2022年・箱根山学校でのジャーナリング

明日から東北・三陸沿岸に前入りして、2024年 9月 20日(金)から「箱根山学校」というワークショップに参加する。

過去、3回参加したことがあるこのワークショップは、岩手県・陸前高田市にある箱根山という山の中腹にたたずむ箱根山テラスという宿泊施設で行われる。箱根山テラスは、海から吹く・山から吹く、そんな風の行き来を感じられる場所で、自分にとっても「定点観測」をするのにぴったりな場所だ。

そもそも「ワークショップ」と呼んでいるのも、周囲へのわかりやすさのためであり、上のリンクから読めるnoteにもこんなことが書いてある。

この学校は、なにが学べるのかよくわからないまま10年目をむかえようとしています(正確にはコロナを挟んで11年目)。わかるとか、成長するとか、出来るようになるといった即物的な効果・成果を求められがちな時代に、なにやってるんでしょう。でもそういうのはもう十分じゃないですか。人のことを「変えよう」とする本やイベントや情報が多すぎる気がします。ほっといてくれ!

中心メンバーである、友廣裕一さん、長谷川浩己さん、三原寛子さん、長谷川順一さん、そして西村佳哲さんがつくる(いや、つくってすらいない?)場において、集まった人たちがめいめいに語っていくことから、集まった人たちがめいめいに何かを学んだり学ばなかったりしていく時間。

そこでは私はいつも、自分自身を見つめる。

絵を描くわけでもないのに、スケッチブックを持ち込んで、それで話をひたすらペンでメモしていく。読み返すわけでもないが、書き込むことで話が入ってくる感覚。そうしてひとしきり人の話をメモした後、それを読み返しながら、自分の内省に手の動きを任せてペンを走らせる。そうしてジャーナリングをする。

書いたジャーナリングは、過去のものはこのシリーズにまとめている。

箱根山学校の、自分の記録

だが、2022年に参加した回のジャーナリングをブログに書き起こすのが、2年経ってからの旅の前日になってしまった。奇しくも「箱根山学校」は、2024年を最後に区切りがつく。

ちょうどいい。ちょっと思い返すとしようか。


2022年 9月 16日 朝のジャーナリング

久々にジャーナリングをしている気がする。手でものを書くということを、久しくしていなかったのかもしれない。人にはそれをした方がいいと言っておきつつ、自分はそれがあまりできていなかったのは、なんというか、自分をていねいに扱っていなかったのかもしれないな、とも思う。

自分と相手とていねいにかかわる、という、恩人のひとりが掲げていた言葉は、まだ胸の中にはあるが、ここのところ自分は相手にていねいさをくばれていたかと思うと、あやしいかもしれない、と思う。やはり頭の中に出てしまうのは、仕事上におけるコミュニケーションだったりする。そのことが頭にちらついてしまい、なかなか「旅に来ている」という感覚に集中しきれていない感じがあるのかもしれない。

特にある人とのコミュニケーションについては、その種は自分がまいたことはわかっていて、だから自分が相手から信頼を得れていないということも分かっているのだが、相手から感じられるものに対して心はしんどくなるわけで、その裏にあるのは、自分がリスペクトされていないように感じる悔しさであるとか、自分が相手の幸せのためにと思って伝えていることが伝わっていないことへの悲しさだと思う。でもそれで思うのは、自分がマウントを取ろうとしていたり、相手より自分が上であるということを示そうとしていたり、と、自分が相手へのリスペクトを忘れていないだろうか、というのはある気がしている。今日、別の人と話す中で救われた思いはしたが、そうしたところで相手との関係性において自分の優位性が保てたということにはならない。自分に痛みが伴うのは分かっていることであり、うまくそこを分散させながら、件の相手に対して関わっていくことをあきらめたくはないと思っていたい。それが自分の、人に対するスタンスであったはずだからだ。

ところで、僕は一方で、また別の人とのコミュニケーションのことを気にしているというか、気を遣っているというか、そんな感じなのだと思う。(中略)それは自分が「手離す」ことができていない証拠でもあるだろう。そして、相手がしている判断には何ら問題がない分、その判断に至れている相手が持つ情報・その背景にある信頼を私が持ち得ていないことへの悔しさがあるように思う。そしてそれは、自分の手中でコトが起きていて欲しいと望む「手ざわり感」の欲望がまだまだ自分にははびこっているからであるように思う。「手離すこと」と「手ざわり」を持つことの間において、自分の役割とはどこにあるか、あるいは、やりがいというか、在る意味というか、そこがまだ定まりきれていないのかもしれない。ある意味、そのトランジションこそが、自分の今の成長課題なのだろうと思う。プライドとかそんなもんは脇に置いておいて、Get things doneに迎える自分になりたいものだ。

しかし、いまもう一つ思うのは、いかに「受け止められる自分」でいられるか、ということであり、別言すると、一言申したくなる自分をどう扱っていくか、ということでもある。そこまでして自分は相手に対して何をしたいと思っているのか、という問いが浮かぶ。どこか、相手は変わる、相手を変えられる、という自分のエゴが、まだまだはびこっているのかもしれない。まだこれは、自分の中で解ききれないお題なのかもしれない・・・


2022年 9月 18日 朝のジャーナリング

いろんなところからいろんな会話が聞こえてくる朝食後、そこから離れた方が思索が進むかもしれないが、でもそれを横耳にしながら考えを書き出してみるのもいいかもしれない。今朝は晴れてテラスが使えていて、それはそれで気持ちがいい。思いの外、自分を苛んでいた思考は、姿を隠していたようだ。

さて、手離すこととと手触り感について、が2日前から自分を苛んでいた思索の一つだったが、それは友廣さんが一つのヒントを与えてくれてた気がしていて、それは、自分の手ざわり感がどこにあるのかを探しつつ、他方でマネジメントについては、一緒に働く人がどうエネルギーを解放できるかについて考えるようにして、結果手離している、ということだった。「イマココ」についてはメンバーに託し、「もう少し先」についてはどんどん自分で切り拓いている感じに見えた。

それは自分の仕事においても同じであり、Organizerを自称するのであれば、その役割は「しかけていく」ことなのかもしれないし、そうなったら「イマココ」のマネジメント・メンタルサポートは他の人に託すことができるはずだ。そこを自分が本当に取るべきなのかについて、もう少し、自分の腹を落ち着けてみてもいいのかもしれない。

特性として自分は、自分が発信したい、というのが強い人間で、だから思いついたことは自分で具現化したくて、自分で手を動かしていたくて、だからいろんなことが起こっていることについて、把握をしていたくて、というのが強いから、自分が知らないところで何かが動いていくというのに対して、おそらくは疎外感というか、さみしさがあるんだと思う。その意味では今の仕事上のパートナーは、右にいて具ケンカを担ってくれる人というよりも、自分で考えたことを形にしていくという特性がある人だから、その意味では自分が少し立ち位置を変えた方がいいのかもしれない。

そんなことより、今日のテーマになりうるのは、「好きな仕事をしているのにメンタル削られる問題」かなぁ。


2022年 9月 19日 午前のジャーナリング

軒下にいると冷える。今回はあまり晴天にならない3日間だったが、でも陰鬱としなかったのは、箱根山テラスに風が通るからなのかもしれない。今回は、カゼを引かずに山を降りられそうである。

来る前から、悩みというか、頭の中に気になってくっついていることはあったのだが、思いの外気持ちはフラットでいられて、はじめて箱根山学校に来た時のドロドロした感じとか、2回目の時にまだ残っていたlook at meの感じとかは、よりうすらいで居れているように思えている。でもそれは、頭のなkない気になってくっついていたことを忘れたからか、というとそうではなく、それらは引き続きくっついているのだけれど、捉え方を変えてみようかな、とか、逆にこのままでいいんだな、とか、そういう気づきたちによって、気持ちのざわめきがおさまっているのかもしれないと思う。

自分が「発信したい」が多い人間でありながら、どこかその発信に対しては、コンテンツとなるもののスペシャリティみたいなものに「欠け」を感じるところがあり、やはりミニクラスのネタは周りのウケを気にしてしまったところもあって、考えることにやや居心地の悪さを感じていた。そんな昨夜、自分がどこか楽しんでいたのは、他の人のミニクラスネタについて、それを聴き出し、けしかけ、ふんぎりをつかせるような関わりだったように思う。これはミニクラスのネタに限った話ではなく、Community of Interestの時も同じだった。

去年までは、自分を「校長」ということをためらっていた〇〇さんが、気づけば「『社会』や『地域』とつながる学び」というテーマの会で、イキイキと校長としての日々のマネジメント話を語っていた。彼女はその時、「こんな話、今まで言えなかった」と言っていて、結局、ミニクラスのテーマに「校長をやってみた」を出した。僕はこの一連のプロセスにおいて、彼女のエネルギーの放出と、発信に対する「一歩踏み出した」感を、自分が後押ししたような感じを得た。自分が何かを発信して聞いて欲しいという欲求がありつつ、他方では、発信に尻込みをする人に舞台に立つ勇気を持ってもらうことへの喜びを感じられる、ということに改めて気づいた。

ここのところ、自分を苛んでいた仕事上の悩みは、一つにはメンバーとの関係性の構築であり、いまひとつには、仕事上のパートナーの前のめりな動きをどこかで羨ましく思うというか、パートナーが主体的に動くことで、自分の役割や居場所がなくなりそうな感覚であったのだが、そのいずれも、昨日の西村さんの「話したいこと相手が話せているか」ということが解決へのポイントになりそうな気がしてきた。

誰かを主役にできることを喜べる日々へ。さて、次に来た時、どう進捗しているかな?

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