この文章、本当は9月のアタマに書くつもりで、最初は9月1日の社会言語科学会の道中でキーボードをたたいていましたが、いつの間にか10月になってしまいました。とにかくそのときも今も、感じることは、夏が早く過ぎた、ということです。
この夏は、僕にとっては学生最後の夏休み。多くの学生は海外に行くとか、遊びまくるとか、そういう過ごし方をするのでしょうが、僕の場合はちょっと違っていました。特に7末〜9月には、私にとって想い入れの深い出来事がいくつか起こりました。そのことをまとめたいと思います。最初は、忘れもしない12年前の再来について、つまり、参議院主催・子ども国会にOBとして招待を受けたことをお伝えします。
2000年の夏。その当時の僕の夢は、図らずも叶ってしまいました。
国会議事堂で、国会議員として議論に参加すること。
その当時の僕が志していたことでした。確か、政治家になりたいという志は、大学に入るまで本気で叶うものだと考えていましたが、その考え方も大学生活という広い世界に触れることによって崩れてしまいました。時おり、自分の志はそこまでのものだったのか、と思うこともありますが、望めば叶う世界ではないことが分かった分、それでも“ナシ”な世界ではないかもしれない、と思っていました。
どこかでまだ、政治家の夢を完全に捨てきっていなかったり、あるいは今、世の中全体をよくしていきたいと考えたりすることの根源には、あの2000年子ども国会に参加したという経験があって、その経験が未だに自分を刺激し続けているのかもしれません。その意味で僕は、本当に恵まれた子どもでした。
参議院主催の子ども国会は、参院創立50周年の時に一度行われたイベント。任期6年の参院の余裕があるからこそできる新しい試みの一つとして1998年に行われました。その当時は参加資格に満たないどころかそもそもイベントの存在など知らず。それが2年後の2000年に、ミレニアムを記念して行われることになったのです。当時の参院の定数と同じ、252名の子どもたち(小5〜中3)が、学校や少年団、サークル、ボランティア団体等の代表として集まりました。
もともと小学校時代から政治に興味があって、それは毎朝ニュースを見る習慣があったからですが、国会がなぜあんなに年老いた人たちだけで構成されているのかということに強い疑問を抱いていて、いつしかそれが「自分が若くして国会議員になる」という夢に昇華していったのでした。その夢が将来の希望として固まっていた小学校6年生の春先、僕は学校で青いポスターを見かけます。未だに覚えている、青地に、子どもたちの目線が白黒で掲載された、2000年子ども国会のポスターです。出たい、という希望を担任に伝え、県教委に応募、運良く茨城選出の子ども国会議員になることができました。
2000年子ども国会での議論内容は多岐に渡っていました。環境、教育、科学技術、福祉、国際関係、たしかまだあった気がするけれど、そんな所だったと思います。思い返せば、総合的な学習の時間の始まる前年であったことから、環境問題は「ブーム」とも言えたころでしたし、バリアフリーなんて言葉が出始めたのもその頃。そして2000年は、5月のGW中に西鉄バスジャック事件が発生し、少年犯罪が社会問題化した頃でもありました。子ども国会は、そうした課題のあるさなか、わたしたちは未来に向けて何をすべきだろうかということについて、各分野の委員会で各自の考えを発表した後に、自由なディスカッションを行い、その結果を委員会報告にまとめて、更にそれを子ども国会宣言にまとめました。
僕は、委員会でこそ闊達に発言していたものの(議事録が残っており、発言が一字一句残っています)、正副委員長や書記になっておけばよかったと後悔、本会議でも発言できませんでした。まぁそれは目立ちたがりながらのセリフですが、その時は確かにそういうことしか考えていなかった。でも振り返れば、熟議という考え方に触れた現在からすれば、あれこそ本当の熟議の姿だったと思います。立法府であり行政に対する管理機能を持つ国会審議が、どうしても政府や法律の起案者に対する質疑に終始するのは仕方ありませんし、発言の多くが何らかの拘束力を持ちうるとすればあのスタイルは合理的ですが、しかしやはり、委員会で委員の子ども議員たちが自分の考えたことを闊達に話し、ただ大人に求めるだけではなく、自分たち子どもに何ができるかを真剣に考えるというのは、まさしく熟議だったと思います。
国会議事堂で議論したことはもちろん、もう一つ、一生忘れられないであろうあの夏の経験は、宿舎である代々木のオリンピックセンターでの夜の出来事。僕は環境第一委員会の委員でしたが、議論し足りない感覚は残っていて、そんな折にふと通りかかると、談話室で語り合っている集団がありました。教育第一委員会、当時ホットだった少年犯罪やいじめの問題について話していた委員会です。参加したい欲求がありながら、律儀に他の委員会だから入っちゃいけないと思いつつ、「傍聴させてください」と言って、その場で立って議論を聞きながら、結局我慢ができずに発言してしまったことを覚えています。
その場が強烈に僕の記憶に残っている一つの理由は、「勇気の日」という提案でした。ある中学生が、彼女の出身中高の委員会活動で、坂本弁護士一家殺害事件を契機に、当時のいじめや少年犯罪などの問題もからめ、「お年寄りに席を譲る、そんな小さな勇気でも、勇気の大切さを考える日をつくれば、きっと良い社会になると思う」と発案したものでした。委員会でも提案がされていたようですが、その夜のディスカッションでも多くの賛同を得、最終的には「もし明日『勇気の日』の発言ができた時には、ここにいるみんなで起立しよう!」ということにまで発展し、参院事務局に大目玉を食らいました。
その後、その場に毎日子ども新聞の記者さんがいたことから、「勇気の日」活動は割に大きな広がりを見せました。僕も中学時代にそれについてのホームページを作ろうとして…(いや、今からすれば中二病っぽいな)ってこともありましたが、そういうきっかけもあったことで、ますます自分の志向が、社会に向かっていったんだと思います。そうした点においても、子ども国会という、たった2日間(宿泊を含めると3日間)での経験が、現在の自分を形作る一つのキッカケになっていたことは、本当に大きなことです。
その参議院主催・子ども国会が12年ぶりに開催されることになり、去る7月29日に国会議事堂に向かいました。参議院で働いている職員の方から突如メッセージをいただいたのは、確か3月頃だったでしょうか。Facebookでそのことを知り、子ども国会が参議院主催で再び行われることを心から喜びました。実は参議院が主催してこなかった間、大学生を中心とするグループが「子ども国会」を開催しており、その動きはなんとなくウォッチしていましたが、国会がオフィシャルに開催されることは大きなことだと感じました。
テーマは「復興から未来へ」。タイミングとしてはベストマッチングだったのではないかと思います。自分が参加したときに感じた、自分たちに何ができるかを真剣に考えるというスタンスは、進まない復興、原発問題など、震災後の日本をどうするかということを考えるだけでも意見が大きく動いている現在において、子どもたちに問題を時分ごとに引き寄せて考えてもらう意味で本当に重要なことだったのだと思います。実際、各県3名のところ、東北3県は議員を加配していました。形式は委員会形式と本会議を構成要素としていました。委員会ごとに意見をとりまとめ、本会議で宣言を採択するという形をとっていました。
この日のもう一つのミッションは、子ども国会OBを集めることだったらしく、1998年子ども国会と2000年子ども国会の両方の参加者のうち、本当に若干名ではありましたが参加者がありました。学生の方もいれば社会人の方もおり、関西でお仕事をなさっている方も駆けつけていました。なかでも印象的だったのは、「勇気の日」の提案者であった当時中学生だった方、そしてその隣で「勇気の日」に感銘を受けて活動に加わった当時中学生だった方との再会(いや、こちらからすれば勝手な再会だったでしょうが)でした。特に提案者の方は、子ども国会を契機に、人にものを伝えることのすばらしさを感じ、アナウンサーをめざし、そして本当にアナウンサーとなった方でした。その再会、そして他のメンバーとの一期一会も奇跡的なものだったと思います。
参議院議員の皆様との懇談を通じて、とにかくいろんなことをを話させていただきました。それぞれのOBも、バックグランドを抱えながら生きてきて、そのなかに子ども国会という経験を持っていて、だからこそ考える今の日本社会と子どもたちとの関わりの話は、つきることもなかったです。夜は、子ども国会議員の懇親会に参加しましたが、午後一で見学した委員会での姿と違い、本当にこの子たちは純粋な子どもたちなんだということを痛感する時間でした。委員会での子どもたちは、議場が本当に静かでみんなが真剣なまなざしで発言者の発言に耳を傾け、また発言者も真摯に自分の発言を場に共有しているという時間でした。でも実際そういう場面からは、子どもたちらしさを見いだすことは難しいと考えています。しっかりしている子どもたち、という印象だったからこそ、僕自身は、懇親会ではっちゃけまくる子どもたちを見て、また安心するのでした。どこの世の中でも、ジュースを混ぜる子どもっているんですよね。
ところで、その委員会で、僕は感銘を受ける発言に出会いました。
「子どもにもできることは大人にもできて、子どもと大人でできることは両方でできるから、できるんじゃないですか?」
何の文脈だったかは忘れました。実際日本語の書き言葉としてはちゃんとしていない一文ですし、小学生の発言って大体そうなんです。でも、これが僕にとってはすごく本質をついた発言だと思っていました。子ども国会は僕にとって、まさしく熟議の場だと回想するわけです。自分たちの問題を、自分ごとに引き寄せて考えることができなくなっている世の中に憤りを感じていた自分にとって、この発言は本当に多くの大人に聞いてほしい発言でした。はっとさせられました。
自分自身が子ども国会に寄せて、議員のみなさんに送ったメッセージをご紹介します。
あの311の大震災は、東北だけでなく日本全体に、大小さまざまな問題を突きつけました。
しかし私たちは、絆を合い言葉に、それらに立ち向かおうとしました。
でもあれから1年経って、オトナたちは、誰かがやることに賛成か反対かを叫ぶだけに戻ってしまいました。
本当に必要なのは、自分にできることは何かを考えて実行することです。
子ども国会は、これからの日本と世界の未来について、皆さんが自分たちにできることを考える場です。
私が参加した時もそうでした。
全国の仲間たちと一緒に、未来について真剣に語り合う皆さんは、
きっと将来、自分のできることを実行していってくれると信じています。
はっとさせられたあの発言を聞いたことで、僕は2012年子ども国会議員たちが、僕の願った通りになってくれるということを確信しました。
私たちは、子ども国会に参加して、様々な人たちとのきずなの大切さを改めて発見できました。今後は、ここに集まった子ども国会議員の仲間たちとともに、支え合うことの大切さを、学校や地域の友達に伝えていきます。そして、子ども国会宣言を全国に発信して、きずなの大切さを広く大人の人たちにも分かってもらいましょう。
この、子ども国会宣言の一節を読んで、大人たちが思うことは本当にそれぞれです。実際、この宣言だって参議院のパフォーマンスだろうとか、大人に踊らされた子どもたちがかわいそうだとか、批判的なTwitter発言を目にしました。しかしたしかにこの宣言を採択した子ども国会議員たちにとっては、この言葉は本物なのだと思います。「きずなの大切さを広く大人の人たちにも分かってもらいましょう。」と、呼びかけの形で書かれているということは、これは大人たちへの警鐘であることを忘れてはいけません。その意味で、一人の人間として子どもたちは敏感です。かつての私がそうであったように。
参議院は、通常国会の閉幕に際し、議長が異例の形でメッセージを残しました。子ども国会が開かれ、子ども国会宣言が出されたこと。どれだけその宣言が、漠然とした言葉の羅列に見えたとしても、あるいは法的拘束力を持たないとしても、しかしあの子どもたちから発された本物の宣言は、参議院という法治国家における意思決定機構による宣言として未来永劫残っていく訳です。政治は、そしてそれに関わる私たちは、宣言で言われていることの本質を見失わずに、自分ごととして社会を担っていかなければいけないのだと思います。
そしてそれは、まさしく2000年に子ども国会議員であった自分にも当てはまります。あのとき語った言葉は、今でも本物か、今でもちゃんと心にあって、行動に現れているか。常に振り返りながら生きていかなければいけない、まるで宿命に似た責任です。