筆をとっておかないと忘れてしまいそうになることがある。これは、ある人から聞いた話のメモ書きのようなもの。その人はFacebookをやっておらず、お名前も聞きそびれたので、本当に一期一会で、しかも旅先での出会い。珍しく僕は自分から酒を買って呑んでいたので、話していても、思うように言葉が出なかった。それもあってか、徐々に薄れゆく記憶のなか、できるだけその話を再現したいと思った。たぶん、無理だろうけど。
その話は、なんというか、最終的には、自分の志を最終的に見つめ直す、なんというか、議論みたいな会話だった。
「大地の芸術祭」越後妻有アートトリエンナーレ2018に行ってきた。2012・2015と行き、人生3度目となると、初めて行った年がもう6年前だということに驚愕する。初回は1日だけ、前回が1泊、今年も1泊で、前回と同じく、松之山の三省ハウスに宿泊。廃校後も建物が残された木造校舎をそのままに、内装をリノベーションしてドミトリーにしたこの施設は、今年、9月9日の日曜日から、という日程の割には空室だったもののそれなりに多くの人が宿泊していた。レアンドロ・エルリッヒの作品が展示され、宿泊者限定で「松之山の夕暮れを表現する」演出を鑑賞する、それを待っている時に、その方と軽く話しをした。
作品鑑賞を終えて、寝支度を整えたのち、だれかしら「おひとりさま」が語らっているだろうと思い、食堂にて「よろしく千萬あるべし」の焼酎ハイボールを買って飲もうとした時に、ふと目に入ったのが「松之山すごい人カルタ」だった。おそらく松之山には小学校が一つしかないので、その松之山小学校の児童が製作したんだろう、小4らしいタッチの、決して上手とは言えない味のある絵札と、その絵の内容から連想するのが難しい、反対に文面から絵を想像するのが難しいほどにとても詳しい情報が記載された読み札。しかも絵札の文字部分は人名の頭文字だし、読み札側で人名が出てくるのは最後の最後。本当に、地元の人でさえも勝利を収めるのが無理ゲーなのではないかと思わせる、そのカルタに、僕の興味は全て持って行かれた。これは、授業実践としておもしろい。ちゃんと数えていないが、30人以上はいるだろう、その絵札・読み札の組み合わせについて、おそらく全部取材しているわけで、読み札を読むにつけ、みんな確かに「すごい人」なのだから、そうして地域に目を向けることができるのは秀逸だろう。
僕が好きなのは、つまりこういうことだ。そう思いながら、酔いが回ってきた僕は、絵札と読み札のマッチングをし始めた。酔っている状態じゃまじまじと読めないので写真を撮影してからあとで見ようと思っていた。そんなとき、件の方がお越しになり、「何をやっているんだ」と声をかけてきた。そりゃそうだ、はたから見れば何をしているんだという話だ。
「地元の小学作ったカルタが、妙に味があるのでマッチングしているんです」
「確かに味がありますね、でもなかなかこんな色づかいできないですよね」
「決して上手とはいえないですが、ここまで地元の人を調べ上げてカルタをつくるってこと自体が、探求の実践としてとても興味深いんです。私、将来教員になりたいと思っているので、参考にしたいな、と」
そんな会話をかわしながら、その人は僕が並べたカルタを手にとって眺めていた。ひとしきり全てのマッチングを終えて、片付けをしたところから、その人は「自分は最近の若い人のことが興味がある」と言って、自身が抱えている興味の話をし始めてくれた。
曰く、彼女はとある演劇集団の演出家をしている、と。ここでは具体的に名前を伏せるが、多分この後の記載で何と無く想像がつくだろうと思う、そんな有名どころの演出家らしい。とりあえずそこも「会社」として運営されている組織なだけに、毎年新入社員が入ってくる、と。彼彼女らをみていると、どうも積極性がないように思えてしまい、新しいものを生み出していくことが求められる世の中において、生き残っていくことができるのかが心配になる、と言っていた。だからこそ教育現場がどうなっているのか、純粋に興味がある、と。
その指摘に対して私は、いつの時代も「今時の若い者は」論争は起きるものだが、ただ最近の若年層は、いろいろと苦しんでいると思うと伝えた。正解を求められる画一的な教育から、答えが多様であるという方向に教育が舵を切った結果、結局正解を求めるようになってしまったのではないか、と。対話の中でFacebookやGoogleの話が出てきたのだが、私からするとそうした創業者はある意味で「バカ」(○○バカ、の方の意味)であり、欧米は「バカ」を「バカ」のままでいいとできる腹のくくりがあるように思っているが、日本では中途半端に旧来型の教育が残っているおかげで「バカ」のままであることを許容されないのだろう、と伝えた。
加えて私からは、平田オリザさんの言う指摘をお伝えした。すなわち、昨今の子どもたちはむしろ昔以上にコミュニケーション力は高まっていて、いろんな情報をつなぎ合わせて人前でプレゼンテーションすることには長けている、という指摘だ。これをお伝えしたところ、「確かに」となった。一方で、インターネットの普及によっていろんなことをすぐに知ることができるようになった反動で、想像力を働かせることや、知りたいという欲望をずっと溜め込んで探求に走る、ということがなくなったよね、と彼女は言った。今ならすぐにググってWikipediaを見て終わり、でも自分が幼い頃は、まず母親に聞き、釈然としない答えが帰ってくるので図書館に行き、そこで調べに調べまくってようやく「分かった!」となる、と。その喜びを感じる機会が減っているのではないか、と言っていた。確かにその通りだろう。
これに関連して面白い話を彼女がしてくれた。曰く、彼女が仕事をする演劇集団は、役者の養成学校を持っており、毎年多くの卒業生がそのまま団員として入ってくる、と。その養成学校は誰もが知る、そして入るのも至難の伝統校で、全国から洗練された若者が集うところなのだが、これが都心出身者と田舎出身者では役を演じる際の想像力の豊かさが格段に違うという。実際彼女が「この人の演技はいい!」と感じた役者の出身地の駅にたまたま降り立つ機会があり、その光景を目の当たりにしてみて「なるほどそういうことか」と思ったそうだ。一面何もないど田舎。それがその役者の完成を育てたのではないか、と。彼女曰く、特に九州出身の役者は格別だ、とのことだ。
とても興味深い。なぜならよく言われることとして、田舎には選択肢がないからどうしてもキャリア選択の幅が狭まると言われており、だから様々な選択肢を知っている方がいいと、僕自身思っていたからだ。だが同時に納得もいった。都会は情報に溢れすぎている、そのせいで「はいはい、こんな感じね」と、役に対する想像が容易についてしまう分、表現が頭打ちになるのだろう、と。他方、田舎出身者の場合、その役柄に対する事前情報が少ないぶん、自分の想像力で補わなければいけない範囲が多く、それが故に表現が豊かになるのではないか、と。さらにいえば、例えば三省ハウスのレアンドロ・エルリッヒ作品で描かれる「松之山の夕暮れ」で流れてくる音声から聞こえる動物や虫の音も、「どうぶつ」とか「むし」とかいう大まかなくくりではなく、ちゃんとそれらの固有名詞で判別がつくだけの感性が、田舎暮らしの中で身についていくのではないか、と。
選択肢や情報が多ければ、それはその人の未来の可能性を広げることになる一方で、今を感じる感性が頭打ちになるかもしれない。反対に情報や選択肢が少ないことが、将来の可能性を狭める一方で想像力を大いに育む可能性がある。そんな、なんとも矛盾めいた事象。なさすぎるのも、ありすぎるのも、豊かではないということを示している、という話だった。
ところで気になっていたんですが、と話題を切り替えた。あなたの劇団には多くのファンがいるが、実際に作品を演出していくときには、新しいことを取り入れていくことでファンを楽しませていく方向性と、既存のファンが「はいはいそういうことね」となって楽しませていく方向性と、どちらの方が比率として大きいか、というのを問うてみた。彼女は少しして「今は完全に後者です」と。経営体制が変わり、創立当初はメセナとしての事業であった劇団が、ビジネスの指向性を高める方向性に変わり、その結果既存顧客を喜ばせることで収益を上げていくほうに向かっているらしい。
それこそ古くからいる演出家は、新しいことを観客に届けることが使命だ、という気概の元に、一番突飛な例で言えば、カマキリの交尾シーンを演出にいれる、なんてこともやってのけたらしい。だが今では、ファンが求めるその劇団「っぽさ」ばかりを追い求めるようになってきた、と。あの舞台装置、こんな感じの衣装、そんな音楽、と、「それっぽさ」を出すことが上からの指示でもあり、そんな経営層は社員や団員に対する訓示でも、いかに文化を創造したかよりも、いかに集客し売り上げたか、ということが話されるという。
でもふと思って聞いてみた。ショービジネスの本場のブロードウェーも、あれはあれでビジネスとしてやっている。なのにたくさんの作品が生まれてくる。同じビジネス目的だとしてもその違いはなんだろう、と。帰ってきた答えは、その劇団は、作品にファンがついているのではなく、役者にファンがついている、というモデルであり、コンテンツがどうあれその役者が出ていれば観客はくる、と。なるほど、それってAKBシリーズやジャニーズのファンの構造とそんなに変わらないのかもしれないですね、となった。
だがそこも昔と今で違いはある、という。どんな違いかというと、役者にファンがつく、ということには変わりがないが、現代はSNSが発展したことによりだれでも批評ができるようになったことで、ファンに「迎合する」ようになった側面があるという。昔はそんなことがなかったので、役者にファンがついている分どんなコンテンツでも演じれたからこそ挑戦的な演出が可能になっていた。だがいまやファンが発信できるようになったからこそ、下手なことができなくなってきた、という。情報が増え、誰もが発信できるようになることで、多様性が認められるようになってきた分、逆に中庸をいくようになる現象。もしかするとこれは、たとえば食べログ高評価は実際とびきりの美味しさとは限らない、とか、昨今の就活生がワークライフバランスを気にしたりとか、そういうことにも繋がるのかもしれない。
「本場パリに行かないと観れないものを、私たちはここでやるんだ。それが人々を豊かにするんだ」というのが、その劇団を創立した事業家の想いだったそうだ。それはある意味、選択肢が少なく情報が少ない時代だからこそ希求した豊かさへの挑戦。それが、情報の非対称性が減り、提供者と享受者の間がフラットになっていくことで、新しさへの挑戦が減っていくという現実。だからこそこれからの教育は、できるだけスマホには触れさせず、できるだけ自然の中で子どもの感性を育てるべきでは、というのが彼女の主張だった。一理ある、と思った。だが他方で、やはり自分が目指したいのは、今の時代のリソースを活かしながらも、人々がいかに様々なことから気づきを得られるか、それを面白がれるか、ということだと思い至った。
いつだったか、吉本新喜劇をみて、安心感がつくる笑いと、意外性がつくる面白さというのがあるな、と思ったことがある。面白い、と感じるのは、違いがあってこそなのだろうな、と。ある意味私が現代アートを好むのも、違和感を面白がるからであって、それは別に、都会だろうと田舎だろうと、気づきのベースを育むことには変わりないんだな、と思ったところで、消灯時間が来た。無論その後、いい眠りについたことは言うまでもない。