最近はなかなか考えることが多い。人事の中でも、企てる系の仕事が多くなってきて、何のために行うのか、効果はどのように現れたのか、ということを考える。そうすると、概念的な「コンセプト」とか、「スタンス」とかを、どうやって身につけてもらうかを考えねばならない。それでいうと「仕事をジブンごと化する」というスタンスをどのように体現してもらうかは、本当に難しいトライだった。ちょっとその辺に関して、今思っていることを吐き出すだけ出し切ろうと思う。
「ジブンごと化」を阻むもの
「ジブンごと化」とは、言い換えれば当事者意識のこと。とはいえこう言葉にしてしまうと簡単なように思えるが、実際はそれを体現することは自分自身でも難しいと思う。自分だったらどうするか、自分には何がやれるか、という視点からコトにあたる。それが「ジブンごと化」なのだと思うが、その「コト」の粒感は人によって捉え方が異なってくる。また場合によっては、自分にとって気がむくか否か、という意味合いで「ジブンごと化」を捉える場合もあるのだが、それはそれで、意図するところと違う。ただ一つ思うのは、当事者意識の強い人間は、極めて健全な自責の習慣を持っていて、そして常に「ジブンごと化」できているとは思っていない、という特徴を持っていると思う。
健全な自責の念、の逆は、不健全な自責の念だ。後者はいったい何かといえば、「できない、それは自分に足りないものがある、だから自分のせいだ、こんなはずじゃなかった」と、ある事象に対する自分の行為が、及ばなかった、またはうまくいかなかったということを、自分の不出来に帰して考え、その自らの足らずの部分に対してネガティブな評価を下し、そのために気を病んでしまうことだ。しょっちゅう私はこれに苛まれる。これがなぜ不健全かというと、その「気を病ませるほどの」ネガティブな評価が、次につながる反省と打開策の提示を阻害するからである。だいたいこういう「不健全な自責の念」にかられる場合は、起こった事実と、それに対する評価をごっちゃにして考えていることが多くて、しかも生真面目な人間がその「ごっちゃの思考」を行うと、たいていネガティブな評価ばかりが顕在化してくる。本来は、実際に起きた事実としての事象と、それの事象に対する正負双方の面からの評価をきちんと切り分けて行わなければいけない。
もっとも、「うまくいかない」事象に対する原因の評価には、「内向きのベクトル」と「外向きのベクトル」があると思っている。内向きというのが上述の「自責の念」であり、外向きというのは「他責の念」だと思っている。「健全な自責の念」ができている場合は、おそらく内向き・外向きの両方がちゃんとバランス良く整理できているのだろうが、とくに新卒者のように「しんどさ」を抱える時期においては、内向き・外向きのどちらかが顕著に出てしまうのではないかと思っている。外向きが顕著な人間には、「おいおい、そうやって他責に付したところで、お前はいったい何をした?」と言いたいし、内向きが顕著な人間には「まぁそう思う気持ちもわかるが、お前が本当に悪いだけなのかどうか、整理したか?」と言いたい。
「自責」と、accountability・ownership
自責=自分で責任をおう、とはなにかを考えるときには、いったん他の言語の助けを借りた方がいい。きっとここまで出している「健全な自責」も「当事者意識」も「ジブンごと化」も同じ意味だと思っていて、英語に直すとaccountabilityかownershipだと思う。こう考えると少し整理しやすい。
accountability、つまり説明することができること。自分が関わっているコトについて、きちんと説明出来ること。そう考えると、自分のコトバで自分が行う行為や携わる事象について話ができるということが「ジブンごと化」だといえる。ちゃんと頭で理解するだけでなく、手足を動かして経験値も得ていて、そして自らの考えも持てている。ということは、次の方向性や改善の一手に対する仮説も持てる。なにより、自分のコトバで説明出来るということは、そこにそれなりの想いがこもっていないと伝わらない。
ownership、つまり、自分がオーナーであると捉えてコトにあたること。それはつまり、自分がいなければモノゴトは進んでいかないという前提に立つことだ。よく「リーダーシップ」という言葉が使われ、リーダーになれ、リーダーになれ、とビジネス界で声高に叫ばれるが、リーダー=「チームやグループの中心でグイグイ引っ張っていく人」だという認識があったとすれば、おそらくその意味合いにおける「リーダーシップ」は別にいらないと思っている。全員が赤レンジャーになる必要はない。それよりも必要なのはownershipのほうで、チームの個々人が「自分がやらないと進まない」と、「よくするもポシャらせるも自分次第だ」と、そう思うことの方がよっぽど必要だと思う。
accountabilityを果たすには、結局ownershipを持たないと、自らの理解と行動に落ちていかない。「健全な自責」というのは結局、自分に関わりのある事象を、自分なりに的確に捉えて整理し、そこに対して的確な評価を下したうえで、「よりよくするために、私は次に何が出来るのか」を考えて人に伝達できる、そして行動に移せることなのだと思う。「改善策」=負を正に転換する企ては、あくまでも「よりよくするために、私は次に何が出来るのか」の一つのオプションでしかない。しかしそこでもやっぱり、「私は」を主語にしてコトを捉え、コトに当たれるかどうかがポイントだ。となると、どんだけ気が乗らないコトでも、「私は」を主語にして「何ができるか」を考えられるかが分かれ道になる。
とある振り返りから考える
なんでこんな結論に至ったかというと、秋に入社した社員に対して実施した1ヶ月の導入研修で、通常の研修コンテンツと同時並行でプロジェクト型の課題を与えて成果発表させるというものを実施し、その最終振り返りにおいて非構成的エンカウンターグループっぽいグループ振り返りを実施したところ、かなり印象深い2つの振り返りに出くわしたからだ。
一つは、任せた方も任された方も「楽をしていた」ということ。
あるチームでは、方向性を「決め打ち」して進めていった上で、まとめ役としての「リーダー」と、それ以外のメンバーに分かれた、という構造になっていた。そのことについて「本来なら俺ももっと『リーダー』の動きができたのに、任せてしまったことに対して申し訳ないと思っている」という発言が出てきた。そこを深掘りすると、その「申し訳ない」の正体は、「結果的に『まとめ役』を任せたことで、自分たちが楽をした、『まとめ役』に負担をかけた」と言っている。しかし当の「まとめ役」は、「実は自分一人で推進してしまう方が『楽だった』」と言っていた。
もう一つの振り返りは、「1/頭数」の責任ではいけない、ということ。
この発言は本当に素敵だな、と思った。その時は6人ないし7人で1チームだったが、振り返りの中で「1/6」の責任、あるいは「1/7」の責任、だと思っていた、という発言があった。たぶんこれも先ほどの議論と同じで、その「責任」の割合が小さくなればなるほど、自分の心的負担が減るから結果楽になる、ということなのだろうと思う。けれど、それではいいものが生まれない、というのが振り返りの中で出てきた気づきだった。まさしくこれがownershipなんだ、と思った。でもそれができなかった、と。
結局お互いがお互いに「楽をする」ということを選択することによって、本来個々人が出すべき「1」のパフォーマンスが、結局「1」になりきれなかった、ということになる。たしかに、全員の合意を図りながら物事を進めようとするときに、全員が「1」のパフォーマンスで来てしまうとどこかに軋轢が生じることは予測される。だからといって、そこでパフォーマンスを絞ってしまうと、各人のパフォーマンス係数を掛け算していった際には最終的に「1」を下回ってしまう。「だれかが進めてくれるからいいや」というその気持ちが、総体としての成果を減衰させることになるならば、いっそ全員が「推進する」気持ちを持たねばならないだろう。その意味で「推進させようとする気持ち」=リーダーシップ、は求められると思う。それがすなわちownershipということなのだが。
それでもやっぱり難しいし大事だよね
と、ここまで書いておいてなんだが、たぶん「仕事のジブンごと化」というのは、ここまで説明されてようやくピンと来やすくなるもので、いや実はここまで書いてもピンと来ない人には来ないんじゃないかと思う。それほどまでにわかりにくい考え方なので、「それを体現する」行動がなんなのかを規定するのもまたすごく難しいんだろうな、と思う。現状に飽き足りない人は余計に、その行動が具現化されたものがなんなのかを物差しで測ることは難しいと述べるだろう。
それでもやっぱり、大事だってことはビジネスマンならばわかっていてほしいと思っている。ホワイトカラー的な仕事(という分け方を便宜上すると)においては、結局必要な根本スキルというのは「仕事のジブンごと化」であり、そこで設定したマイルストンを「やりきる力」だと思う。ここは変わらない気がしている。明確な尺度はないが、このスタンスを持っていると、持っていないとでは、成長に(つまり成果や昇進・昇給、キャリアのステップアップに)格段の違いを生むんじゃないか。この仮説は、かなり立証しにくいが、しかし肌感覚としては正しいと思う。
んじゃ、俺(えんしの)は、どうなんだろうね。
ここで「俺は割とやれてますぜ」と胸を張ったら、そこで俺の成長は止まるよな。
まだまだだよ、まだまだ。