比較的言語化が遅い人への接し方が不得意なんだけど、なんかコツを掴みたい
という悩みが、知人からもたらされた。思わず私は
出るまで待ってあげてくれ
とレスをしてしまった。
これが思いのほか自分の思考をぶん回してしまったので、他に書くべきことがある最中だが、結局記事にしてしまった。
「言語化が遅い人への接し方が不得意」には、おそらく2つの課題が含まれていて、それは
- 相手からの言葉による返答が遅い(ので俊敏性を上げたい)
- 返答が遅い人の対応がもどかしい(ので適切な接し方が知りたい)
ということだと思う。
で、ここでポイントだと思うのは、相手の言語化力をどう伸ばすか、ということと同時に、自分の接し方の部分をどう最適化できるか、という双方をセットで行うことの大事さだ。
当方、障害者雇用を担当している。また、教員だった経験もある。なにより、長らく続けてきたブログのおかげで、時折「言語化おばけ」と言われることもある。聞く側の私の言語化力の高さに比して、話す相手のそれとに非対称性があるようなケースも、多く経験がある。そして、私も、もどかしさを感じることがあった。
ではどうしてきたか。ここいらで少し棚卸しをしてみようと思う。
1. 「出るまで待ってくれ」の内実:「言語化が遅い」はなぜ起こるのか
まず、今から書くことは、なんら科学的根拠のない、私の経験則に基づくものなので、誤解・誤認識のオンパレードとなるだろう。ぜひ「そらちがうやろ」ということがあれば指摘してほしい。
で、「言語化が遅い」はなぜ起こるのかを考えてみた。そのために、私が見聞きしたことがある、「発達障害」当事者のケースを出したい。ちなみに、あんまりここで「発達障害」のタームを出したくはないのだが、わかりやすさのために出している。ここでは「自身の特性に起因して、社会生活での差し障りを感じている人」というものでみてほしい。
これは特定の誰かではなく、複数存在するというのを聞いたことがあるのだが、会議や面接/面談の場面における返答に時間がかかるという人がいる。こちらの問いかけに対する返答に時間がかかる、というケースだ。私はそもそも、いわゆる定型発達者に対しても、答えにぐぬぬとなる問いを投げがちなので、仮に私との会話において発生するならそれが原因になるかもしれないが、だとしても時間がかかるということがあるように思える。
そのとき、何が起きているかというと、その問いに対するいろんなことが頭の中に「わーっ」となったり、あるいは、その問いに対する答えがいろんな論点・観点から湧き上がってきたりしてしまったり、あるいは「これはこの場で述べるのに適切なのだろうか」ということが頭の中を駆け巡ったり、ということが起きているらしい。この場合、その当事者は「言語化が遅い」というよりも、
- 問いかけに対して最適で、自分としても納得度の高い返答を、最終的に定めて産出する
ということに時間がかかってしまう。
これにはおそらく、
- 多動性に伴う思考の発散性
- こだわり傾向や白黒思考の強さ
といった、(ここでは具体の名称を避けるが)いわゆる「発達障害」の特性としてあげられるような要素が働いている可能性が高い。また、私が接したことのあるケースでは、WAISという知能検査において測られる
- 言語理解
- 知覚推理
- ワーキングメモリー
- 処理速度
の項目のうち、言語理解が高いが、処理速度が低い、という結果の当事者がいたそうだ。どうやら、
頭の中でものすごく色々考えるんだけど、
その場で言えないことが多い
となるらしく、それを知って「あぁ」となった。
※ちなみにこれ、その後によくよくネットで調べてみたのだが、WAIS-IVの「処理速度」は視覚情報の処理に関する検査項目なので、きく→かんがえる→はなす、という処理に起因するのはむしろワーキングメモリーかもしれない、と思い始めている。さらに勉強が必要そうだ。
で、このケースのこと、そしてその逆のパターンを考えると、「言語化が遅い」というのはおそらく
- ①言語化のための語彙が足りないので不得手だ
- ②言語化するための語彙はあるのに産出が遅い
という、まったくアプローチの異なる現象のどちらかによって起きていると思われる。そして案外、後者②が起因となっていることは、多い気がしている。
- この場でこれを言っていいのか。
- ああ、先に言われてしまって出すものがない。
- 自分が言いたいと思っていることに当てはまる言葉がまだあるはずだ。
- うーん、あと少しで出そうなんだけどなぁ。
こういう場合、頼むから待ってほしい。
もどかしいのはわかる。会議では時間も限られているしスピード感を持って意思決定を図りたい。面談は限られた時間の枠組みを崩さないことが大事になるが、そうなるとやり取りされる情報量は相対的に少なくなる。ただ、自戒を込めていうならば、そのもどかしさを感じる時、それはコミュニケーションの基点を相手に置けていないと言える。
私は、私自身が、たとえば他愛もない会話が苦手だったり、大人数の飲み会に「置いていかれている」感を勝手に抱いたりする節があるが故に、だからこそ、万人に「コミュニケーションを諦めて欲しくない」と願っている。あなたの言いたいことを聞かせてくれ、あなたにはその力があるはずだから、と。まるで、私が好きな山田ズーニー氏が、著書『考えるシート』で
あなたには、人と通じ合う力がある
と述べているように。だからこそ、ぜひ、相手の言語化を、言い換えれば「言いたいことを言えた」という感覚を、待ってほしい。
そうはいっても、待ってらんないよ、というのが本音だろう。大丈夫、そのための策は、この後に書く。
2. 「いっしょにみとおす」へのワザ:返答が遅い人の対応Tips
前の項では、言語化が遅いということの内実を、「発達障害」当事者のケースを引き合いにしつつ、それを拡大解釈して、
- ①言語化のための語彙が足りないので不得手だ
- ②言語化するための語彙はあるのに産出が遅い
の2つに分類した。その上で、後者②が多いので「出るまで待ってあげてくれ」と述べた。
しかし、待ってられない時、でも相手の「言えた!」の到達を図りたい時、その板挟みをどうすればいいのか。
私からしたら簡単なことで「いっしょにみとおす」でいい。つまり、言語化を相手だけに委ねず、一緒に言語化をするのである。
もっというと、2つに分解した「言語化が遅い」の後者②は、実は言語化に至るための語彙自体は有している。言語化は実はできている、とも言えるが、何らかの原因で「出せない」のである。その「出せない」ということに対するハードルをできるだけ下げ、もしかすると「湧いているのにごちゃごちゃ」とか「出てはいるけどなんか違う」というのを、一緒に見つめるのである。
じゃぁどうするんだよ、って話。以下の2つの問いかけを使ってみてもらいたい。
2-1. 今考えていること / 思っていることを教えて
問いへの返答が遅い原因が②の場合、相手は、考えている。ぐるぐると、もやもやと、ふつふつと、考えている。ただ、考えていることが「考えている」状態であるなかで、それを産出することに、多くの人は慣れていないと思う。自分が自信を持って産出できる「こたえ」になっていないと、返答してはならない、みたいな。
問いかけた側に起こるもどかしさは、その「思考がみえない」ことによることが一定あると思う。なら、その思考を出してもらっちゃえばいい。
なぜかはわからないが、人間だいたい、自分の中で考えているとこんがらがる。マジであれはなんなんだろう、と私でも思うくらいだ。しかし、そうしたとき私は大抵、ぶつぶつ独り言を言う。そうすると、自分で勝手に「あ、なるほどそういうことか」みたいになる。産出しちゃったほうが、案外思考はまとまるのだ。
それが出てこないからもどかしくなるのだとすれば、「今考えていること / 思っていることを教えて」って言ってしまえばいい。
もちろん、注意が必要だ。言ってもバカにされない、間違っていない、という「空気」を仕立てる必要がある。「正解とか不正解とかないからね」とか「途中でも構わないから」という言葉で、そうした雰囲気を作ることはできるかもしれない。しかしそれでも、相手の肺に届く「空気」にはなりにくい。思った以上に本人が持つ、言語化による「評価のリスク」は、高いものだろう。
じゃぁどうするのか。私なら以下の2つのことを心がける。
- 「あなたの今の考えを知りたい」と伝える
- 相手の言葉=考えを「違う」と否定しない
受け止めてもらえるという「空気」をつくることによって、正しくなくても・途中でも・空気が読めてなくても、いいんだ、と思える。そのとき、特に前者の「アイ・メッセージ」は有効だ。
で、それで一つ一つ、ぽつりぽつりと言葉が出てき始める。それをただ、受け止めていく。時間がないかもしれないが、そこで受け止められるという成功体験が、「言語化の遅さ」の改善につながると思う。
ただそれでも「言語化」の精緻さにはまだ至らないだろう。その時に有効なのが、次の問いかけだ。
2-2. それって〇〇ってことだと思うんだけど、どう?
これはすなわち、繰り返し、言い換え、そして要約、といった要素を含む。相手が言葉にしたことを、あなたが受け取った解釈で戻してあげる。なんとか相手が頑張った言語化を、さらに言語化で返してあげる。そのプロセスを踏むと、
- 自分の頭の中をなんとか自分の言葉で出したのを聞いて、自分の頭の中の考えとの照らし合わせを行う
- 受け取った相手の解釈を聞いて、自分の言葉と自分の頭の中の考えとの照らし合わせを行う
ということが可能になる。そうすると、どっちか、あるいは両方に、ズレが生じる。
そうすると、その「ズレ」を修正するための語彙の探索が始まる。もちろん、受け取った側であるあなたが解釈を相手に返すことで、相手になかった語彙が相手の考えとバチっとはまって「そうそうそれです」となる場合もある。また、自分が言った言葉もしっくりしていない、受け手側が返した言葉もピンとこない、というケースもあるが、それによって「いや、たぶんこっちかもしれない」というのが起きる。どっちにしても、語彙獲得がそこで起きて、相手の言語化は促されるはずだ。
で、ここでポイントなのが、「どう?」ということである。「合ってる?」でもなく、「〇〇じゃないの?」でもなく、「どう?」だ。
「どう?」なんてワードは、ぶん投げでしかない。ふわっとしか聞いていない。しかし、「どう?」という聞き方に対する返答は、自由度が高い。「そうそうそれそれ」も「・・・、合ってます、かね」も「うーん、なんか・・・」もありうる。その余地を残しておくことに、相手の言語化を「強制しない」というスタンスを含ませることができる。
「合ってる?」ときかれたら、「うん」と言わないといけない感じがするし、「〇〇じゃないの?」と言われると、そっちが正しい感じになってしまう。しかし、あくまでも「相手の言語化を待つ」ということへの支援であれば、起点は相手に置きたい。その時、問いかけをする側はあくまで「私にはこう聞こえる」という「手がかり」を示すまでである。
「どう?」とたずねることで返ってきた「こたえ」に、また自分なりの受け取りをして戻す。これを繰り返すことで、本人が本人自身の言語化で気づくこと、そして、受け取りをフィードバックされて気づくこと、その双方によって言語化が図られる。そうすると、案外本人は、思考がスッキリしてくると同時に、「これでいいんだ」と思えてくるはずである。
「出るまで待つ」のが難しいならば、「いっしょにみとおす」をする。そのために必要な「安心できる空気づくり」と「適する語彙の探索」。その接し方がわかれば、あなたの感じるもどかしさはいくぶん軽減できるかもしれない。しかし困ったことに、ここまで書いてもなお、まだ、
- ①言語化のための語彙が足りないので不得手だ
の対策が書かれていない。しかもこれがおそらく本題なのではないだろうか。今度はここを深めてみたい。そしてそれは、「②言語化するための語彙はあるのに産出が遅い」のパターンの接し方にも活かせるはずだ。
3. 「言語化」とは何かを考える:ことばの踏み台昇降・反復横跳び・回れ右
「言語化が遅い」ということを、①語彙が足りない、②語彙はあるのに出せない、に二分して、その後者のほうから先に説明していった。おおかたの「遅い」の原因はここにあると思ったからだ。しかしそれでもなお、「言語化、難しい、苦手」という人は依然として多く、それは①のほうにも原因があるのは確かだ。では、どうすればいいのか。
「いっしょにみとおす」、これが私なりの解だ。前節と一緒なのだが、そこは変わらない。
一人で頑張って考えても、語彙がそもそも不足していたら、そら言語化はできない。その語彙は、本人の外側から持ってくるしかない。となると、対話の相手を置き、その相手から問いかけやフィードバックをもらうことによって、語彙を獲得していく=言語化を図っていく、ということがやっぱり近道になる。そしてその繰り返しが、俊敏性につながる。
問いかけやフィードバックが大事だ、というのはわかった。問題は、じゃぁどうすんねん、ということだ。となると、「そもそも言語化って何をしているんだろう」ということを考えてみるところから、どんな問いかけが有効になるのかをあぶり出していく方がいいと思う。そこで私が思い至ったのが
- ことばの踏み台昇降
- ことばの反復横跳び
- ことばの回れ右
というワードだった。この3つの「体を動かす方向」のメタファーをヒントに、言語化とは何かを考えてみよう。
3-1. ことばの踏み台昇降①:深掘りする
「ことばの踏み台昇降」は、上下運動を伴う。上がる運動と下がる運動。言語化を「上がる」と「下がる」の両方から捉えてみよう、というものだ。そして先にタネ明かしをしておくと、それは「まとめあげ≒抽象化」と「深掘り≒具体化」である。これがわかった方は、もう3-3にとんでいただいていい。
では、3-1では、先に「下がる」方向を考えていきたい。この「下がる」運動は、言い換えれば「深掘り」だ。今使っていることばや考えを、一段深掘りして、そして細かく精緻にする。その時に使える問いかけが以下のようなものだ。
- というと?
- それってどういうこと?
- もうちょいくわしく
- なんか具体例教えて
- それって、AとBだと、どっちのほうが近い?
「言語化」と言われるプロセスにおいて、大半の場合行われているのは、この「深掘り」、あるいは「説明を尽くす」ことだと思う。いいかえればそれは、言葉を足していく作業であり、あるいはある事象を細かくしていく作業とも言えると思う。
たとえば私は今コーヒーを飲みながらこの文章を書いているが、「コーヒー」とは何か。黒い色をした飲み物で、味は苦いことが多く、しかし酸味やらコクやら味わいが豊かで、そもそもコーヒー豆を乾燥させて焙煎したものにお湯を注いだり時間をかけて水出しをしたものだ、なんて説明ができる。これが「深掘り」だと思っている。
一つの概念を、一段レベルを下げて細かくしていく。細かくしたところに言葉を足していく。そうすることで、一つの事象についての説明が増える。細かく分けることで「分かる」が促されることを考えると、「分かりやすさ」のために行われる「言語化」の一つの側面は細かく説明するということになると思う。
そのためにも、ある事象や考えを、もっと言葉を付け加えて説明してもらったり、具体例を出してもらったりすることが、言語化を促していくために必要なプロセスになる。そして、これで語彙は割と増えていくはずだ。
しかしこれだけではまだ、ある事象に関連する語彙の獲得しかできない。獲得した語彙を、他のシチュエーションでも使えるようにするには、踏み台昇降の「上がる」をする必要があると思う。
3-2. ことばの踏み台昇降②:まとめあげる
「上がる」運動は、まとめあげ、すなわち概念の抽象化だ。ものごとについてのレベルをあげる、というところで踏み台昇降の「上がる」を用いた。すでにして長文になっているこの文章しかり、ある程度の長さで説明されたことを、短くまとめて言い換えるとどうなるか、ということであり、その時に使える問いかけが以下のようなものだ。
- つまり?
- まとめるとどうなる?
- それって〇〇っていうこと?
- 今言ったことで重要なことってなんだろう?
- 今、どんな気持ち(感じ)?
たとえば今私はこの記事を、コーヒーが飲めるところで書いているのだが、そこは建物の中で、背もたれ付きの椅子があり、店員さんがいて注文をとってくれて、運ばれてきたコーヒーを口にしているのだが、備え付けのメニューには食事も載っている。こういう店を「喫茶店」というわけだ。ちなみに私はコメダ珈琲にいる。
うーむ、この例はあまり適当とはいえないが、長い説明に対して、概念をまとめ上げるための別の語彙が存在している、ということを感じ取ってもらえればいい。
ところで、ある状況や事物を細かく説明することで、「言語化」の半分くらいは片付く、と言った。しかし、それの重要性と同じくらい、考えをまとめ上げて名付ける、ということもまた語彙の面では重要であり、そしてこの「まとめあげる」作業ほど、自分一人ではなかなかうまくいかない。ここに、他者からの問いかけやフィードバックが必要だ。
しかもその問いかけやフィードバックは、「つまりこういうこと?」という、他者による言い換えとその確認というプロセスを踏んだ方が、早く進む。なぜなら、そもそもまとめ上げるための語彙を本人が気づいていないことが多いからだ。ここに、他者を対話の相手として置く大きな意味がある。
そしてこの「まとめあげ」は、なにも概念=名詞に限った話ではなく、あるいは事実=誰の目にも明らかなことに限った話ではなく、自分自身の内的な感情や認識についても「まとめあげ」が働く。それによって、思考がスッキリしていくということもあるはずだ。
さらにいうと、この「まとめあげ」ができることによって、言語化のレベルを「この人の言語化はすごい」というレベルに持っていくことができる。それが「反復横跳び」だ。
3-3. ことばの反復横跳び:他の事例への転用や比較
踏み台昇降運動は、上がり下がりをすることによる具体と抽象の行き来を指していた。では反復横跳びとは何か。右往左往、横方向に動いていく。これは、ある事象について細かく説明をしてみて、そのエッセンスを抽象化したときに、似た事例に当てはめをしたり、近しいけど違いがあることがらと比べたりすることを指している。
私がここで使っている「踏み台昇降」も「反復横跳び」も「回れ右」も、言語化という事象を抽象化して、他の事例に当てこむということによるものだ。そしてこれを行う時に使える問いかけは、以下のようなものだ。
- なんか似たようなこと他にないかな?
- たぶん〇〇とおんなじ気がするけど、どうかね?
- それって〇〇とはどう違うの?
たとえば、建物の中で座席があって店員がいて食事がメニューに載っているとして、喫茶店と居酒屋の違いは、出される飲料の違いだろう。いや、お酒を出す喫茶店もあるし、コーヒーを出す居酒屋もあるが、喫茶店と居酒屋は、どこが似ていてどこが違うか、という比較を説明していくと違いが際立っていくし、はたまた「座って喋りたい」というニーズを満たすなら喫茶店でも居酒屋でもある一定は問題ない、と考えることができる。
ことばの反復横跳びは、比較によってより精緻にする=深掘りを際立たせることもできれば、似たものを出すことによる抽象化の方向でも用いることができる。しかしこれまた、本人だけでこの反復横跳びをするのは難しい。私自身はこの反復横跳びが実は得意なのではないかと思っているが、それを可能にするのは、日々のいろんなものごとについて、観察して、抽象化して、何と似ているかを考える、みたいなことをついついやっているからだと思う。その意味で言えば、ダジャレや親父ギャク(「〇〇だけにな!」みたいな)、あるいはなぞかけや大喜利はバカにできない。ねずっちさんはすごい。
だからこそ、この反復横跳びの視点の獲得のためにも、他者との対話や問いかけ、提示というのは大事になる。そして、この視点が獲得されると、言語化のレベルは格段に上がっていく。ある概念を説明するための事例をいくつも思い浮かべられたり、複数の事象に共通する教訓をまとめあげられたり、ということができると、思考の幅が広がるはずだ。
さらに私の場合、英語が好きだったということもあって、たとえば「おもしろい」はinterestingなのかfunnyなのか、という、単語の意味や用法の対比というのをできるようになり、より的確に・精緻に・豊かに言語化ができるようになった気もしている。これも、横移動の動きに似ていると思っている。
となると、「似ている」だけでなく「まるっきり違う」=逆を向く、ということも、言語化を豊かにする動きとして考えることができるだろう。それが「回れ右」だ。
3-4. ことばの回れ右:逆の場合を考える
この記事を書く際に、最初に思いついたのが「踏み台昇降」と「反復横跳び」だった。しかしこれだけだと何かが足りない気がして動きを考えていた。それが「回れ右」だった。後ろを向く、つまり、逆を考える。それをすることで、もともと考えていたことを、より正確に際立たせるための比較の視点を持てる。これを行う時に使える問いかけは、以下のようなものだ。
- 逆に考えると、どうなるかな?
- 〇〇ができないってなるとどうなるだろうね?
- たぶんその逆って〇〇だと思うんだけど、何が違うかな?
たとえば、この文章、そろそろコメダ珈琲の閉店時間が近づいてきているのだが、そしてもう夜も遅いのでコーヒーは飲まないにせよ、建物の中で座席があって飲料を提供してくれる店、で書く必要はない。その反対にあるもの、それは「家」だろう(いやもちろん建物の外という意味で屋外というのもあるが、外でPCで物書きするのも、ね)。
上の事例はぜんぜん適切じゃない気がしているが、考えていたことがら・概念の、逆の概念を合わせて考えておくことによって、もともと考えていたこととの違いをあぶり出し、それをもって具体化や抽象化の精度を上げていくことができるようになる。この視点は、「これがいい!」と思って考えを進めていくとするたびに抜けてしまうことが多いので、加えておいた方がいいと思った。
さらに言えば、本人が考えを進める上で抜けてしまいがちな「逆を考える」という視点は、それこそ本人では抜けてしまうので、他者からもたらされるに限る。
と、ここまで「踏み台昇降」「反復横跳び」「回れ右」という動きで持って、言語化の方向性を考えてみた。だいたい「深掘り」さえすれば、おおかた言語化はできた思って良いが、さらに「まとめあげ」「横展開」「逆を考える」をすることで、言語化が豊かになる。そしてその能力を高めていくのは、一人で進めていくのは難しい。アウトプットする相手が、十中八九必要になると思った方がいい。
4. さいごに:言語化も、いいもんじゃない
「言語化が遅い人への接し方」という問いから出発して、それを「相手の言語化の俊敏性を上げる」と「自分の感じるもどかしさをどうにかする」という方向に分解した。もどかしさについては、それでも「出るまで待ってくれ」と、「言語化が遅い」のメカニズムを私なりに解説したうえでお願いをし、それでも待てない場合の「いっしょにみとおす」方法を示した。一方の「俊敏性を上げる」についても、それは結局「いっしょにみとおす」なのだが、そもそも「言語化」にはどんな方向性があるのかを示し、俊敏性を高めていく=語彙を獲得して使いこなすための問いかけのポイントを示した。
そしてここに書いたのは、私のやっている「言語化」を言語化した結果だ。それは他者に対しての働きかけもそうだし、自分自身で言語化を図る場合にも同じことしている。ただ困ったことに、私の場合、その言語化が冗長になる。その結果、今この部分の時点で1万字を超えている。何をやっているんだ。
言語化も、長けりゃいいってもんじゃない。それに、言語化してしまうことによって、手触りというか、感覚というか、そういう「なまもの」が抜け落ちてしまうようなことが起きる。先般だって「おいしい」で済むはずのことをわざわざ300倍の文字数にして記事にしたが、そんなことしなくたって「おいしい」は十分伝わるのだ。全部を言語化に頼らなくてもいい。
最近読んだ、奥村隆の『他者といる技法』をもってしても、あるいはこれまでに読んできた「他者」にまつわる書籍を集約しても、結局は「あなたとわたしは分かり合えない」という前提において、その両者を繋いでくれるのは、ことばだと思う。だから、言語化をする方が、できるだけ「意味」を擦り合わせることはできる。それは間違いない。
しかし「言語化が遅い人」に対するもどかしさを感じるとしたときに、その反対側にある、ことばに頼らないその人の豊かな「なにか」にも想いを馳せられる自分でありたいとも思う。その意味では、
出るまで待ってくれ
というのは、何も言葉に限ったことでもないし、
いっしょにみとおす
ということが、あらゆる表現方法にも用いれたらいいのにな、なんて思ってしまった。
ちなみにあとから考えてみて、「問いかけ」に関して言えば、私がここまで御託を並べるまでもなく、以下の書籍を読んでもらった方がよっぽど有益じゃないかと思い始めた。
なお、すごくどうでもいいが、記事を書き上げてからアイキャッチを探した際、チョイスしたのは、学生時代に京都の仁和寺に行った時に撮った写真だ。「あなたの安全のために、この手すりに座ったり寄りかかったりしないでください」という英語の一文を、「座ったらあかんえ」のひとことで片付けるまとめあげ。秀逸だ・・・