道に迷う不安、「いつもの」を選ぶ安堵

よく、道を聞かれる。

7月に宮崎を訪れたとき、夜の宮崎駅前で「橘通はどういったらいいですか?」と出張者に聞かれた。「地元の人間じゃないんですけど、橘通はここをまっすぐ行ったら着きます」と案内した。自分でも思う、なんで案内できるんだよ。

2ヶ月前にインスタで紹介した、高校以来の友人である上田さんのところで髪を切ったあとのこと。彼女の店舗は新宿西口を大久保方面に歩いた、一蘭の建物にある。軽い小雨が降る中だったから、大江戸線のD5口から地下を通ってJRの駅に出ようと歩いていた。アップダウンはあるが、それは仕方ない。そうして小田急HALC手前のエスカレーターを登ろうとする少し前、「すみません」と妙齢の女性から声をかけられた。

「伊勢丹はどこですか?」、その質問に咄嗟に「こっちじゃないです」と答えた。私がJR側に向かおうとする一方、対面して歩いてきたその方。その方向はあきらかに伊勢丹から遠ざかっている。小田急百貨店すら背にしている。「あら、分かんなくなっちゃって」とおっしゃるその方に、「途中までいくのでご案内します」と声をかけていた。

事実、わかりやすいところまでは一緒だった。大江戸線の新宿西口駅のエスカレーターを登って、丸の内線の改札が見えたら、そこから東に続く東西地下通路をひたすらまっすぐ行けば、いつの間にか新宿三丁目の駅にまで到達し、左手に伊勢丹の入り口が見える。それが分かっていただけでなく、家に帰る気でいたので、西口からJRに入らずに、地下通路から東口に至ったとしても、埼京線のホームまでの歩行距離はさして変わらない。瞬時にそう判断して、私が別れるところで「あとはここをずっとまっすぐです」と言おうと思っていた。

結局、その女性は丸の内線の改札まで来たところで「あ、あとは分かります」と言っていた。その時点で西口方面に分かれていけたはずなのに、結局自分は東西地下通路を東口に向けて歩いていた。女性の少し前を歩いているつもりだったがいつの間にか距離が離れてしまい、振り返って会釈をして自分の歩行ペースを取り戻したとき、すでに地下通路は半分より東寄りまで至っていた。

家に帰ってから昼食を、と考えていたが、新宿に出てきたことをもったいなくも感じていた。合理的に最短距離を取るなら東口に来る必要性はない。しかし、「案内せねば」というおせっかいから無駄に東口に来てしまった。たいして強い欲求などないのに、ロールキャベツシチューのアカシアに足を向けていた。正直、惰性である。

外食をするとき、私は、あらたな店の開拓より、見知った店のリピートを好んでしまう。日々の食事であっても、同じものを食べても飽きない人間だ。だから、新宿ほど大きな街のなかにあって、「ここにいくか」と思い立つ店は限られる。どこに何があって、今いるところからどういけばそこに辿り着けるかの見通しをつけるのが得意なほどには新宿の街を知っていても、安心できる「いつもの」の数は、少ない。

例の女性も、「新宿といえば伊勢丹」というほどに「いつもの」を感じる場所だったはずだ。だけど「新しくなって、ダメね」というぼやきが、その道中を迷路に変えてしまったことを感じさせた。「昔は、小田急を出てまっすぐ行けば着いたのに」、分かっているはずの街で感じる不安に、図らずも約2年半前、ソーシャルアパートメントに引っ越してすぐ、上田さんのもとで髪を切った後に新宿の雑踏で感じた不安を思い出した。

ソーシャルアパートメントに暮らしています。2(ネイバーズ東十条の暮らし)

よく道を聞かれる。おそらくだが、顔つきが安心感を与えるのだろうか。声をかけても怪訝な顔をされないと思われているんだろうし、事実、聞かれた場所への行き方はだいたい指南できている。迷う人の、その迷いを晴らしたい、という願いみたいなもんは、そうそう自分からは剥がれないようだ。だからこそだろうか、食べるものでさえ、未知の店に迷うくらいなら、既知の安心の店をたよりたくなる。

そういって、アカシアにつき、ちょっと並んでから一人席に着いて困った。ロールキャベツシチューは食べるとして、メインを何にするか全く考えていなかった、というか、別にどれでも良かったのでかえって迷った。そんな折、今日のおすすめが「豚ハンバーグステーキとロールキャベツシチュー、ごはん付」だった。「豚ハンバーグ」という、ちょっとした違和感の残る耳ざわりと、四角くて白くて薄いビジュアル。ちょっとした冒険が、そこにあった。むろん、頼んで食べてみたら美味しかったのは、言うまでもない。

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