エッセーを提出してから7ヶ月。
面接の合格通知をもらってから4ヶ月。
月日は早い物で、もう明日が出発だ。(出国はあさってだけどね。)
ついに朝日ニッケ英文エッセーコンテスト・オーストラリア研修が始まる。
しばらくブログ更新はお休みしていた。帰国後にでも再開しようかと思ったけど、出発を前にした今日だからこそ書きたいことがある。だから勝手な判断でメッセージを残すことにした。
思えばいろんな人にお世話になり、明日を迎えることになった。エッセーの題材の奥山さんを始めとするジェネジャン関係者の皆さんはもちろん、学校の先生方にもだいぶ支えていただいた。友達もちゃんと理解をしてくれ、祝福してくれた。NOVAで知り合った社会人の方にはおいしいイタリア料理までごちそうになった。もちろん、一番感謝すべきは親・家族の存在に他ならないと思う。
そう、多くの人々の理解と協力の下で、明日の出発を控える僕がいる。そういう人々への感謝の心なくしては、旅立つことなど出来るはずがない。今、心から叫びたい。「ありがとうございました」
しかし。
僕にはいま、たった一つだけの「未練」がある。今これを書いている自分の胸が何かもやっとしているのもそのせいなのだ。今の自分の思いや考えていることをどうしても伝えないことには出発できそうにもない。
未練。それは何に対する物なのか。
この胸の突っかかりはまさしく「コンクールへの未練」なのである。
僕は年が明けてから「今年は海外へ行く。だからコンクールはDでいく。」と心に決めていた。その決意があったにもかかわらず、今こうして未練を感じているのは、純粋に、「コンクールに出たいから」だろう。たった一度の本番のために何時間もの練習を積む。時には嫌になることもある。でもあのステージで味わう楽しさ、緊張感。演奏者たちの心が一つになる、その快感。賞を取れたときのあの喜び。そのコンクールの魅力があるからこそ僕は未練を感じてしまうのではないか。さらに言うならば、今年のD部自由曲が「第六の幸運をもたらす宿」であることも未練を感じさせるのであると思う。あれだけはまった曲はそうそうない。オーケストラver.を聞いたときの感動は今でも忘れまい。もうあの曲の練習が楽しくて仕方ない、そう感じていた。そこまではまったコンクール曲を、コンクールで演奏できない寂しさは募る。チャリティーコンサートでは全曲版をやるという噂を聞いたが、コンサートとコンクールでは何かが違う。そう思えるから割り切れない。
以前、顧問からこのような説教を受けた。
「例えオーストラリアで抜ける奴がいても、俺は本番で、そのメンバーがステージに居るつもりで振る。」
そう。気持ちは共有できる。でも、肉体で・リアルタイムであの感動を味わえないのは寂しいのだ。同じ感情をキンガロイ(不動岡の姉妹校)行きのD部メンバーも感じているのではないかなぁ?特に、いつもセクションを仕切ってきてくれたキンガロイメンバーがいるが、彼女にはそれなりの思いがあるのではないかなぁ?と思う。
コンクールとオーストラリア、どちらが大切かなんて秤にかけられない。どちらも俺にとっては大切なイベントだ。でもオーストラリア行きのチャンスがつかめるのは今しかない。コンクールはまた来年出場できる。そういってオーストラリアを満喫するのが一番だと思う。でも「第六」で出るコンクールは最初で最後なんだよなぁ。東部地区でも「最後の演奏だ」と言う意識があってもいまいちモチベーションがあがらなくてしくじってたから。・・・そんなことばかり言ってもしょうがない。事実は変えられない。受け入れるしかない。部員日記でヘイくんが言ってたっけ。ひたすら前を向くしかないって。
そう、未練未練と口にしても意味がない。
ただ、ここまで練習に参加してきた者として、みんなに伝えたいことがある。
みんな、演奏を楽しもうよ。
モチベーションあげようよ。
十分あがっているのかもしれない。でもそれが行動として現れなきゃ。こんなこと、グダッてる俺が言うのもなんだけどさ。演奏中に顔が下がるのは演奏の楽しさを失わせていくんだよ。「面が倒れる」と書いて「面倒」でしょ?「白」と言う字は、光が当たることを意味するそうだ。「面白い」というのは、顔に光が当たる、つまり顔があがっている状態を意味するんだ。顔があがると息の流れが上向きになって明るい音程になってくる。笑顔も明るい音をつくる要素の一つだと思う。笑顔で、顔あげて、「第六」を吹くことを心から楽しむ。それが、明るい響きをつくる。自然と音程がよってくるようになるんだ。
それから、返事のこと。
最近みんなよく返事してる。これ、いいことだと思う。でもね、宗教みたいなのは嫌だけど、上手い学校の返事はさらに声が張っている。返事については色々論ぜられている。発声練習になるとか色々。でも僕が考える返事って言うのは、意思表示と意志共有、そして合奏の雰囲気を明るく保つ方法だと思う。前にたつ人間の指示に対しての意思表示の方法は返事しかないとおもう。また、返事をすることによって、互いの理解度を共有することが出来ると思う。正直、返事が少ないと前にたつ者は不安になる。わかってるのかわかってないのかわからない。双方の声の張りがどんどん失われていく。それが合奏の雰囲気を暗くしてしまいがちになる。本来音楽って楽しむ物だから、シーンとしている合奏は音楽と言う言葉の意に添っていないと思うんだ。まずは返事から変えていけば、合奏の雰囲気が明るく、活気づいた物になって、演奏自体も明るい物になっていくと思う。それに付随して言えば、前にたつ者もしっかりと声を張って自信を持たなきゃならない。新部長とか、新学生指揮者とか、結構不安だと思う。でも実際はよくやっているから自信持たなきゃ。
さらに言うなら、返事が出来るタイミングを増やしてみてもいいかもしれないと思う。
それから、俺が前言ったこと。意見や考え・注意とかを、面と向かって言える、そういう環境づくりが必要だと思う。これから合宿がある。何かミーティングでも持つ機会とかあるんじゃないかなぁ?東部が終わった後のミーティング、D部二年生の一人一人の意見はすごくいいものだった。でも、本来ならそれが強制的に意見を述べる者であってはいけないと思う。そりゃ、シャイな人だっているさ、意見が浮かんでこない人だっているさ。でもみんな、部活に愛着を持っているからやっているんだろうから、何かしらの思いはあるはず。それをぜひ、自発的に、みんなの前で言ってもらいたい。そしてそれが、まるで一桁の足し算が出来るかのように簡単なことになるような環境を作ってほしい。完成しなくてもいい。でも少しずつつくっていけば、だいぶ演奏にも功を奏してくると思うんだ。
あと、曲を愛してほしいってこと。俺、「第六」愛してます。数々の曲を今まで愛してきました。今愛している曲はこれです。曲に惚れ込むと練習が楽しくなる。幸い、みんなこの曲好きなようだから、その感情をもっと高めてみてほしいな。オケver.聞いた方がいい。ほれるから。
とにかく、僕は、本番で最高の演奏をしてもらいたい。願わくば勝ちを狙ってほしい。埼玉県の吹コン高校の部の一発目を演奏することに誇りを持ってほしい。一番目だからって物怖じすることはない、中学校の頃、1番目で金なんて言うこともあった。とにかく、どんな環境であれ、全く我関せずで、自分たちの最高の演奏をしてほしい。この間、低音セクションを仕切らせてもらった。正直、みんな上手くてびっくりした。これはいけるぞと思った。パンチの合奏とかで積み重ねてきたものが十分生かされていると思う。僕はみんなが最高の演奏をすると信じきっている。それなりの根拠と自信がある。みんなも自信もって臨んでほしい。
俺は本当に今までいろんな人に迷惑をかけた。
例えば。新幹部決定後、D部のパーリーを決めるとき、僕は迷わず後輩に任せた。実はD部のチューバはみんなコンクールに出られない。上が居なくなったときのことを考えて、あらかじめパーリーを任せようと思っていた。でもそれは、彼に尋常でないほど多大な圧力をかけていたことになったと気づいた。彼には本当に悪いことをしたと思っている。と同時に感謝している。こんな押し付けがましい役職を最終的には引き受けてくれ、パート練習もしっかり引っ張っていってくれた。彼には本当に迷惑をかけ、また世話になった。ありがとう。
先生にも迷惑をかけた。結構、事態の収集をつけるのが大変だったろうと思う。先生自身悩みがあり、それを解決に持っていった矢先に俺が問題を起こした。そのことで、本当に先生にはご迷惑をおかけした。でも僕はその時、先生に救われた。本当にありがたかった。そのときにかけてくれた言葉は、なきそうなくらい感動した。
迷惑をかけた皆さん、本当にごめんなさい。
でも、部員の皆さんが理解を示してくれたことが、僕にとって一番うれしかったことです。ありがとうございました。
もうそろそろシメに入らなきゃ。今僕は、125人の優秀なメンバー(うちDは75名)を信じて旅立とうと思う。彼らならきっと、よい演奏をしてくれるに違いない。あ、A部のことに触れなかったのはなぜかと言うと、A部の本番のときには既に帰ってきているから、帰国後に触れようかと思っているからだ。そこはあしからず。
それじゃぁ、明日からの研修、しっかり学んできます。
いってきます。