2025年の4月からの歩み

と、タイトルを置いてみたものの、そんなことなど決まっていない。

現職を続けるのかも、新たな進路を取るのかも、何も考えていない。羨望と、その裏にある承認欲求とから、あれやこれやと「いいなー」ということは湧いてきても、所詮は喉から手が出るほどの欲望には昇華していない。

ただしこのタイトルが示すのは、最低でもあと1年半ほどは、現職で「障害者雇用」に携わっていくことは揺るがない、ということだ。少なくとも「これはやらんとあかんやろ」ということを取り組み切るには1年以上かかる。現職に留まっても、他の仕事に移っても、今この時点の延長線上にある「これはやらんとあかんやろ」ということは1.5年でケリをつけ、自分の現状の職責は、留まるならアップデートし、離れるなら誰かに引き渡していく。そのタイムラインとして、あと1.5年ほど、入職から約3年というのは、ちょうど良いのかもしれない。


巻き込まれ続きの2023年

2023年は、びっくりするくらいものを書いていない。11月末時点までで1本のみ、さすがに減りすぎている。

もちろん、寄稿やインタビュー記事は出している。仕事はもちろん、プライベートで関わっているプロジェクトで、純粋な文筆というより企画書という形態でアウトプットを繰り返してきてはいた。しかし、自分のための物書きはその数を大いに減らした。ある人が「忙しい日々を過ごして充実していると、ポエミーな物書きができなくなってきた」と言っていて、ああ、となった。確かに、なんか知らんが忙しい2023年を過ごしてきたように思う。本業が図らずも定時の範疇で収まるようになったためか、定時外の時間に取り組むことが増えた。

ソーシャルアパートメントの同居人に誘われるがままに関わり始めたG7/G20 Youth Japan。広島サミットの当たり年だっただけに、ユース版G7のホスト国として、サミット本体のみならず、その周辺イベントの運営で大忙し。私は私で、高校生G7サミットというイベントを国連大学で実施する際のロジや配信オペを担当。そして早稲田大学の国際会議場で実施をした、Y7サミットオープニングイベントという、多くの著名人による講演を含むパブリックイベントのステージ演出と配信オペレーションのディレクターを担当し、なんとか成功を収めた。知人から紹介を受けた音響・配信チームのみなさんへの、100万円予算での発注とやり取りは、学びになったのはもちろんだが、イベント実施を私自身が心得ていたこともあってとてもスムーズに進み、新たな職能を得たような自信も湧いた。春のG7終幕でコトが落ち着くと思いきや、G7レガシーを次世代に繋ぎたいというプロジェクトの話が湧き上がり、いくつかの活動に関わることになった。

2017年から2019年までプロボノとして関わったNPO青春基地には、代表の交代のタイミングとともに再び関わり始めることになった。「生成」「余白」「わたしから始める」といった、人間の豊かさにつながる学びの本質性を追求する団体なだけに、代表の切り替わりとともに「自律・分散・協調」というか、「青春さん」という人格を持った法人をみんなで育てていくというか、そんな発想のもとに組織された会議体の一人として加わることになり、単なるプロボノの枠を超えて、知恵も出し、手も動かし、ということをしはじめている。東京都を中心に、単発のワークショッププログラムの機会も増えてきて、そのヘルプとして学校現場にも足を運んだ。今後は、探求を進めていこうとする先生方を支え・ともにつくっていくことを進めていこうとしている。そのための資金獲得のことも、考えていかねばならない。

この他にも、「88年生が8/8に88人集まる会」の幹事として実施までのリードを図ったり、ソーシャルアパートメントのなかでも「カメラ部」なるコミュニティのおでかけイベントを企画したり、知人の会社の事業について相談を受けたり、と、さまざまな「人のエネルギー」に対して巻き込まれていった日々を過ごしてきた。ソーシャルアパートメント内の「文化祭」の企画をしたり、卒業した高校の学科が無くなることを契機にしたインタビュー企画を進めたり、と、本業を含めて常時5本ほどの「プロジェクト」を同時並行的に進めている。それは確かに、日々が何らかのアウトプットの連続であり、自分のためのじっくりとした内省と執筆は進まないわけだ。そうそう、今年は3年ぶりに「誕生日イベント」も開催したわけで、物書きを伴わずとも考えを出していたことには変わりはないのだ。

頼られることで揺らぐキャリア

しかし、こうした「過活動」とも言うべき状態のなかで、誰かから頼られることは、かえって自分自身の「何がしたいのか」を揺らがしたのも事実だった。

とある友人から、氏が営む事業に対してフルコミットで関わってほしいという声をもらった。今年の夏のことだった。

揺らいだ。しかしそれは「揺らいだ」までのことであり、「傾いた」でも「心躍った」でもなかった。正直な心境はそうだったのだ。

今の障害者雇用の仕事も、知人からの誘いがきっかけだった。そしてそれはとてもタイミングの良い巡り合わせだった。その当時、キャリアチェンジを図ろうとしたもののうまくいかず、藁をも縋る思いでもがいていたタイミングにもたらされた「障害者雇用」の5文字は、教員経験の中で少しだけかじった特別支援の経験、1社目の人事の時代に心血を注いできた人材育成の経験、そして、それ自体が「社会課題である」という側面から、単なる巡り合わせ以上に、自分にとって意味のある・価値のある選択肢になった。

そこから1年、決して簡単とは言えなかったその職務を、ひとしきり1サイクル終えたところで受けた誘い。「あなたは教育の人だ。うちの会社にその力は必要であるとともに、うちの会社に集まってきている資源や機会は、きっとあなたの関心領域に今後手を広げていく上で役立つはずだ」という氏からのありがたい切望の言葉に、しかし即答しない自分がいたのは少々意外だった。それはなんだったんだろう。

揺らぎの種は、実はその誘いよりも前から蒔かれていたようなものだった。統一地方選挙に、気心の知れた知人たちがチャレンジしていき、自身の影響力を次なるステージに高めていった姿を横目にしたこと。憧れの発展系としてかつてチャレンジした文科省の中途採用試験で初めての係長級登用が登場したという事実を目の当たりにしたこと。ビジネスの世界で友人たちが次々にその影響力の範囲を広げ、賞賛も得ていったこと。こうして書き出せば、それらは所詮、ないものねだりのコンプレックスにすぎないし、それらが本気で欲しければ、本気でやればいいだけのことを、動かずにただ羨望の眼差ししか送っていないことは自分でもわかっていた。だがそうした「こうあったらいいな」は、確実に「では自分はどうあったらいいのか」ということをブラしていった。

「なんでもやれる」の功罪

たしかに、この2023年の一連の自分自身の動きは、明らかにこれまでの35年の人生の中でのプロジェクト経験を反映していると言っても過言ではない。ワークショップを組み立てる発想も、イベントを構成する勘所も、オンライン配信のロジ一つを取ったって、経験の裏打ちがあってより大きなことに進めているのはもちろん、その背後にある「考え方のフレーム」なのか、あるいは「自分なりのセオリー」なのか、そういったものが横たわっているからこそ、より強化されていっている感覚がある。しかし、その影響範囲はどこか「中途半端」であり、その表出の仕方は「目立たぬもの」であり、そして発揮される分野は「散漫になっている」状態なだけに、どこか手応えを感じ得ないように思えていた。あるいは、いわゆる「インフルエンサー」たちが発信力を有効に発揮しているのは、実戦に裏打ちされた発信そのものが、シンプルであるか、あるいは転用可能性が高いかのいずれか、あるいは両方だと思われるが、そこからすると(自分で言うのもおこがましいが)私の頭の中や活動として表出されるものの裏側にあるものは、複雑なのか転用・模倣性に乏しいのかも知れない。

3年ぶりに開催した誕生日イベント「いま、それぞれの居場所から」において、キャリアコンサルタント・ライブラリアン・音楽家のマネジャーという3者を迎えてのセッションを行った際、はからずもそれが私のキャリアコンサルティングの場になった。そこで「なるほど」と思ったのは、私自身が越境経験により異なる分野どうしを媒介するようなプロジェクト構築に長けていて、それは興味・関心の中心点が複数存在する楕円形を描くような動き方をしており、しかもその公転周期がえらく広いことから、「なにやってんだかわからない」という状況になってしまっている、ということだった。参集いただいたみなさんには口々に「プロジェクトを進めていくプロ性」を認めてもらったし、私としても自身の生き方を「プロジェクトという生き方」と形容しているが、しかしそこには手応えを感じにくいということもあった。

加えて言えば、ビジョナリーだが他律的で、リーダーシップを発揮できるが参謀的で、注目を浴びたいくせに「想定読者のニーズ」はあまり考えない、という、二律背反的なめんどくささが自分の中に存在していて、いいかえれば、WillとCanとのズレのなかで、Canによる充足が図りきれていないくせに、自分自身には大して強いWillが存在していない、という状況であることも見えてきた。ではなぜ、2023年は、いろいろと忙しくしてきて、それで一定の充足感を味わうことができたのだろう。それはおそらく、WillだのCanだのを超越したところで、いや、それらの手前側にある感覚として、「プロジェクトの渦中は楽しんだよな」ということに、浸っていた、あるいは、甘んじていたのかも知れない。「だって楽しんだもん」という根源的な・「それでいいじゃん」的な感覚を持ちつつ、その気持ちよさだけで生きていくには、生きるリソースが足りなくなりつつあるのも確かだった。

「プロジェクトという生き方」への、腹の括り

この文章は、上述のゆらぎのなかで、友人のキャリアコンサルタントに4回セッションの面談をお願いし、その対話を重ねる中で気づいてきた・見えてきたことをまとめようとしているものだ。その彼女をしても、私の強みは「異なる文脈どうしをつないでいくようなプロジェクトを仕立てること」であると言ってくれている。しかし同時にセッションの中で繰り返し問われたのが、「で、どの領域をやりたいの?」だった。そして私はそこに明確な答えを出せないままだった。いや、出せないのもあるが、出したくなかったというのも本音なのかもしれない。出したくないというのは2つのことがらがあって、一つは「決める」ということを留保したい、という、ある種の覚悟の欠如に似た感覚、そしてもう一つが「抑えられない知的好奇心が故の越境性が強みならば一つの領域に収まるはずがないやんけ」ということだった。

ある種の羨望を私が抱いている人たちはみな、私の目には、一つの領域に対して、長い時間と情熱をかけ、コトに向かい続けている気がしている。起業とか、リーダーとか、発信とか、そういうのは全部手段でしかなくて、それぞれのテーマとする領域で、それぞれが目指すべき世界を作るために、ただ邁進しているだけのことであり、そこには手前が承認欲求というのは存在していないように見える。そこからすると私は、関心の方向性が散漫になりやすく、集中を差し向けられないが故に、そして動きのプロセスを手段ではなくそれ自体を楽しむコンテンツのように捉えているが故に、一点突破的な推進力に乏しい。その事実を、一方では「決め切らないこと」への免罪符にしつつ、もう一方では自分のコンプレックスとして語っている。「この生き方が心地いい」と、「プロジェクトという生き方こそが自分なりのウェルビーイングである」と、そう言い切ることに躊躇しているのかもしれない。

それこそ、なにかで注目を浴びたいなら、これから先も障害者雇用をやりきればいいだろうし、あるいはずっと教員であればよかったのだ。しかし、結局はそれを選んでいない。そのことに対して、腹を括ればいいだけのことであるし、現にいろいろなことに首を突っ込んで、見える範囲でのステークホルダーからの賞賛も得られているわけだ、それで満足すればいいだけのことである。かといって、自分の今の仕事に対しては、強く誇りを抱いている。想いを込めて取り組んできていて、決して腰掛けだなんて思っていない。その証拠に、先日会社の社内報メールに対して4,000字を超えるエッセーを寄稿し、半分程度を障害者雇用担当としての熱い思いに割いたほどだ。そう考えると、自分自身の熱量の差し向け方は、配分割合の問題ではなく、関わるいずれの取り組みにおいても、強いものを抱いていることは確かである。

もしかすると、私がどこか報われないような感覚を覚えるのは、越境的な・多方面に関心を抱くことで異領域を仲立ちするような発想によって動いてきた「仕事」の、その背景に横たわっている考え方・設計思想が、そのコンプレックスさが故に分られにくく、かといってシンプルにしてしまえばそれは総体を捉えているとも言えず、分かってほしいのに分かってもらえない、そこじゃない、という感覚によるものなのかもしれない。言い換えれば、「プロジェクトという生き方」に、自信を持ちきれていないのだろう。

だったら本業をがんばるだけのこと

そう考えた時、「2025年4月からの歩み」を何にするかを考えるよりも、それまでの1.5年程度で動いていく、主に本業である障害者雇用担当としての仕事を、どんな背景思想に基づき、どんな戦略を描いて、どこまでもっていくのか、を考えて実行していったほうが、はるかにリーズナブルであることが見えてきた。もちろん、今関わっている他のプロジェクトにおいても同様だが、自分の「プロジェクトという生き方」の強みとしての性質の純度をさらに高めつつ、その背景にある考えをきちんと<伝わる形で>知らしめていこうとする動きを、したたかに行っていくことが、自分を充足させることにつながるだろう。その手立てとしても、障害者雇用を「メインプロジェクト」に据えて2025年4月までを走ることに、自分なりに異論はない。それは、会社の社内報メール向けに書いたコラムにおいて、以下のような文をしたためていることからもわかる。

私の中にある「ゆるやかな生きづらさ」の実感が、障害者雇用という仕事に対する自身の思いを強くしています。障害者手帳の発給を受けている人に比べれば、私自身は当事者の皆さんのことを真には理解しきれませんし、私の感じていることなどちっぽけなものに思えます。しかし私は、どこかに感じる「分かりみ」を手掛かりに、あまた人間誰しもにあるはずの「生きづらさ」に対して、互いに寛容であれる社会になることの一翼を担いたいと思っています。

障害者手帳を持っている人といっても、その種別も・程度も・生きざまもバラバラで、どんな想いを抱いているかは「障害者」という単語でひとくくりにはできません。一方で、WHOが言うところの「障害者」の英語表記は ”Persons with Disabilities” であり、無理くり日本語訳をすれば、「困難とともにある人々」となります。人間誰しもが「困難とともにある」わけで、その困難を互いに支えあっていくことは、なにも障害者支援にだけ特別なことではないと思います。そのことを、テクノロジーが人類の進化をけん引すると本気で思っているこの会社で声高に叫んでいくことが、私の使命です。

障害当事者で構成されるチームが、ビジネスに対して継続的な貢献を果たしてこそ、真のインクルージョンが実現する。そのことを本気で信じて、1年間のビジネススキル研修カリキュラムを開発・運営しています。他のITソフトウェア企業の研修型雇用と異なり、具体的なITスキルの研修ではなく、一般事務サポートにおけるビジネススキルの向上を図るというのは、とてつもなく難易度が高いです。しかし、その分野にこそ、自社のみならず他社の障害者雇用における未開拓領域が存在しています。だからこそあえて、コミュニケーションを中心とするカリキュラムの展開や、各自の特性に合わせた事務作業の最適化の支援をコーディネートする。そうして、当事者の活躍機会の創出とビジネスへの貢献のみならず、他社・他業種・他業界への事例展開を通じて、社会にインパクトを残したいと考えています。

障害当事者のみなさんと接することが、「多様な他者」への理解につながり、「多様性への寛容さ」をはぐくんでいく。このことは、私たちが接している「多様なお客様」への理解を促進するはずです。それこそが、多様性を尊重することのビジネス上の意義だと、私は信じています。来年に引きあがる障害者法定雇用率2.5%を達成する、という社会からの要請に応えるということを超えて、「互いの困難を支えあう」ことをビジネスの力に変えていくことが、「ゆるやかな生きづらさ」とともにある私の、この会社で取り組んでいきたいことなのです。

2025年までの1.5年の間には、新しい年度の採用による研修プログラム1サイクル分が発生することが見込まれている。同時に、研修プログラムを卒業した当事者たちによるチームが、現場部門から業務を請け負っていく座組みのブラッシュアップも期待されている。これを体系的かつ戦略的に進めていき、他社を含めた障害者雇用全体をよりよいものにしていくフロントランナーとして想起されることが叶えば、「分かってもらえた」ということを、手応えとともに感じられるのかもしれない。

新たに出会った領域で、あるべき理想を追い求める

その手応えの先に、2025年4月以降、どこでどんな歩みを踏み出し始めるかは、知らん。知らんが、出会った新たな領域にある、まだ解決が図られていない・答えが存在しないような問いに対して、どうすれば理想とする状態に至れるのかを考え・実行していくことに、自分なりの「プロジェクトという生き方」を体現できていけばいいのだろうと、これを書く中で思い始めることができた。

そしておそらくだが、なんとなく、通奏低音ともいうべきテーマは見えてきた気がしており、それは、人が自分の人生を歩んでいく中で対峙していく弱さや生きづらさを、互いに分かち合い・携えながらも、前に進んで行こうとすることを支えていくことである。その意味では、「誰ひとり、取り残さない」という発想の方が、自分の理想に近い。一方で、自分自身の他者への関わりはどこか、ボトムをすくうことにはあまり最適化されていないという自覚も存在する。ここにもWillとCanの乖離を感じないでもないが、いったんそこは見なかったことにしつつ、寛容性と成長・発展の両立を図るということが自分のテーマとなっていき、それを妨げるような「不和」が起きている領域に出会えた時、2025年4月からの新たな歩みが動き出していくのだと思う。もちろんそれが、障害者雇用であり続ける可能性も高い。

ああ、これって結局、

この生きづらい世の中で
勇気と気づきが
まだ見ぬ明日を切り拓く

を言い換えただけなのかもしれない。


ということで、私と何かをともにしたいとお考えの方は、2025年4月が一つの区切りになると思われますので、じっくりと話を重ねていきましょう。

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