指揮そのものも、合唱指導も、居心地良くできていたのだと思う。再び学年の最優秀賞をクラスで受賞した。しかし一方で、その練習の過程で、ピアノ伴奏の一人が、プレッシャーからパニックを起こしてしまう、という出来事も起きていた。
同じクラスメイトの構成のまま3年生を迎えた。9月の体育祭で、メインとなる4人5脚と総合得点との両方で勝利したクラスは、その勢いのまま文化祭期間に突入した。当然また、指揮者を務めた自分は、クラスを最優秀賞に導かんと息巻いていた。と、同時に、クラスはある決断をした。担任は、過去の他校での指導経験上、自由曲に「親知らず子知らず」という、歌詞は暗いが完成度を高めるとダイナミックに聞こえる曲を提案した。しかし、クラスの意思決定は、「『翼をください』を、アカペラで」というものだった。伴奏のプレッシャーをなくして、みんなで歌声を合わせたい、という意思決定。
楽譜は、インターネットで見つけてきた。アカペラだから、伴奏がない。その無伴奏を補う必要のあるアレンジを探してくるのは、少し難しかったことを覚えている。これなら大丈夫だろうとチョイスした楽譜は、しかしながら、間奏部分のハーモニーや、男性パートのハモりの音とりが、なかなか難しいものだった。伴奏がない分、音のズレが発生すると、顕著にそれが分かってしまう。かたや別のクラスは、昨年度の優勝クラスが歌った「青葉の歌」をチョイスした。個人的にも好きな歌だっただけに「あぁ、あっちの曲はいいな」と練習中に口から出してしまったことがあった。指揮者の発言として、士気を下げることにつながってしまい、ひんしゅくを買ったことも記憶している。
「緊張して険しい顔になっていると、こちらも緊張する。だから、指揮台に立ったら笑顔を見せてね」
こんな声を本番前にもらった記憶がある。自然と自分は、責任と、プレッシャーと、緊張と、その全てを抱え込んでいたのかもしれない。選曲と、楽譜選びと、そして曲作りと。敗因は、その全てに、自分があったと、今でも思っている。
小学生の頃から、学級委員的な立ち回りに好んで手を挙げていた。だがそうした役回り=「機能」が、必ずしも集団の中心的存在にならないことを、自分は体感してきた。高校生の時は、役割としての学級代表として行事の際の実務的な取り回しは行えども、体育祭や文化祭の際にクラスの精神的支柱となる「団長」ポジションになれることはなかった。何より決定的だったのは、中学時代、生徒会長選挙に落ちたことだった。選挙から1年後、卒業式で、想いを叫ぶ答辞を放った、私を下した相手の姿を目の当たりにした時、自らの「精神的支柱になれる」器の小ささを知った。彼はサッカー部部長だった。
このコンプレックスは、いまだに自分を苛んでいる。あのころよりも溶きほぐしはできてきているが、解脱はしきれていない。常に付きまとう「隣の芝生は青い」と「何者かになりたい」という欲に対して実態が伴わないような感覚が自分の中に蔓延っている。ここでの暮らしもそうだ。自分で自分を、中心に置いておけないように感じとらせてしまっている。そんな状態のまま、シェアハウスでの2回目の文化祭を迎えた。
ただ実のところ、機能を果たすことが自分の持ち味だということを、分かっていて立ち回っているのは自分でも分かっている。住人たちそれぞれの「好き」や「したい」が、誰にも後ろ指を刺されることなく解放されていくことを、自分の持ち味で作り出せたらいい、と、そう思えている自分がいる。それは今年、この物件に身を置きながら、徐々に自分の、癖の強い「好き」や「したい」が、実は受け止めてもらえるんだということに気づいていくことができた、その恩返しみたいなものでもあるのだ。
どうせなんとかなるし、なんとかする。枠組みさえあれば「精神的な中心」がなくとも、個は活きる。
なぁ思春期の自分よ。お前が「情緒的リーダーシップ」を発揮できなくても、「機能」を押さえられているなら、みんなの想いが集まって、物事は進んでいくから。
この作品は、遠藤が住まうソーシャルアパートメント「ネイバーズ東十条」において開催した文章展示企画である「シークレット・ライター」の第4回に寄稿した作品です。