アメリカ留学中のクラスメイトからメールが届いた。学校へはエア・メールも届いた。どうやら元気でやっているようだ。カンザスにいるのだが、ハリケーン被害は受けなかったらしい。ただニュース映像にはさすがに絶句したらしい。小さな町に住む彼、学校までは車で3分だそうだ。大変なことも多いけれど向こうの生活にしっかり適応して元気に過ごしているらしい。やっぱり、元気だってことを証明する”手紙”ってのはいいもんだなぁと思う。
最近、手紙の存在価値を意識するようになった。上手く言い表せないのだが、手紙をもらう行為にも手紙を書く・渡すという行為にも喜びを感じるようになった。色んな節目に手紙をもらう。それが初めて現れたのは部活のときだったかなと思う。先輩から卒業の折に手紙をもらった記憶がある。そのときは何一つお返しが出来なかったことを悔やんでいる。
高校に入って初めて部活で手紙をもらったのは先輩の引退式でのこと。経った一人しかいなかったチューバの三年生(当時)から手紙をもらった。帰りの電車で読んで、これからしっかり練習していこうという気になったことを覚えている。その後、アンサンブルコンテストのときにも本番当日にあるメンバーから手紙をもらった。そのときは本気でうれしかった。以前そのメンバーとはちょっとしたいざこざがあってそのアンサンブルで上手くやっていけるか不安だったからだ。それから久しく手紙をもらわなくなったが、今年の夏の引退式で先輩から手紙をもらった。その時僕は寄せ書き一枚しか用意していなかった、それも心残りだ。
実は以前まで、僕は手紙はもらう方専門だった。自分から手紙を書くことのうれしさを感じ始めたのはこの間のニッケ・ツアー。一人の子から手紙を早々にもらって、その返事を書こうと思い立ったのが最初。何時しか紙に自分の思いをしたためるのが楽しくなってきた。メッセージを宛てるというよりもブログを書く方に近い感覚だったようだ。結局メンバー全員と自分のバディーに長々と手紙を書いていた。同時に多くのメンバーから手紙をもらった。いまじゃそれは宝に近い。
一件無機質に見えてくるメールにも暖かみを感じるようになってきた。一時期、半日に1通程度にも関わらず2週間以上メールが続いたことがある。どうって事無い話だったが、それが続くようになると返信が待ち遠しくってたまらなかった。そして、送られてくる無機質な活字からも喜びを感じるようになっていた。面と向かってはあまり話せなかったからこそ深い話になっていくのがうれしかったのだ。
面と向かって言えないようなことでも、文字なら伝えることが出来る、それが手紙・メールの威力だ。ことに手紙は形として手に取れる物だからこそ、書く感動・受け取る感動という物が大きい。もちろん遠くにいる親友からのメールも感動は大きいのだが。大原則として、自分は口で伝えるコミュニケーションこそ一番だと考える。そんな俺でも、文字の暖かみに触れるとまるでその人自身の暖かみに触れるような気がするときもある。そういう意味でも、手紙という物には大きな魅力を感じる。
早いうちに彼にメールを返信しよう。いまのクラスの近況とか色んなことを書いて、また返事をもらおう。世話になったバディーに写真も送ろうと思う。提出物なんかそっちのけで、金管アンサンブルのメンバー一人一人に手紙を書こうか、本番近いし。
文字のコミュニケーションも捨てたもんじゃないね。