私は、たとえば「理系の大学院でしょ」と間違われたり、「専門はITでしょ」と勘違いされたりすることが多いのですが、主たる研究分野は外国語教育学です。社会言語学、教育政策学、教育心理学あたりを包括する形で研究論文をまとめていました。実はこの研究分野は、SFC入学から6年間ずっと追いかけてきた分野であり、研究会のテーマ選択はもちろん、講義の選択、そして教職課程の履修といった部分に至るまで、SFCの生活の中核に位置していたと言えます。「政治家になりたい」と言っていたAO入試の時からは想像がつかないものでした。
茨城県では、県教育委員会が主催で、英会話コンテスト「英語インタラクティブ・フォーラム」が開催されています。このコンテストの出場者に、どのような変化や学びが起きていたのかを追いかけることが私の研究テーマでした。そもそもの取り組み自体が、教育実践としても、また教育政策としても面白いと思っていました。初対面の中学生たちが、あらかじめ示されたテーマについて、即興で英会話をする。原稿は持たないし、質問と受け答えによって会話が進んでいく。まさしく、インタラクティブ性(双方向性)をもった実践です。一部の代表者が出場するという点では「学校教育」というよりも「課外活動」なのですが、しかし英語のテスト成績が良くない生徒であっても、力を発揮することがある場だったのです。
私が追いかけていたのは、中学生時代の自分の経験です。つまり、そもそもの研究の動機は、自分がそのコンテストに出場したこと、そして、その当時やその後に感じた自分の中の学びや気づきが、他の子どもたちにも起こるのかどうかを検証したいと思ったことでした。自分にとって、そのときに学んだ、コミュニケーションの楽しさ・難しさ・大切さだったり、自分自身がそこで認められるという経験は、私自身がずっと信じ続けていたものでした。だからこそ、自分が信じている経験を、他の子どもたちにも経験してほしい、それが教育が抱える諸問題の解決につながるのではないか、と考えたわけです。
「コミュニケーション」ということばはマジックワードです。私は、斉藤孝さんの「意味と感情のやりとり」という定義を持ち出すのですが、その内実はなんだかよくわかりません。それでもなお、人間はこのコミュニケーション行為を避けて生きることはできないと考えています。より良いコミュニケーションを通じて、「わたし」を知り、「あなた」を知り、そして「わたしたち」になることを目指すことが、秩序ある社会の形成に必要だと考えています。ことばは、さまざまにあるコミュニケーションの媒介の一部でしかないことは分かっています。しかし、意味を持ったことばで相手に何かを伝えたり、あるいは自分自身で何かを考えたりすることは、言語を操ることのできる生物の特権ではないでしょうか。
私は別に、この研究題材を通じて、英語の力を伸ばさなければいけないと考えている訳ではありません。英語の力は、たしかに「グローバル社会」とやらにおいて、共通語として使われている事実からしても、ある一定層の人間には必要な力です。しかし、何も外国語は英語だけではなく、世界にはもっと多くの言語が存在する訳で、そうした言語たちに目を向けてもいいはずだと私は考えています。英語は、合理的な選択の一つでしかなく、あくまでも外国語学習の入り口として中学校から導入されているのだと考えています。つまり、学ぶべき言語は何でもかまわないし、何を勉強してもいいが、合理的に考えれば「まずは英語だろ、その後に別の言語だろ」と考えられるというわけです。
それよりも私が大切だと考えているのが、この「コミュニケーション」という得体の知れない事柄そのものです。しかし、得体が知れないにも関わらず、避けて通ることはできないところに、コミュニケーション行為の根源性があるのだと思います。コミュニケーション能力ではなく、コミュニケーションの経験を積むこと、そのためにも、日々のコミュニケーション行為を相対化して、楽しさだけでなく難しさも経験し、その先に困難を乗り越えるスキルや意志を持っていけるようにしたいと考えています。このスキルと意志によって、人間関係によって生ずる課題や困難を乗り越えることができるのではないだろうか、と考えています。外国語を学ぶ意義とは、この「コミュニケーション行為の相対化」をする上で、あえて通じない・理解出来ない言語に触れるという経験をする点にあると思っています。難しくて投げ出してもいいし、楽しくてハマってもいい。そこで「何か」を感じることが重要なのです。
だからこそ、教育においては、英語一辺倒になってはならない。繰り返しますが、合理的理由から英語を中学校における外国語として採用することについては問題ないと考えています。しかし、英語「だけ」で止まってしまっていることが問題だと思うのです。小学校が「外国語活動」ならば、なぜ英語以外の言語に触れる機会をもっと増やさないのか。なぜ、多様な人々が住んでいるこの国において、そういった人々の言葉を学ぶ姿勢を見せることで彼らに安心感を与えないのか。そうした態度を示すことは、国力の増強につながると私は捉えているのですが、しかし経済成長を志向する人の多くは英語しか見ていない現状があります。だからこそ、個人研究では「英語」の活動を研究しつつ、ゼミでは「小学校多言語活動」を推進してきました。そうしたバランス感覚を持つことが、必要になるのでしょう。
繰り返しになりますが、コミュニケーションの目標は、「わたし」を知り、「あなた」を知り、そして「わたしたち」になることを目指すことにあると思います。そのためには、酸いも甘いも知る必要がある。そして、経験のなかで学びを得ていく必要があると思います。よりよい「あした」をつくっていくことに対して、ことばの教育が貢献出来るのだとすれば、それは、よりよい「あした」をつくるための言語使用の経験を得てもらうという点です。コミュニケーションという行為が、難しくて、もどかしくて、それでも楽しいから諦めない、という態度を持っていくことが、あしたの世界を創っていく、グローバル時代の人間に求められる態度だと思います。外国語教育は、だからこそ意義深いと信じています。