わたしのしごと

だいたい筆を採るタイミングが、なにかこう、思い悩んだけど自分を鼓舞したいときや、あるいはこう、自問自答をした結果を誰かに聞いてほしいと思う時になってきた気がする。大学生の頃に比べて、対外的な発信量は減ったし、記事をあえてFacebookでシェアするのもどうかなと思うようになったので、反応が全くなくすごく切なくなるが、それでも残したい想いは、残さなきゃいけない。といっているそばからこれを書き上げて、Facebookにはシェアをするのはやめようと思うけどTwitterにUpしている自分がいて、なんとまぁちっさいやつだなぁと思う。あと、最近仕事で使うLet’s Noteのキーピッチに慣れてしまったせいか、今MBPでこれを書いていて、とても打ちにくい。どうしたものか。

「わたしのしごと」という取り組みが、弊社では実施されている。というか、自分はその運営メンバーで、立ち上げから関わっている。簡単にいえば、社員によるプレゼンイベントで、プレゼンターは自分のこれまでの仕事やこれからの仕事との関わりを振り返り・整理してプレゼンを作成・実施する。プレゼンターは「サポーター」という、そのプレゼンを聞いてほしい人・フィードバックしてほしい人を選び、サポーターはプレゼンを聞いた感想やそこから生まれた質問を投げかける。その様子は全社に広く告知されて観客があつまり、あるいは映像がアーカイブ化される。そうして、多種多様なキャリア・価値観・働き方・職種の社員の「わたしのしごと」の捉え方が、たまっていく。自分は、この取り組みにとても思い入れを持って参加している。何を隠そう、「わたしのしごと」をひらがな表記にすることを押し通したり、プレ開催として実施した事実上一番最初のプレゼンターが自分だったり、そういうことが、このイベントへのこだわりを示している。

そうだ、その実質初回のプレゼンをしたのはちょうど1年前だった。熱心な読者の方々はご存知の通り、私は去年までデータストラテジスト見習いの卵で、まさか人事になるなんて思いもしなかった時期。そんな時期に作ったプレゼンのキーワードは「助かりました」だった。お客様にしろチームのメンバーにしろ、「助かりました」と言われることが何よりも喜びだったし、「助かりました」と言ってもらえるような仕事の立ち回りができていないと「ちゃんと仕事ができていない」という自覚を持っていた。ただその当時の自分、つまり1年半経ったタイミングの自分は、その当時の仕事やチームにはとても満足していて、それは自分がやりたいと思う仕事を自分で掴んでいたというよりも、自分がやりがいを感じられる仕事がある環境だったというほうが大きい。

そこから半年くらい経った今年の5月の新卒研修の終わりに、どうしても新卒たちに自分の「わたしのしごと」を喋りたくなってしまい、結局喋った。ちなみにこの時は同期である13年入社の社員の数人に「わたしのしごと」を新卒向けに話してもらっていた。で、つい自己顕示欲が出てしまい喋ってしまったのだが(しかも最終日の配属発表前に)、その際には2つのことばを付け加えた。それが、周囲をして「新卒らしい新卒」と言わしめた所以なのかもしれない。

「常にまえのめり」
「あとはうまいことやっときます」

のちに自分は、自分の仕事において成長をはばんでいる壁が、上の二つの考え方だということに思い至る。とはいうものの、この考え方が自分の核として自分自身を育てたという自負とプライドがあり、「そうであった自分」をなかなか捨てられないことも確かである。

そう。それがよくない。

人財育成の仕事をするようになって、さらに組織マネジメントのことに取り組む仕事を傍で見るようになって、より強く感じるようになったこと、そしてそれは自身が教師を目指す理由の根本であり、教師を目指すための学びをしていた頃にも感じていたことだが、教える側は得てして、過去の自分の成功体験の再生産か、自分の失敗体験の防止をしたくなってしまうのではないかと思う。あくまでも学び手・育ち手に合った方法で、学び手・育ち手にとっての成功も失敗も両方経験できる学びの仕掛けとスタンスが必要なのだが、ここがどうも自分自身うまくいっていない。世の多くの「先輩」もそうなのかもしれない。その本人が育ってきた環境や経験や考え方なんて、単なるその人にとっての「事実」でしかないはずなのに、それが「信念」になる。それ自体は決して悪いことではなく、むしろ正常なことだと思っているが、万人にそれが沿うわけではないというところに、難しさがある。

宗教用語は、そこのところをうまいこと言っていて、「卒業する」の「業」=なりわいとは、カルマ:分かっているけれどやってしまう不合理な振る舞い、だと。なるほど、結局みんなそうなっちまう、そうやっちまうんだな、という認識を持つことはとても大事だ。だけどやはり、人財育成に関わる以上、育みたい姿と現状との間を正しく捉え、その間を埋める「より着実な」施策を考えて実行し、それをまっとうに評価するというサイクルは絶対に必要で、そうしたプロセスは個人の強烈な価値観「だけ」に左右されるべきものではないと思う。

でもここに一つだけ、落とし穴がある。
効果がすぐに現れる、とは限らない、ということ。

たぶん人間生きていれば何かしら日々学び体得しているもんだと思っていて、ある施策が直接的にある効果の発揮に寄与しているとはなかなかに特定しづらいと思う。それに、一朝一夕に効果が現れるような施策があったら、んなものとっくにやっているわけで、そうもいかないのが「人が育つ」という営みなのだ。だからみんな困っている。これで、いいのか、と。そうなると、何か信じるものが必要になる。これで、いいのだ、と思える何かが必要になる。多くの場合それが、自身の経験なのかもしれない。それは単に、自分自身が経験したものだけではなく、過去に自分ではない誰かが育まれた過程において起こった効果を目の当たりにすることも含む。

結局、どれだけ合理的であり、個々の「これまで」と「いま」に即していたとしても、「これから」において育みたい姿が(あるいはそれ以上の何かが)発揮されるかどうかはわからない、わかるわけがない。

だから、信じるしかないのだと思う。
つまり、最後は信念なのだなと思う。

今日、自分が研修に携わった新卒たちの半年後の振り返りのプログラムを終えた。会社や仕事から離れた環境に身を置きながら、同期とともに、仕事について思うところを話す、という時間を過ごしてもらった。そのチェックインとして、それぞれに「わたしのしごと」を書いてもらった。しかも、自分の職種名を使わずに。そこには、いろんな仕事の捉え方があって、でもそのチェックインの時から終わりの時にかけて、何らかの変化があった人もいればそうでない人もいた。

はて自分は、と思い、最終日であった今日は自分もそのチェックインをしてみた。

わたしのしごとは、この会社の、そしてこの会社に集う人の成長を加速させるために必要な、情熱と知恵を企てること

自分で書いていても納得感があるし、すくなくとも去年の今頃とは明らかに違う視点で述べていることも理解出来る。僕はそれを成長だと信じたい。ただ、ひとしきり今日1日を過ごしてみてわかったことは、この文言にはさらに追記が必要だということだ。

…情熱と知恵を企てること。【その企てを合理的なものとして保ちつつ、矜持あるいは信念を持ち続け、ぶらさないこと】

正直、入社半年後が順風満帆だといえる環境でないことは、私自身がいちばん分かっている。新入社員は苦労の連続というもんなんじゃないか、とどこかで思っている。事実自分がそうだったわけで、自分の入社半年後は、基本的にベクトルは自分だけにしか向いておらず、また目の前のことだけにしか向いていなかった気がする。「助かりました」が自分のやりがいだと言ったが、その自覚が芽生えたのは配属半年以後の話で、最初の半年は他者をしても「はじめはてんでだめだった」と言わしめるほどだった。段取りが悪い、危ない状況が報告できない、結局危なくなってギリギリになって他の人に迷惑をかけて、それが治らない、という負の悪循環に入り、それを先輩方に厳しく指摘されることによって、同僚とのランチに行ってつい欲張って大盛りを頼むけど残してしまい、というかそもそも同僚=先輩社員とのランチに行くこと自体に勝手にしんどさを覚え、まぁつまり心的ストレスから食が細くなり(しかしその反動で夜は牛丼三昧で不健康だった)、それと心的ストレスから昼間に睡魔がとても襲うようになり、回避行動が目立った。

「俺もこうだったんだ、だからお前らも頑張れ」というと、それは驕りでしかなくなるので自分はそんなこと口が裂けても言うべきじゃないと思う(が、そんなメッセージを発していた気もする)。ただ、そんなことがあったということを忘れていた自分がいたのも事実だ。きっと今の新卒たち(弊社に限らず)の、たぶん半分くらいには、似たような思いがあるんじゃないかと思っている。その認識をすることが大事だと思う。

だけどきっと、そういう思いを持っている人も、その壁を越えることはできる。少なくとも僕は、自分自身の持ってきたスタンスを事例として示すことで、壁の越え方の一つを示したつもりだ(伝わっていなければ無意味でしかないが)。それが合理的であったかどうかはきちんと検証しなければいけない。しかしそれが合理的であったとしても、効果的かどうかがわかるのはまだ先の話で、だとすれば自分にできること、いや、自分がすべきことは、信じることなんだと思う。

いや、分かっている、これは自己満足でしかない。「信じることだ」と言うことで安心させたいのは、実は相手ではなくて自分なのではないか、という仮説。案外これは真かもしれない。それでいうと割とこれまでの自分の仕事は、自己満足のレベルを超えていない気がしている。そんなものは相手にとって何ら無価値であり、そんなのは「仕事」と呼べないだろう。しかし一方で、相手のほしがるもの「だけ」をしていることもまた「しごと」と呼べない気がする。そこに「価値を提供したいんだ」という信念がこもっていない限り、相手に与えることができる価値は相手が求めたもの以上になることはない。

会社的に、あるいは世の中的にみると残念なことに、しかし自分自身でみると幸運なことに、自分はまだ3年目のペーペーで甘ちゃんだから、自己満足でしか仕事ができないという大きな課題があることを認識しつつも、それを逆手に取ってやろうと思っている。あえて空気を読まず、自分が信念を持つ通りに動いてみる。僕にはそんな特権がある気がしている。もちろん、その「しごと」が合理的であるということへの説明責任は果たすべきだしその力はもっと、そして早急に蓄えないといけない。ただ、あと少なくとも2年は、自分が信じるところをぶらさずに「しごと」をしたい。

10年後に教員になる、と啖呵を切って入社してはや2年半。実際、今年の10月に教員免許がようやく交付されたので、その時点から10年という計算だが、年齢というのは常に気になるものであるのも確か。会社人生活において残される期間も少ないと思っている。なら逆算して何を身につけるかを考える、ということはできていない、いや、あえてしていない。なぜなら自分の得意技として、今に至るまでにしてきた経験を、勝手に自分の将来に紐付けて、何が糧になるのかを勝手に整理することができるからだ。だから、職種にも、業種にも、そんなにこだわりはない(とはいえ、実は営業職のように「おう(追う・負う)べき目標を持つ」という性質の仕事は苦手だと思っている)。だから、データストラテジスト見習いの卵からHR領域に転身したことは自分にとっては大したことはなかった。そして実は、教員になることは、夢でもないし目標でもない。マイルストンと捉えている。

そうすると、あることに気がづいた。自分は、何がしたいかよりも、どうありたいかを優先しているのではないか、と。そうすると、自分がこれまでに抱いてきた「わたしのしごと」の捉え方はすべて「在り方」の議論なのだとわかった。

だとすればよりいっそう、「わたしのしごと」は明確だ。
誰に文句を言われようと、「わたしのしごと」は明白だ。

「この会社の成長を、加速させる」

今の自分は、つまりこういうことだ。

それではお聞きください、スガ・シカオで「Progress」

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