石巻レポート – 2.津波を受けた街を目の当たりにして

4月16日と17日の2日間に渡って、石巻市に行ってきました。第2編では、到着した朝に見た、石巻から女川に向かう光景を、写真とともに掲載していきます。なお、この記事には、現地の写真を掲載していますが、写真を撮影すること自体にも賛否があるかと思います。どうか、ご自身の判断でご覧下さい。

再掲ですが、読む前にご留意いただきたいのは、このレポートは、たった1泊2日しかしていない大学生の見方で書かれたものです。ですから、これが現地のすべてではありません。しかし、現地に赴いた僕にとって、実質36時間程度の間に見聞きしたことは、今のところ僕の頭の中では「すべて」なのです。ですから、そうした書き方になっていることをご了解ください。

0.プロローグ 〜どうして行ったのか〜
1.準備したこと、そして必要なこと
2.津波を受けた街を目の当たりにして ←いまここ
3.泥かきの体験と「ありがとう」
4.フットベースと下ネタ
5.石巻のボランティアセンター体制
6.被災地の通信の状況
7.「それどころじゃない」という事実
8.避難所を回ってみて
9.メッセージと勇気を届けること
10.エピローグ 〜何を得たのだろうか〜

高速を降りた瞬間は実感しなかった

いつの間にか、石巻河南のICを下りたプリウスは、ハイエース・ノアの2台の先導にしたがって石巻市に入りました。仙台東部道路から三陸道にかけて、朝もやどころじゃない霧の中を走っていたため、まったく周囲の状況を見ることが出来ず、そうでないとしても、三陸道は海岸より内陸側を走る道路なので、かの有名な松島も、また津波が襲ってきた仙台空港も、その様子を見ることなく走ってきました。

寝ぼけ眼であったこともあってか、三陸道無料区間から通常道路に下りてからしばらくは、「なんだ、綺麗な街じゃないか」と思う光景が続いていました。朝6時。車も人も通りが少なかったのです。石巻バイパスと呼ばれるわりかし広い道路を通っている最初のうちは、「あ、この店はうちの地元にもあるよなぁ」と思うような店が建ち並んでいました。石巻イコール、マスコミ映像で見ていたガレキの町並み、というイメージとは離れていました。

明らかにおかしいな、と思ったのは、北上川を渡る前くらいからです。今、これを書きながらGoogle Mapを参照しているのですが、石巻工業高校を過ぎたあたりから、だんだん街がホコリっぽくなってきて、そして信号が消えてきているのです。「店はやっているよなぁ」と思いながら、北上川を渡る時。カメラを手に取ったのはこのときです。下の写真を見てください。

北上川も津波の影響でかさが増したのでしょうか、川岸に船が打ち上げられています。その隣の写真、NTTの石巻営業支店なのですが、明らかに1階が浸水したのが見て取れます。

漁港沿いの国道を走りながら

さて、ここからは石巻の道路地図を見ながら読むとより分かりやすいです。

橋を渡って女川方面に向かいます。女川街道国道398号線を走るのですが左手は山、右手は海です。石巻市の東部の海沿いは石巻漁港、主に水産加工工場があるのですが、車が走った国道は、海岸から最大で1キロは離れています。しかし、道路沿いの町並みはガレキになっていました。スーパーのヨークベニマル、ホームセンターのホーマックは1階部分がすべて流され、鉄骨が見えていました。もう、すべて流されていたのです。ちなみに、この下の写真は、ドラッグストアの写真です。

こんなに海からはなれていたのに、建物がここまで倒壊するとは。津波で流されたのか。現状の理解に苦しみました。

建物がどのような状態でそこにあったのかは分からずとも、流されると何が起こるかと言うことを実感したのが以下の写真のような光景です。

車が、車の上に乗っかっている。これは廃車置き場ではありません。道路の脇です。こんな風に、壊れた車がいっぱいなのです。流されたんだ。。。すでに述べた通り、女川方面に向かって左手は山、右手は海で、あるところで左手の山に墓が建てられているところがありました。墓石は崩れていないのに、墓の手前部分で車がひっくり返っているという状況が見られました。

ひどいのは地震じゃない、津波なんだ

石巻漁港を過ぎていき、渡波という地域を過ぎていくと、万石浦というところに入ります。地図を見ていただければ分かるのですが、石巻はリアス式海岸の入り口と言ってよいのでしょうか、複雑な地形になっており、万石浦というところは、海が湖みたいになっています。その万石浦沿いを走るJR石巻線に並走するかのごとく国道を走っていくと、先ほど前見えていたがれきの光景が、逆に少なくなっていくのです。

さっきまでは、なんとか道路のガレキを端によせて通れるようになっていたはずの国道が、女川方面に向かうに連れてひどさが軽減されていく。右手に見える万石浦には養殖イカダがあり、それらは崩れているのですが、左手側にあるお宅などはまったく崩れたりしていないし、ガレキも見当たらない。

完全に浦沿いを走るようになったあたりから、道路が冠水している部分がありましたが、それはおそらく津波ではないだろうな、と予測することが出来ました。カーナビの地図を見ながら考えてみれば分かります。万石浦は、確かに海水なのでしょうが、浦の入り口が狭いので、おそらく津波が到達しても軽減されたのではないだろうか、という訳です。

石巻線沿いに2つほどコンビニがありましたが、どちらもそれなりに営業していました。それほど、ある一定の部分までは、建物が健在だったのです。ここから感じ始めたのは、未曾有の大災害であり、またニュージーランド地震を超えるマグニチュード9.0の地震であったにもかかわらず、当然震度も6を超えるものだったろうにもかかわらず、建物は頑丈だったということです。考えようによっては、日本の建築技術はすげぇってことさえも感じました。地震の揺れはおそらく通ってきた一帯は同じだったはず。なのに、壊滅的被害を受けた地域がある一方で、建物が健在の地域がある。とすれば、その差は何か。それは、津波だったのですね。たかが水だと思っていました。その認識は甘かった。

県立女川高校を過ぎたあたりからでしょうか、またガレキが見え始めてきました。おかしいなぁ、さっきまで、徐々にガレキの光景が軽減されていったのに、今度は目の前からガレキの光景が広がってくる。もう、溜め息しか出ません。そして、女川漁港周辺にやってきました。この光景を見て、女川町の皆様に大変失礼と思いながらも、率直な感想として「焼け野原」という言葉しか出ませんでした。

木造建物は、軒並み外観を残すはずもなく、ガレキになっていました。通った道は、おそらくかろうじて通れるようにガレキをよけたんだろうな…鉄骨づくりの建物も、2階部分の鉄骨が斜めに曲がっています。「こんなデザインだったんですかね」「いや、曲がったんだよ」かろうじて残っていた鉄骨の曲がり方、オシャレな建築かと見まがってしまうほどに曲がっていました。ここからも、いかに津波の影響がすごいものだったのかを思い知ることが出来ました。怖い。

女川町には原発があります。女川漁港は牡鹿半島の付け根ですが、そこから半島を下ると原発があるようです。だからおそらく税収がすごいんだろうなぁ、と思っていました。その証拠に、マリンパル女川という施設があり、これが漁港の街としては珍しく素晴らしいつくりの建物です。そのマリンピアだけがひっそりと残っているような感じの漁港付近、非常に不思議な感じがしました。

言葉が出ない光景

車は、漁港から少し入ったあたり、おそらく民家が立ち並んでいたであろう、扇状地形の場所に来ました。地図上で言えば、女川町役場や女川駅があったはずの場所から入り込んだところです。

人は誰もいませんでした。いや、実際は何人か歩いていました。けれど、あまりにも静かすぎて、驚きを隠せませんでした。たしかに、朝6時頃だったことを考えれば当然なのかもしれませんが、自分の背丈よりも高い建物は本当に少なく、見通しが良すぎるほどに様々な物が崩れていました。車も、若干走りにくい状態です。

一度ここで車が止まりました。そして皆降り立ちました。ここで目にした光景は、僕にとってはショックとしか言えないものばかりでした。

男の子はたいてい、乗り物に興味を持っているものだと思っています。僕はどちらかといえば、電車派なわけで、いわゆる「鉄ちゃん」ではありませんが、鉄ちゃんかぶれ、というポジションだと思っています。もちろん、電車の外観を見ながらニタニタ、なんて時期もありましたが、それだけに、上の写真は衝撃としか言い様がありませんでした。

2枚の写真を見てください。おそらく石巻線の列車でしょう。もともとは2両で1編成なのでしょう。しかし、その編成は津波によって押し流され、1両は民家に突き刺さるようにして乗り上げ、もう1両は、そこから100mほど離れた丘の上に打ち上げられていました。しかもそれらは、本来線路があるべきはずのところから、線路からの直線距離でも70mほど流されているのです。

津波は、あの鉄のかたまりでさえも押し流してしまうのか。しかも、列車を引きちぎってまでも。電車の姿を撮ることが、それまでは喜びだったはずなのに、いや、今までの僕にとって、列車の姿を撮影することに喜びを見出すことが多かったからこそ、この光景を写真に収めるときの気持ちは、言葉に表し様がありませんでした。

上の写真は、生活感があったことを物語る写真です。炊飯器、冷凍食品。ここに生活があったということを思い起こさせるのですが、その様子は今やまったく面影を残していません、というか、私は面影を思い浮かべるに足る「震災前」の映像を知りませんから、もう、想像の範囲を超えてしまっています。

リュックサック。私の大切なリュックは紺色ですが、この写真のリュックは水色です。サイズと色からして、子供用なんだろうな、と思っています。そうか、ここに子どもがいたのかもしれない、だとするとその子は大丈夫だろうか。子どもとか、教育とか、そんなことを考えることが多い性分のため、つい心配になってしまいます。

「すこやか」と書かれたこのファイル、手を触れませんでしたが、はみ出した書類を見ると、スポーツテストの結果が挟んであったあたり、健康の足跡のようなものだったでしょう。その奥には塗り絵でひらがなを練習する帳面があります。子どもさんがいたことを思わせる光景です。

写真には収めませんでしたが、通知表もありました。通知表のほうは、今年の通知表ではなく、平成元年と書いてありました。当然、私の学童期よりも前のことです。すると想像されるのは、その通知表を親御さんがずっととっておいている、ということです。平成元年に小1だとすれば、もうすぐ30歳。そうか、これは「思い出の品」なのだな、そう感じました。

「ガレキと呼ばないで」そういう報道を目にしたことがあります。崩れた物の中には、大切な思い出の品があるかもしれない。それをきちんと洗って持ち主に返すというボランティアもあるそうです。きっと、あの通知表も、本人にとっても、いやそれ以上に親御さんにとって、大切な思い出だったはず。子どもを持つ年齢ではありませんが、親としては、子どもの成長の軌跡を残しておきたいのでしょう。ここで感じる親心、それがぽつんと残されている光景に、涙が出そうになりました。

あまりにも静かすぎる朝に

その後、漁港付近に寄りました。すでに来たことのあるEFCのお二人が言うには、ここら辺はイカがたくさん転がっていたそう。漁港特有の魚のにおいも、若干腐敗臭に変わっていました。漁港を離れ、石巻に戻る途中、自衛隊の車列とすれ違いました。

それから、帰りに気がついたのですが、女川漁港の近くの丘の上に、女川町民病院がキレイに形を残していました。津波の被害から逃れたその病院は、すごく新しい外観でした。マリンパルの時に感じた、「この町の税収は潤っているんじゃないか」予想は、ここでも強まりました。同時に、電気や水などのライフラインはどうなっているだろう、とくにこの病院においてはどうだろう、と心配になりました。

さっきも書きましたが、すれ違った人は片手で数えられるほど、すれちがった車も片手で数えられるほど。それはきっと、早朝だったからということだけではないと思いました。空に雲はなく、都会では濁って見える青空に比べて、そして都会に比べて住んだ地元・古河の空に比べて、とにかく澄んだ青空が広がっていました。本当に雲一つない青空。つい1時間前まで、もやっていて、そしてその1時間前まで、僕は眠気と戦っていたはず。眠気なんて、もうありませんよ、あんだけ清々しい青空を見たら。だけど、その下に広がっている光景は声を失うものです。

でも、実はこれを書いている今でさえも、まだ「津波が街を飲み込んだ」ということを、想像力を持って実感できないでいます。「ありゃ、何かのCGだったんじゃねぇか、あれは本当に起きたのか」メディアが報じる映像や写真を見ていただけのこれまでと違い、石巻・女川入りをすることで、現地の現状を見ることが出来、たしかに崩れていったのだということを実感することが出来ても、それが失われていく瞬間を実感していない分のもどかしさが残っています。その時の恐怖と悲しさは、本当に目の前で、崩れて流されていく光景を、生で見ていない僕には、想像できても実感できない。想像することは大切でも、それでも僕には分かりっこないんです。そんなことを考えながら、青空の下でたたずむと、その青空が僕の心に余計に寂しさを落とし込んでいきました。

あまりにも静かすぎる朝に、清々しい青空が広がり、そして海鳥が鳴いてる。海鳥たちは、僕たち人間が、自分たちが作ってきたものが一瞬にして崩された光景に声を失って、何をすべきか呆然としている時にも、絶えず飛んで鳴き続ける鳥たちの姿から、僕たちは何を学べるのだろうか。そう、ぼーっとしてしまいました。

早く、この地域に、復旧し、復興してもらわなければ。


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