さて生と死ということを考えなかればいけませんね。
殺人と自殺に関して僕が思うことは、やはりコミュニケーションが必要であるなということ。しっかりとした人間関係を築くことが殺人や自殺を食い止めるのではないのでしょうか?放送でもペトロさんが、編集者に救われたといっていましたが、やはりそのような人のつながりというのは絶対に必要です。
殺人を犯した人に、殺すのはいけないって言っても、自殺したい人に、死ぬのはよくないって言っても、結局は聞き入れることができないそうです。なぜ殺しちゃいけないの?なぜ死んじゃいけないの?命がこれほどまで軽んじられるのはなぜなのでしょう。
人が死ぬということがどういうことだか解っていない子どもが多いそうです。小学校低学年の子どもたちの中には、人間は生き返れると思っている子どももいると聞き、僕はびっくりしました。要因はあげればきりがありません。
ただ一ついえること。
僕の先輩がメールで話してくださいました。「何事も経験が必要だよな」「人が死ぬ」というシーンを目の当たりにしていないのは問題があります。死をリアルなものとして感じられないのです。
現代の殺人は、憎しみが原因というわけでもなく、現代の自殺は、極度の鬱状態に陥るというわけでもない。というところから考えれば、やはり、人が死ぬことは重いこととは思えていないのでは?
つけ加えといっては何ですが、誕生することの重みを感じることも必要だと思うのです。
教育が必要だ。いつも僕は思います。それこそ、人間として生きるための教育こそ最重要なのです。その教育現場は、家庭。子どもにとって、一番身近な生活環境です。ここでのコミュニケーションの取り方こそ、殺人,自殺減少の第一歩ではないでしょうか。
さてジェネジャンででてきたテーマをたどって考えていくと、次の話は、死への責任。放送では、イラクで拘束された安田氏がでてきましたね。僕は彼を尊敬することができます。拘束された人に対して巻き起こった自己責任論。ただこれは僕は間違っていると思うのです。
彼らは自分の命がなくなるのを覚悟してまで、真実を伝えよう、現地の人を救おうと行動を起こしたのですよ。自己責任論を展開するあなた、あなたにはこんな決断できますか?彼らは、命がなくなる危険性があり、その始末は自分でするという覚悟の上で、現地に行っているわけで、無計画に行くわけなどありません。
宇梶さんがおっしゃっていました。「現地で苦しい思いをしている子どもにとっては、誰だか知らないおばちゃんに助けられたらそれはうれしいよ」と。
ここからは、誰かのために自分の命を犠牲にできますかというテーマに移りますが、現地に行った人たちは、「できる」と答えるのでしょうね。
僕にはできないと思います。そりゃ、とっても愛している人が危険な目にあって、僕が救わなければならなければいけないならば、悩んだ末決断するでしょう。しかし僕は見ず知らずの人に命を捧げられません。
でも命を捧げる以外にも、何か救いの手を差し伸べることができるはずです。人間は、それを考える脳みそを持っているのですよ。
中越地震の被災者の映像が放送されましたが、現地の方はやっぱり強いですよね。分かったことは、やっぱり人は生きたいんですよね。その生きたいと思うエネルギーってのは、大きいものだと感じました。
スマトラ島をはじめとする島を大きな津波が襲っています。現在までに2万人以上が命を失いました。でも、僕は少なくとも当事者ではなく、リアルにその出来事を感じられません。
言い訳のようですが、仕方のないことではないかと思います。ただそれではさみしいですよね。日本人にも行方不明者がいます。生きていてほしいと願うしかありません。
番組の最後に登場した奥山さんの本を読みました。奥山さんのサイトの日記を集めたものなのですが、はっきり言って、感動はできません。ただ、リアルです。
本人曰く、感動できるものは書くつもりはないようです。でもそのリアルさがすごく印象に残り、また、その中で生きてやろうとする奥山さんの姿勢、病床でもアクティブにする奥山さんの姿がかっこ良く思えたのです。
命は長さではなく、質である。最終的に奥山さんの言いたかったことはこういうことではないでしょうか。
ゴールを定めれば、そこまで頑張ることができる。ゴールの設定がだらけてしまえば、過程もだらける。
僕は、自殺したい人に言いたい。「命を絶つなら、後悔しないような生き方をしてからにしなさい」と。
ある程度死ぬことを覚悟することは必要です。死というものをリアルにとらえて、その上で、「自分は生きたい。そしてみんなに生きてほしい。」と思うことが、生きる上で必要ではないでしょうか。
命。
終わってしまったら、リセットも、再挑戦もできません。その中で自分は、後悔のない、自分にとって高品質な命を過ごしたい。
「人は死ぬんだ。」
「でも、生きたい。」
「そして、生きてほしい。」
ジェネジャンを受けての、僕の思いです。
26日のコメント書いてたら、いつのまにか先に28日分出されてしまった。ついでにここに一言私の好きな大河ドラマ「新撰組!」で印象に残ったセリフを・・・
近藤勇の打ち首を受けて勝海舟が言った「人はどう死んだかじゃねぇ。どう生きたかだ」って感じのセリフ。武士らしく切腹か罪人らしく打ち首か、ということです。
あと修学旅行で沖縄に行きました。沖縄戦では「アメリカの捕虜になると、戦車にひかれて殺される」と言われ、多くの人が自決しました。離島の海もきれいだったけど、あなたなら本土の資料館できっと何かを感じることが出来るはずです。
こんな時期に私は何をやっているのだろう。まぁ、それはおいておこう。
自己責任論を語るには、それがなぜ起こったのか考えねばならないだろう。
最初の人質事件が起こってしばらくは、自己責任などという言葉は聞こえなかった。ではなぜ自己責任論議が始まったのだろうか。人質となった3人の家族は何をまず訴えただろうか。「自衛隊を撤退させろ」である。仮に撤退すれば相手の要求を飲むことにはなるが、理性の残っているグループならば人質は解放されるだろう。これは別におかしくもなんともない。当然だろう。
だがどうだろう、次第に「自衛隊がいたせいで拘束された」「日本政府のせいで・・・」となってきた。この主張が正しいと考える人もいるだろう。しかし私は何かがおかしいと感じる。記憶が少々曖昧だが、ニュースで彼ら家族の会見を見るたびに何が違和感を感じていた。彼ら3人がイラクで行ってきた事については素晴らしいことだと思う。中傷するなどもってのほかだ。だが彼らの家族たちは、もはや単純に自分たちの主張を強硬に訴えているだけだとしか私の目には映らなかった。了見の狭い人だ、と思われても別に構わない。だが、どこからどう見つめ直してもそうとしか思えなかった。
そんな中、一部の政治家が言い始めたのが、自己責任論だった。まぁそこで自己責任だ、と言って責任をすべて彼らになすりつける態度も国を代表の一人として酷いものだと思うが。だが、それらの政治家も、そこまで国に責任をなすりつけるんだったらお前らはどうなんだ、という気持ちで言ったのではないかと思う。普通だったらわざわざ危険な地に赴いて現地の人を支援したり、もしくは真実を伝えようとしたりした人を悪者扱いするはずがないだろう。だが、この自己責任論が世論を二分したというのはそこらへん、たとえば家族の対応などにより巻き起こってしまったんだと思う。
例えば香田氏の時は、中越地震などもあって関心が少なかったせいや、残念な結果になったせいもあるだろうが、家族が冷静な対応をしたから、旅行という本来はあまり感心すべきでない理由なのにもかかわらず三人の時より非難が少なかったのだと思う。
イラク戦争自体の正当性も世間では問われた。反対の立場の人は、アメリカが石油欲しさに戦争を仕掛けた、等と主張する。確かにそれはもっともだ。だが、盲目的に戦争はいけない、と言っている人には違和感を感じる。そりゃ、私だって戦争は大嫌いだ。人が理不尽な理由で死ぬ、というのは実際にあってはならないことだし身をもってそのつらさを分かっている。だが、戦争が良くないなら独裁ならいいのか。
フセイン政権下では、実際に化学兵器がクルド人居住地に対して使用され、5000人以上の死者、1万人を超える負傷者が出ている。この事実を知っている人は全体から見れば少ないだろう。戦争によって解決しようとしたアメリカもアメリカだ。だが狭い了見に基づいて、事実を調べようともせず言葉の綺麗さ
だけで戦争反対を叫ぶ人にも疑問を感じる。それこそ平和ボケだ。
盲目的な、狂信的な考え方はだめだね。別に特定の誰かが今そういう考えだから直せ、といいたいわけではなく、ね。
言いたい放題言ってたらこんなに長くなってしまった。普段はこんなことあまり言わないのに。見事enshinoの思惑通りに動いてしまったということ
か。やられたなこりゃ。長々と申し訳ない。乱文にて失礼仕り候。