2015年の夏休みにおもったこと

60分一本勝負で、思うところを書いてみようと思う。しばらく離れてしまっていたアカデミーキャンプや福島ドラゴンボートアカデミーに対する、なんともいえない申し訳なさがあってか、夏実施のキャンプについて「大人手が足りない」というアラートを受けてから、8月17日週にほとんどの振休と夏休を突っ込んでまるまる1週間休みにした。それで、前半はアカデミーキャンプ、中盤は越後妻有トリエンナーレ、後半は実家&ボートという算段にした。結果、体を酷使したが気持ちはリフレッシュできたと思う。ただ、あらためて、考えることは増えた気がしている。

そもそも、休みに入るちょっと前の段階で、ビジネスにおける自分の課題が顕在化した。凡事徹底ができない、ほうれん草が徹底できない、ということ。実はこれはもう長いこと付き合っている、一種のクセみたいなものかもしれないとも思っているが、そんなことは言っていられない状況であることも確かだった。すでに入社してから、前の部署でもこの傾向は出ていて指摘されていることで、なのに治っていないというのは、ほんとうにアホなんじゃないかと思うし、それが自分の仕事の幅を広げる上でも足かせになっているということは自覚も指摘もあるわけで、どうにかしなければいけないことだった。

たぶんそれは、例えばプロジェクト結だったり、prayforjapan.jpだったり、いままで自分が関わったけれど、なんとなく自分がフェードアウトしてしまったようなことにも通じるのかもしれないと思う。いま残るのは、そうしたプロジェクトに対するなんとなくの罪悪感で、それすら自分勝手なものだと思う。アカデミーキャンプに対しても、同じような思いが巡っていた半年間で、自分に対しては「充電期間だし」と言い聞かせてもなお、納得はできていなかった。

たぶん、自分が壁を越えて成長するためには、できることを伸ばしていくのではなく、できないことを潰すほうが必要になる。あるいは、できること=したいこと、の状態では穴は埋まらず、したいこと自体がチャレンジングでないと自分の成長はないのかもしれない。きっといまの自分はこの淵に立たされているんだろう、とあらためて気付いた。なんで気付いたかといえば、アカデミーキャンプの舞台で、全体進行をしている自分・あるいはその環境が、とても心地よかったからだ。

「世界への扉」というキーワードで進んだ今回のアカデミーキャンプ・夏・第2期は、中高生と「多様なバックグランドを持つ」大学生リーダーがともに過ごす3日間。「考える」「話す」ことが多いプログラムが組まれる中で、全体進行である自分が勝手にミッションとして抱いたのは、プログラムの中で提示される学びの要素を吸収しやすく、また繋げやすい形に変換することと、参加者がインプットした学びの消化を促して表に引き出すことだと思っていた。そしてその前提として、安心・安全な場を形成することも役割となると思っていた。アイスブレイクに始まり、今回のテーマの提示やプログラムの流れの説明、各プログラムが終わってからの振り返り、もちろんキャンプ自体の進行の案内。これらを任せてもらえたのは、自分が3日間を通してその場に居れるという前提のもと、その中で適任が自分だと判断してもらえたからで、それはとてもうれしい。そして結局、それは及第点レベルで果たすことができたと思う。何より、やっていて楽しかった。

たぶん、ここに自分の一つの限界があるかもしれない。

正直、アカデミーキャンプの運営にはしばらく携われていなかった。議論し、オーナーシップを持ち、ロールを果たし、実行する、という一連の流れの中で、自分が今回したことは結局、実行する部分だけで、それはいわゆる「フリーライダー」と同じ。それならそれでそう開き直ればいい話かもしれないが、しかし自分のプライドが邪魔をしているのか、そうたやすく割り切れる話ではないし、そのような割り切りをしてしまうことは過去の自分やこれまでを創ってきた人たち、なにより楽しみにしている参加者を裏切るような思いにかられる。でも結局「やる」といって、熱量を持ってやりきった経験はなく、そこに対する自信はほぼ皆無だ。だから結局、自分のできる範囲のことをやって楽しんでいるだけになっている。

とはいえ、たった1日で、キャンプの運営直前段階における各企画の意図や流れを、ヒアリングをベースに理解した上で、それを自分なりの解釈で捉え直し、アイスブレイクに始まる場作りや振り返りの実行(ちなみに振り返りのフレームワークもすでに自分以外のメンバーで議論されていた)などのフロントの立ち回りができてしまうことはある意味才能だとも自負している。しかし一方でこれはとても罪なことで、なぜなら、積み上げるように創り上げられてきたものを一瞬で奪い、さも我が物のように振る舞ってしまうからだ。本人にはそのつもりはなくても、そうなってしまう。だから本来は謙虚になり、創り上げてきた人たちをリスペクトするべきだしそうしているものの、一方で「我が物」として捉えて進めなければ上滑りするだけになることも分かっている。

だからせめて、自分が全体進行をする上でこれは心がけようと思ったことがあって、それは「自分も参加者として何かを感じる」ということ。たぶんそれは3年前くらいからそうなっていると思う。割と僕がワークをやるときの特徴は、出たとこ勝負でいく、というもの。何を学んで欲しいとか、何をアウトプットしてほしいとか、あまり意識をしないことが多いような気がしていて、その傾向はここ5年くらい変わっていない気がする。その根底には二つのことがあって、一つは「自分が楽しいと思うことをただやりたいだけ」ということ、そしてもう一つは「その場で生み出されたものを広げていくことに面白みを感じてしまった」ということがある。

いい例が今回の「キャンプライト」というプログラムだ。キャンプファイヤーが予定されていて、しかし参加者の体調の兼ね合いもあり避けたほうがいいとなった。その判断を仰がれたときは内心反発していて、なぜなら「火」というものに根拠のないこだわりを持っていたからだ。だけど冷静になり考えてみると、「火」にこだわる理由もなければ、「サイリウム」を用いたライト企画のほうが面白みが広がるし、なによりどうせまだ何をするか決まっていない(意思決定は1日目朝で、キャンプライトは1日目夜)のだから、とこだわりを捨てた。たぶん、このこだわりを捨てられるようになったのは、以前の自分から成長した部分かもしれない、と思う。しかし結局なにをするかは大して決まっておらず、ただそのとき頭の中にあったのは、リンダリンダを歌って登場するということと、ゆずの「夏色」を使いたいということと、ドラムサークルのように、自由に各自が音を出していく、というものだった。

結局、2部構成にして、前半は各自が思い思いに「音の出るもの」で音を出し、そのあとはグループごとに異なるリズムを指示していってシンクロさせるというもの、後半はゆずの「夏色」に振付をしてサイリウムを持って踊るというものだった。正直、前半部分はだいぶスベった気がしていて、なぜなら「なにをすべきか」という文脈を、参加者にわかりやすいように提示できていなかったから、そして、自分が何か指示を出すというときに、その指示のバリエーションを持っていなかったせいで「どうしよう」となってしまったからだ。一方で、ゆずの「夏色」への振付はわりとよくできたと思っていて、それはひとえに産み出すものを参加者に委ねたということと、自分自身がかなり楽しんでいたということに起因すると思う。結果あらためてわかったことは、出たとこ勝負でいくにしても、ちゃんと考えて臨むこと、あるいは参加者が「出せる」状況をどう作り出すか、ということだ。そこをおろそかにしてはいけないのだが、おろそかにしてしまっていた自分がいることに、いまこれを書きながら気付いた。

ところで、このアカデミーキャンプでは「世界への扉を開く鍵」というキーワードを振り返りのフレームとした。このフレーム自体はすでに自分が入る前から提案されていて、かつ自分自身も賛同できるものだったので、それを使った。最終日を前にして、4つのワークショップのそれぞれで、ペアワークによって出された「鍵」たちから、一つ自分のお気に入りを出せ、というお題で参加者みんなに見てもらった。キャンプの「責任者」は、「現在地を知る」というのを挙げた。「現在地を知らなければ、自分の世界の広さも、開けるべき扉も知ることはできない」というのは納得だ。一方で、全体進行として話を進める上で自分が挙げたのは「直感」だった。「真実=事実×価値観」であり、価値観だけで議論しても平行線だし、事実をあぶり出す科学も万能ではない、だからきちんと事実を捉えた上で判断をしていこう、という話をした直後にもかかわらず、である。

周囲の人には、やはり僕はロジカルで分析的だと思われているし、それは認めるところだ。だけど、人が思う以上に、案外僕は「直感」とか「想い」とかを大事にする。ごく浅い次元の、極めて非説明的な形容詞が好きだ。自分自身が、何かを「感じる」「気づく」ことが好きだし、他人が「感じた」「気付いた」ことについて見聞きすることも好きだ。自分が出たとこ勝負を好むのは、この「直感」を大切にしたいからに他ならない気もしている。即興演劇のワークショップを最終日に行った際、コンタクトインプロが実施された。お互いの肌が常にどこか触れ合う状況で体を動かしていく。音に合わせたその動きは「ダンス」なのだが、その営みは、お互いが「何か」を感じながら、どちらかがリードするでも受けるでもなく、絶妙なバランスで進んでいくとき、美しさを帯びる。ことばで説明なんかできない、そんな直感性がフルに発揮される場だった。「世界への扉」というテーマの一連のプログラムが、そうした「直感」を集大成とするところが、なんとも絶妙だった。

キャンプが終わってから、越後妻有トリエンナーレ「大地の芸術祭」を3年ぶりに訪れ、前回も訪れた「十日町・キナーレ」と「まつだい地区」を今年も巡り、さらに今年は「三省ハウス」という廃校を再利用した宿泊施設に滞在した。里山の広大な土地のなかに、芸術作品・もっといえば現代芸術作品が点在するこの芸術祭は、自家用車で回るか公共交通機関やツアーバス等を用いて廻るのが一般的だが、僕は自転車あるいは徒歩で巡った。その道中、棚田と里山の風景を見ながら、勾配を登ったり降りたりしていく。体力を削りながらたどり着いた先で見る芸術作品は、もはや説明とか抜きにして楽しめる。そこであらためて気付いたのは、「かわいい」とか「きれい」とか、あるいは道中で食べた食べ物で感じた「おいしい」とか、下り坂で感じた「すずしい」とか、そういう感情が好きだということだ。

本当は、もっと時間を確保して、じっくり&ずーっとそこで目の当たりにしたかった作品も多い。だから短い時間にはなってしまったが、いろいろなことを感じた。そしてそこで大切なのは、その作品から感じられた感情を説明することではないとも思った。説明するときっと、急に陳腐になる。なんで「かわいい」とか「きれい」とか感じたか、なんて理由はいらない。そう感じていること自体が事実だ。その感覚は大事にしたいし、自分の感性は、感性を揺さぶるものに触れてこそ研ぎ澄まされていくものだと思っていて、その意味で、直感を直感のままに大事にすることは、あらためて必要なことだと思った。

だから自分は写真をとるのだな、とも思った。写真は、その場・そのときの見え方をそのまま残す。アート作品はそれだけでアート作品なのだが、それがさらに写真に収められることによって、あらたなアート作品として再生産される。見る者にとっての目線・感性で、あらたにものごとを捉え直すという行為、それは写真をとったりアートを観たりするときだけの特別なものではなく、ひとと向き合う・コトにあたる、という日々の生活においても生じることなのだろう。だから、感性を研ぎ澄ませることが必要だし、感性のストックとしてのインプットをすることも必要になる。

人事として、人に接し、人の成長をうながすことで会社の成長につなげていくという立場にあって、自分自身ももっと成長していかなければいけない。そんな時にあって、この夏休みを過ごしてあらためて気づかされた、コトに向かう・ヒトに向かううえで大切にしたいと思ういくつかのことがら。全然まとまっていないけれど、それでもこのリフレッシュ期間中に、いったん空っぽにしたうえでインプットしたことを、日々の生活の中で絶やさないようにしたいと思った。

うん。ぜーんぜんまとまらないね。

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