相手があっての自分、ということについて – 2018年の「箱根山学校」の記録を書き起こす

この連休で、「箱根山学校」というワークショップに参加している。

岩手県陸前高田市にある「箱根山テラス」という施設で行われる、風を感じながら、「定点観測」をするような会が、今回オンラインで行われている。いろんな人の話を聞くことができる機会で、2017年と2018年に現地で参加した。

今回、2017年と2018年に、自分の記録としてメモをとりつづけたスケッチブックに、その続きとしてメモをとっていこうと取り出し、その中で、2018年の初日に綴った文を見つけたので、眠くなるまでの間、打ち込んでみようと思う。


☆相手があっての自分、ということについて

去年の自分は、闘っていた。それは、Iさんの目にも、Jさんの目にも明白だったようだ。Jさんにいたっては、その闘っている僕の姿について、それでも飾ることなく素直になってことばを出していると言ってくれたし、Iさんは「これは話かけてことばを伝えることはできても、それは解決にはならない」と思ってくれていた。

その足跡がわかるこのスケブをふと読み返すと、いくつかの言葉に再会した。

  • 世界は他者で満ちている
  • もやもやしていないやつは信用ならない
  • ソーシャルマント

一日中ずっと、西村さんの話を聞いて、それはいろんな方向に渡っているように見えて、実はつながっていて、というよりも、聴く人によってつむぎ方がちがっていて、でもそれらは西村さんのあり方に根ざしたものだから、つながっている、ということなんだと思う。人それぞれに、何かの意味を見出しているようだった。


僕にとってのそれは、自分という存在は、他者の存在によって、生きている・あるいは活きている、と思えるかもしれない、ということだ。

元来、自分はずっと自分自身との対話、あるいは自意識との格闘をしていて、まさしく西村さんが思考をめぐらせてきた、仕事とは、働くとは、自分とは、という問いについて、割とずっと考えてきたと思う。そして午前中のセッションの話題の中心として自分が捉えていたのも、自分の持てるスキルにどんな意味を持たせて仕事としていくか、ということについてだった。それはすなわち、自分自身が、何に信念やら矜恃やらを持ち、どのような人間観を持つか、という自らの「捉え方」についての問いだと思っていた。

午後になっても「仕事における成果は海面より上に出ている島のようなもので、その島は、海面下に技術・知識、その下に価値観・考え方、更にその下に存在・在り方というものがあり、これらの層の一致があってはじめて成果になる」というモデルが示され、かつそれは「自分を活かして生きる」という本からの抜粋で、つまり自分自身をめぐる問いである、と思っていた。


だがその後、西村さんが、ジョゼフ・キャンベルの『神話の力』から引用した次のことばが、「自分自身は自分だけでは規定できない」という気づきを僕に与えた。

「なにが、自分を幸福にしているのだろう」

これを僕は、自分を幸福たらしめるのは、自分自身ではなくその周囲にあるものである、と、はたまた「自分」とは相対的なもの、あるいは周囲との相互作用によるものだ、と捉えた。これを対話の相手に伝えると「森に入ることで、植物や虫の音にかこまれて、自分が生きていることを実感する」と言っていて、やはりそうか、となった。

こうして書きながら思い返すと、確か午前中も、「よくデザインされていることは気づかない」という話題になったが、その「良いデザイン」というのは、使い手、つまり影響する相手を見通したものである、ということを考えると、「仕事」と「相手」というのは切り離せず、つまり自分の仕事の良し悪しを規定するのは自分ではなく他者である、ということに気づく。


はたまたキーワードとして出てきた「違和感を手離さない」ということについて、違和感を違和感たらしめるのは、自分の周囲に存在するものに対する比較行為なわけであって、つまり相対的なものである。さらには「あこがれ」とか「嫉妬」とか「承認欲求」とかいう話の中で友廣さんが「外からの光がないと、自分の存在を見ることはできない」と言っていて、誰かの「まぶしさ」を受けることで「自分」が出てくるのだと思った。

それはおそらく、まぶしく見える存在によって「あこがれ」や「嫉妬」を覚えることで、自我に気づくか、あるいは、眩しさについていくことで活性化されていく、ということがあるのだろう。友廣さんはおそらく、ある種のまぶしさでもって、出会う人を活性化して、新しい仕事を生み出したのだと思う。と、ここまで考えてきて、「仕事の先には相手がいる」とか「仕事は人にいい影響を与え、人を『生きている』という感じにする」ということに対して、改めて納得がいく。

他者のと自分の相互作用。その中で、自分の動きが誰かの輪郭をハッキリさせて、また自分自身をハッキリさせていく。他者は自分ではない、違うものだけに、そこに関わっていくということにおいては、なんというかアタリ・ハズレがあるわけで、モヤモヤとか痛みとかは、他者へのかかわりがあるからこそ生まれ、それはある種、自分のあり方や存在に、ゆさぶりというか、波を立てるようなことであり、だからこそ、そうしたモヤモヤは自分の在り方や存在を深めてくれる。その深まりや広がりが、更に自分を自分たらしめ、そしてその上に表出する「仕事」をよりよくしていく。こうした一連を経験するからこそ、働くことで人が活き活きと動き、また傍が楽になるのだろうと思った。


そこへきて思い起こされるのは、「世界は他者で満ちている」ということ、だからこそ「相手と自分とていねいにかかわる」ということである。ここでいう他者は、なにも人間だけではなく、自分の周囲にあるものはすべからく他者であり、自分に対して影響してくる。おおきな「さまざま」の中の一部である自分が、しかし周囲の「さまざま」を活かしていく、という営みをする上で、よく見て・感じて・率直に関わってみる、というのが、大事なことなのかもしれない。

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