携帯電話を失くして1ヶ月が経ちました

そして本日5月5日に、中古で発注していたiPhone5が届き、無事携帯電話が復活しました。ご迷惑をおかけした皆様、申し訳ございません。

さて、1ヶ月も携帯電話がない生活を送ると、さすがにいろいろなことを思うもので、思い出せるだけ書き溜めておきたいと思います。

携帯電話なんぞ失くすはずがない、というのは幻想だ

iPhoneなんぞ失くすはずがないだろう、それこそ、画面を割るとか信じられん、というのがiPhone3GSから使い始めて5年ほどになる私の言い分でした。しかし、実際に失くすということは起きてしまいました。

ことの発端は会社の飲み会でのこと。たしかに2次会会場までは自分の手中にありました。もっとも、2次会の場所を同期とやりとりする電話を2次会のお店の前でしていたのです。しかしその後、多分机の上においたはずなのですが、店を出るタイミングになって、ないことに気づく訳です。とっさの機転を利かせて、「iPhoneを探す」を同僚のiPhoneを借りて行ったのですが、運悪く私のiPhoneは電池切れ。

その後、一応手は尽くしました。お店には3度足を運び、警察には遺失物届けをだし、回線は止め、iPhone復帰時にはサウンドをならす設定までしました。さらに、おそらく同僚が持っているのではないかと思い、ひたすら部署内で「携帯がない」をネタにし続けました。しかし、そもそも電池が切れていては元も子もなく、結局本日まで本体は発見されていません。

iPhoneを探すの機能があれば必ず見つかるだろう。そう、Appleを信じていましたが、それを真っ向から信じた私がアホでした。バッテリー、という、そもそも致命的なファクターをのぞいて考えるのは愚の骨頂でした。

それでも、iCloudはすごい

しかし一方で、iCloudさまさまな事態も起きたことも事実。なにより今、新しく買った中古のiPhoneが、紛失した4月4日時点の情報をどんどん取り戻していく訳です。バックアップ機能はすばらしい。

また、携帯電話に保存したはずの連絡先情報がMacにも同期されているという事実は、私を多いに救うことになりました。WiFiも拾えないような場所で、公衆電話とMacと10円玉さえあれば、相手に電話がかけられます。これで、待ち合わせにおいてことなきを得たという経験がこの1ヶ月のなかで2度ほどありました。

つまり、日々情報をバックアップし、同期をさせておくことによって、いざという時にもどうにか対応はできるということがわかりました。

極論、携帯がなくても日々は生活できる

会社に行ってオフィス内で仕事をし、家に帰って寝る。休日は自分のために自分一人で過ごす。そんな生活に落ち着いている限り、極論携帯電話は不要です。生きていけます。

いわゆる携帯依存症、SNS依存症の傾向は私にもあったわけで、その禁断症状のようなものは特に帰宅時に多く発生していました。Facebook見たい、ググりたい、音楽聴きたい、そういった衝動を必死でこらえるために、電車内は文庫本に没入していました。禁断症状のようなものは、実は1週間ほどで消え去ったのも事実。携帯電話はもはや、ルーチーンの生活を続ける限りは必需品ではなくなっていました。

いっぽうで、まったく情報社会から切り離されたという訳でもないのは事実。つまり、なんらかのデジタルデバイスを持ち、それがインターネットにつながっている状態を保持していて、それに触れる時間が1日数時間でも存在したということは大きなことです。携帯電話がないことと、情報社会から切り離されることは、まったく次元が違います。

事実、オフィスではPCに向かって仕事をしますし、帰宅すればMacBookはネットにつながっていて、おまけに自宅ではiPad mini WiFiがあるので、メール・Facebook・Lineは見れる状態にあったわけです。※実際にそれらを「見る」という行動に移るかどうかは別問題ですが。さらに言えば、休日はMacBook片手に出かけるのが私にとっての当たり前なので、スターバックス等でインターネットを見つければ、連絡は取れる状態にはなります。

仕事上の連絡も、プライベートの連絡も、常時性が欠けるのみで消え去りはしない。その分、自分から見に行かないのに情報やコミュニケーションが「降ってくる」という状態から一時的ですが足を洗えたことは、実はだいぶ気を楽にできた要素だったのかもしれません。

しかし、携帯がないと困る。特に、自分以外の他人が困る。

それでも、自分中心に世界が回っていると思ったら大間違いで、私が携帯を持たないせいで困らせてしまった人はたくさん居ました。

たとえば、失くした翌週には友人と伊豆長岡で落ち合う予定だったのですが、到着予定時刻はつたえられないどころか、到着するバス停をお互いきちんと把握していなかったため、しばらく落ち合えないという事態がおきました。また別の機会では、江戸川区のほうに舟をこぎにいく際、寝坊してしまって家を出る際に「寝坊しました」連絡ができたのですが、それ以降パッタリ連絡ができずじまいでした。※ちなみにことのきは、どう行けば最短ルートかということを検証する術をもたなかった点でもこまりました。

また、あるご依頼を受けていたにもかかわらずしばらく作業できない状態がつづいたまま携帯の紛失になり、ご連絡をいただいたにもかかわらず回線停止のため「着信拒否」と勘違いされるということもありました。仕事関連で言えば、飲み会幹事をおこなった際、場所がはなれた所での開催だったにもかかわらず、私の連絡先がないため、やりとりがままならないということもありました。

時間さえ守り、場所の名前さえ覚えておけば、だいたいは地図と勘でその場にたどり着けるという能力を持ちうる自分ですから、休日の待ち合わせ等うんぬんについては私自身は困らない。しかし相手は、自分の所在やステータスを気にしており、それに気をもんでいる可能性もあるということを全く認識していませんでした。

それほどまでに、携帯電話は社会におけるインフラ、必需品となっているということにも驚きです。いろんな人から「よく生きていけるね」と言われますが、自分自身のサバイバルのみなら不要だとしても、他者との関係性において生きていくのであれば、もはや持ち得ないことのほうが想像つかないのでしょう。

つきあい方は考えた方がいい

そうしてまた、iPhoneが復活しました。5sにはせず、5cにもせず、White5 – 32GBだったのを、Black5 – 64GBにしました。Sofmapのネット中古で35000円ほど(税込み)でしたが、非常に状態がよく、新品ではないでしょうが新品同様に見えるしろものです。

そうしてまた、24時間肌身離さず情報社会を持ち歩く日々がスタートします。いかに依存せず、いかに溺れず、社会性を保ちながらつきあっていくか、そしてそれを、携帯電話のせいにせず、いかに自責できるかが焦点です。

もう一方で、携帯電話がもどってきたいまだからこそ、この1ヶ月でしたかったのにできなかったことについて、そのありがたみを噛み締めたいと思うことがあります。それが「想いのシェア」です。

いい風景、いい出来事、いいアイディア。そういったことを、InstagramやTwitterを駆使してバンバン発信しまくっていた時期から、ここ1年くらい遠ざかっていたような気がします。それらのツールがあったからこそできた思索があったはずです。この1ヶ月、そういうことをしたい、と思った瞬間に、それができないことが多くありました。そしてその衝動を、携帯電話があってもしてこなかった怠惰な日々を過ごしていたことにも気づきました。

失くして気づいたことがある。いろんなことに気づきました。その上で、携帯電話とのつきあい方は、また試行錯誤がはじまります。

そんなわけで。。。

遠藤忍の携帯電話は、以前と同じ番号、以前と同じアドレス、以前と同じTwID、以前と同じFBアカで動いております。ご連絡があります際には、お気軽に上記ツールでお声がけください。


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