久々の更新は、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス「福沢諭吉と現代1」の最終課題としてついさっき提出したものです。ちょっと、読んでほしいなぁって思って、そして自分の思考の足跡のためにも、ブログに貼ることにしました。今学期は、修士論文で死にそうになったため、SFCの修士科目をはからずもドロップアウトしてしまいました(反省しています)。しかし、この講義だけは、6年間を慶應の湘南藤沢キャンパスで過ごしたことの集大成として捉えたかったので、何度か欠席しましたが大切にしていました。
もうほんとに、SFCを卒業しなきゃいけないんですよね。
「民の自立とは、一方ではさみしいんじゃないだろうか」
最終講義で私が提示したことである。しかし、そうしたさみしさをみじんも感じられないほどに、私が講義を聴いたゲストスピーカーの方々は、それぞれに輝きを持ちながら自立を語っていた。スルガ銀行の岡野社長は自立とは頼らないことだとおっしゃった一方で、「おたがいさま」を提示していた。自立とは、ただ「誰にも頼らずに一本立ちすること」なのだろうか。この解釈を誤ると、全てを独りで背負い込むことにつながってしまうかもしれない。
独立自尊、自我作故、そうした福沢諭吉の残した概念は、単に独りであれやこれやとすることを指している訳ではないだろう。現に福沢諭吉は、慶應義塾の学びの中核概念に半学半教を位置づけている。一歩先をいくものが教え、まだ未熟のものが学ぶ。しかしここには「独りであれやこれや」ということが現れていない。とすると、福沢諭吉の示した「民の自立」とは、個々人が独りでも生きていけるようになる生き方の問題だけではないのかもしれない。
リビング・ワールドの西村さんの回は、サンフランシスコの街並の写真が導入部であった。ここで示された、公・共・私の領域の区別が、「民の自立」とはどのようなものかを捉える手がかりになると考えている。彼の話の多くの部分は、相手を・自分をどんな存在として見ているか、ということがらに軸をおいていたように思う。人とのかかわりあいにおいて重要なのは、自分が相手をどんな存在として見ているかであろう。それはとりもなおさず、自分が自分をどんな存在として見ているかにつながってくる。
社会とは人間の集合体であり、むしろそれ以上の意味合いを持っているものであるが、しかしその空間は明らかに「私」ではなく、相互行為によって調整だったり協力だったりを繰り返す必要がある場所である。時には衝突もするが、それすらどうにか折り合いを付けなければいけない。それこそが「共」の空間であり、だからこそ余計に、接する人間という存在をどう見るかということが必要になってくるだろう。
自立は、自分自身で立つということである。それには、立てるだけの能力を有しているかどうか、自分自身で分かる必要があるし、自分自身で立つ勇気の裏にある自信は、そうした能力を自覚しているからこそ出てくるものなのかもしれない。時にドット・ジェイピーの佐藤さんは、大学生時代に「自分が何をしたいか分からない」ことから社長のかばん持ちに飛び込んだ。それが現在の彼の活動に至るまでにおいて、それらの活動のミッションは後づけで、実際は周囲からの求めによって動いてきたと彼は語った。その彼が「立てるだけの能力を有しているかどうか」を自覚していたのかどうかは賛否が分かれるだろう。それでも言えることは、彼は周囲の人々のニーズに応じて自分が動くという能力を有していたし、「なにがしたいか分からない」ということを自分で理解していたということである。
「私」の自立とは、おそらく自分自身を理解することなのだろうと考える。その一方で、自立している人はどこか「共」に資する姿勢を見せているように感じる。「じぶんごと」に手一杯になるだけではまだ自立しているとはいえず、「じぶんごと」に余裕が生まれ、その部分を「共」に還元していくところに、「民の自立」の本質があるのではないだろうか。
岡野社長が「頼らない」とした相手は「公」であろう。「民」の対概念もまた「公」である。しかし、「民」は「私」を指しているのではなく、むしろ「共」を指しているように思える。玉井先生が諭吉と現代2の席で示した「新しい公共」の説明は、公に担いきれなくなった部分を民が担っていくことで歳出をそもそも押えようとする動き、というものだったと記憶している。この考え方に基づけば、「共」が「公」に頼らずに社会を動かすことが「民の自立」と呼べる状態なのかもしれない。この点で、岡野社長の示した「頼らない」ことと「おたがいさま」は相反しないということが分かる。というよりも、「頼らない」と「おたがいさま」は次元が違うことが分かる。
一身独立して一家独立、一家独立して一国独立。学問のすゝめで福沢が示した学問の意義は「立身出世」の4文字に集約されるだろうが、それは「私」空間における話ではないと思えてくる。福沢が目指したのは、学問を通じて「共」に資することのできる人財の輩出だったのかもしれない。ただ、そうした「共」に資する人財となるためには、単に「独自に」なるのでは意味がない。むしろ「さみしい」と感じるくらいに他者との関わりを持ち、そうした他者に資することを求めるところにこそ、「民の自立」の担い手が生まれるのだろう。
さみしいからこそ「共」の空間に資する。そこに自立を見いだした、6年間の締めくくりであった。
ふと、自身の過去作を読み返した。10年前にアップした、大学院生時代最後に受けたとある授業の最終レポート。読み返して、今の自分に通じている感覚を得た。すっかり忘れていたにもかかわらず。
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