【超長文】成人を迎えた自分を後で振り返るための備忘録

ハタチという節目は、僕にとってあまり大きな意味を持ち得なかったハズなんです。これと言って生活が変わるわけでない。よっぽど、卒業やら入学やらの節目の方が大切で、正直僕が大学入りたてに犯罪犯しちゃったとしても顔出し名前だしOKなんて考えるくらいです。だって、権利と義務が同時発生するだけで、その権利と義務の行使の機会なんて全うに生きてりゃそうそう現れねぇだろ。っつうのがこれまでの考えです。

けど、成人式をやってみて、そいつは違うんだなって思ったんですね。
その権利と義務の発生とやらは、実は相当の重みを持っていたという事ですね。これまでは、法の下で保護されていた立場。子どもという名の下に仕方ないと許された立場。そこから、自己の責任で動かなければ、つまり自分で全て処理しなきゃならない立場になったわけです。そんなこと、18歳の遠藤忍なら法律の文章を読んで理解し出来たはずです。ただ、なってみないと重みはわからないわけです。

見知らぬ人とかお偉いさんとか恩師たちとか、家族からまでも「おめでとう」と言われる。いったい何がおめでたいんだか。でも少し考えてみれば、それは大人への仲間入りとか、独り立ちのゴーサインとか、期待の現れとか、そんな意味なんですかね。成人式典はものの30分で終わりましたが、主催者側にしてみれば、あの式を挙行する本当の意味は、子どもからの決別と大人としての権利・義務の自覚を促すこと、早く言えば、ちゃんと税金納めろよ、というメッセージなのかもしれないですね。まぁ成人者の目的はそんなことでないことはみなさんご存じでしょうが。

かつてやけに大人びていた僕は、しきりに大人と同等の権利を持つことを欲していました。特に参政権、被選挙権ね。それが今、そうした大人の権利を持ち、そのかわり子どもという立場を捨てた。子どもの頃の僕は「よかったじゃん、これで選挙にも行けるよ、酒も飲めるよ」なーんて言うのかもしれませんが、実際はなんだか悲しいもんですね。子どもだったからこそ言えたこと、認めてきてもらえたこと、これからはそんなもの無い。さて自分はこれからどうやって成人した遠藤忍を確立していけばいいんでしょうか。

そういえば、子どもの頃から大人びていた、いやサラリーマンキャラ、ちがうおやじキャラだった僕ですが、その発端は家族(むしろ祖母)の影響だったにしろキャラを確立したのは僕自身でした。そんなこともあり、また髪もたいそういじらず、太りもせず痩せもせず、ただめがねがつけ加わっただけで忍は忍のままで忍として生活してきたら、数年ぶりに再会した多感な時期・中学生時代をともに過ごした仲間の全てから「おまえは変わらない」と言われました。そりゃそうでしょう。おやじキャラは自分で自覚してたんだし、今はそのキャラに年齢の方が近づいてるんですから。でもねぇ。中身はだいぶ変わってると思いますよ。親友の一人は、「何となく変かは感じる」と言ってくれますし。

それでも「変わらない」と言われることは、みんなにも自分にも安心感を与えるんじゃないかって勝手に考えています。5年ぶりに会う同級生は、ファッション・髪型・顔つき・体型だいぶ変化があります。それにそれぞれ当時とは明らかに異なるフィールドで人生を生きている。それでも、口癖に残るなつかしさ、動きに残るなつかしさ、口をついて出る話題、面影、そういう変わらない部分を見つけると、ホッとするんですよね。学年の仲間たちと会って、いい刺激といい安心感を得た気がします。本音を言えば、もっと静かな環境で、一人ひとりの今の進路とか、そんなまじめな話したかったけどKYだわな。

考えると、ハタチってのが特別な意味を持つのがよくわかる気がする。人生20年生きたんだから、そろそろ保護される立場じゃなくなっても生きていけるだろう、体の成長も成熟したし、知識や精神もしかり。そういう理屈でハタチっつうのが一つ。もう一つは、学校教育制度との兼ね合いですね。つまり、義務教育でみんなが同じレールを歩むのが15歳まで。中学校を卒業すると、自分の関心・学力・生活水準などのいろんなレベル・身の丈に合わせた選択肢を取っていく。そうして生活する中で、5年という区切りのいい年をきっかけに、一緒にレールを歩んできた仲
間たちと再会する。互いに懐かしさを共有して、今の近況を話し合って、元気をもらって。そういうことができるからハタチっていう節目に意味があるんですな。そりゃハシャいじゃうわ。式中にプラスチック製バットを振り回したり、開式の言葉を述べる僕に向かって「忍〜」と叫んだり、会場外で酒盛りしてゲロ吐いたり。わかるよ、そうしたくなる気持ち。うれしいもんね。

びっくりするようですが、僕はもう日本人の平均寿命の約1/4を生き抜いてしまいました。そのうち最初の5年間はろくに言葉も交わせなかったわけで、次の5年間は世の中がなんたるかなんて知りもせずに遊びふけってたわけで、その次の5年間でやっと社会を知り、他人とのつきあいを知り、未来を真剣に考えた。その後の5年は素早くすぎて今に至るわけです。怖えぇ。そんな平均寿命の1/4を、家族は暖かく心配してくれてたんですが、口の利けない5年間は何も示せず、遊びふけった5年は当たり前だと感じ、広い世界を知った5年は反発し、そして最近の5年は自分中心になった僕。今ハタチになって、僕は恥を覚えました。何を今更、なんて言い放つ技が身につきました。格好悪いですね。

私を産み落とした母はもうこの世には居らず、私を育てたのは祖母と父と父の再婚相手である今の母です。一緒に暮らす弟と妹とは血のつながりはありません。ま、そんなこといっさい関係はありませんが。ただ、産み落とした母はよくぞ俺を生んだと思い、その命を受けた祖母はよくぞ手塩にかけたと思い、悲しみを背負った父はよくぞ大きく育てたと思い、本来なら他人だった今の母はよくぞ自由に世話をしたと思います。この人たちの存在がなかったら、という問いかけを忘れたとき、僕は高慢にならざるを得ない。これは非常に自己中心的である自分への、自分からの警鐘です。

結局何が言いたかったんだって??
ハタチって節目も意味があるんだなって事がわかったって事ですよ。

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