つまるところ「キャリア」は、「このミチをえらんですすむ意味」だろう

配属、という「箱」の話で、ざわざわする時期である。

世の中全体もそうだろうし、ましてや弊社的にもそうだろう。先に言っておくが、それは「神の見えざる手」により決められるもので、もはや運命的なものでしかないと思った方がいい。とはいえ、ひろく一般的には、みんな「希望」を持つし、「希望」を聞く。

ちょっと時季が時季なもんで、いろんな思索があったので、ちょっと書いておくことにしようと思う。


僕はラッキーな人間だった。

1.5年のデータ分析担当から始まったビジネスパーソンとしてのキャリアは、いつのまにか採用担当となり、そして育成担当となり、今に至る。そして、これらのキャリアは「どうしても喉から手が出るほど欲しかった」というものではない。その意味で、このビジネスパーソンとしての4年間を過ごした環境については、ラッキーだったとしか言いようがない。

つまるところ、「したいこと」はなかった。

それは以前、この記事でも書いた通りのことだが、やはり改めて考えてみると、割と僕は流されている。流されているが、楽しく充実した日々を過ごしていている。手前味噌ながら活躍もできているし、おもしろいことにも首を突っ込めている。もちろん、ビジネスパーソンとして働く上での課題は多い。というか課題だらけだ。でも、悲観しすぎずイキイキした毎日を過ごし、そのイキイキは会社に止まらず、種々の活動にまで発展している。そのせいか、残念ながら世間一般でいう「リア充」とはほど遠い。

それはひとえに、自分自身の「意味づけ力」が、どうやら他の人よりも得意なことのようだ、ということのおかげなのだろう。

「今、やれ」と言われていることに対して、「こういうふうにしたい」はある。それはちょっと距離的に近いものだ。ただそれは、ある意味で上から降ってきたものだったり、あるいはすでにあるものだったりするわけで、決して自分がゼロから作り上げた「こうしたい」ではない。でもそれが、上から降ってきたものであっても「こうしたい」を思い浮かべることができる。

あるいは、の話だが、僕は過去に執着する。過去の自分のやってきたことに基づいて、自信を思い出していく。それは自分自身の根源である「チヤホヤされたい」ということに結びついていて、過去に自分が「チヤホヤされた」経験から得られたことを活かして、次のコトに対して取り組むことで、また「チヤホヤされる」ことを求めている、ということの繰り返しである。

結局、今の自分にとっての意味・これからの自分にとっての意味、というのを、絶えず考えている。


極めて自己中であることはわかっている。でもこれのおかげで事実、「どうしても喉から手が出るほど欲しかった」と思うわけでもない環境において、愉しく・意味を見出して活動ができてきた。

電車の車掌、吉本芸人、アナウンサー、政治家、国家公務員、教員。

子どもの頃から描いてきた「未来像」に出てくる職業たちは、その実「やりたいこと」としては大してそうでもないというか、あくまでも「仮置きのみちしるべ」だったんだろうと思っていて、それに成れないということに絶望した試しはまるでなく、そうすると自分はことごとく、「やりたい」ではなく「ありたい」で考えるタイプなんだと気付いた。

だから余計にラッキーだった。

もしも自分が営業に配属されていたと思うと、正直成功できたイメージはわかない。「できていない自分」に対する「筋の悪い自責」が強い自分は、つまり根源に「ダサいと思われたくない、優秀と思われたい」という「チヤホヤ願望」があって、数的成果でもって一定見られる環境に対しては明確に「イヤだ」という捉え方をするだろう。残念ながらそれは自分にとって快いものではない。そしてそれはあくまでも「出来不出来」という意味での「適正/能力」ではなく、「やりたいやりたくない」という意味での「動機/意思」なのだ。

幸いにして自分は、「動機/意思」の側面でフィッティングが高いところに配属されている。これは本当に偶然だとしか思えない。それを引き寄せた努力をした覚えはそんなにない。そして更に言えば、「適正/能力」の面で「ここがいい」と思ったことはないし、「動機/意思」の面でも、「どうしてもここがいい」と思ったことがなかった。たぶんそれは、大して考えていなかった、ということだと振り返る。

ひとつ嘘をついた。

「適正/能力」ということを履き違えた上で、「ここがいい」というのは事実思っていた。ここでは二つのことが言えて、ひとつには、自分の「適正/能力」なんて、よくわかっていなかった。ふたつには、自分が「ここがいい」と思っていた「箱」は、他人から「これが向いているんじゃない?」といわれたものだった。そこに自分はあまり想いを持っていなかったのかもしれない。だから、「大して考えていなかった」のだ。


それが今やどうしたことか、「お前ら、ちゃんと考えろ」と暗に迫っている。

採用の場面でも、育成の場面でも、「なにがしたいの」と尋ねる。楽だということ以上に、知りたいのだ。でもその「なにがしたいの」は暴力だった。そしてさらにヒドいのはそのくせ、「仕事を総体として考えろ。だからこそ、置かれた場所で花を咲かせなさい」という。「なにがしたい」という希望を聴きながら、「希望なんか持つな」みたいな聞こえ方をする言葉を放つ。それは去年、1年目社員に怒られた。怒られて気付いたのは、「ああ、みんな俺と同じじゃない」ということだ。

その後あたりから気付いてきたのは、doとbeの議論だった。そのあたりを考えるようになってから、自分が「なにがしたい」と聞いていたのは、ある人にはかなりしっくりくる一方で、ある人には暴力的だと気付いた。でも一定、「なにがしたい」と言えることは必要で、それはまさしく「意味付け」なんだと気付いたし、「どうありたい」というbe型の人も、「ありたい」になるための「すること」を選ぶことは必要だとわかってきた。

そして最近気がついたのは、どうせ「やりたい」も「ありたい」も変わる、ということだ。

そう、かつての自分が「やりたい」をコロコロ変えてきたように、それは変わりうる。原体験と呼べるほどの大きな刺激で劇的かつ瞬間的に変わることもあれば、その原因が特定できないほどにゆるやかに変わるということもある。僕にとっての「チヤホヤされたい」はそうそう変わらないものだと思うが、それでも「そうそう」なのであり、ゆるやかに変わるかもしれない。そう考えると、変わることはなんら悪いことではない。

変わる可能性があるからこそ、歩んできた道は大切にしたいし、進んでいく未知の世界にはある一定の方向性を見出していたいし、その中間にいる今の自分は「きた道・ゆく未知」への意味を与えていたい。そしてその「意味」については、自分で責任を持っておきたい。いいかえれば、自分で説明ができるものとしていたいし、だからこそ自分が選んだものといて捉えておきたい。


いくつか、ハッとさせられたことが、この一年のあいだにいくつかあった。

例えば、社内講演会でお呼びしたリクルートの方の言うには、「おまえはどうしたい?」という言葉の英訳は「Why are you here?」だそうだ。単純に言葉をくらべると、doとbeで乖離している。でも、わかる気がする。この環境・境遇を選んでいるのは、過去にせよ未来にせよ、なんらかの意味があり、その意味を成す上では目の前のことに対して何を行動として起こすかが考えられる。こうである、だからこうする。

例えば、某外資系コンサル企業の人事役員の方のお話を聞いた際に、「自分の人生に対してオーナーシップを持つ」ということをしきりにおっしゃっていて、頭よりも先に腹で納得した。たぶんそこには、「自分で選んで切り拓いていく」ということもそうだが「起きたことに対するケツは自分で拭く」ということも含まれていると思う。そりゃ、自分の範疇で起きたことではない事象にたいしても当事者意識を持てと言われても困るが、「しかしそれでも前を向く」ためには、まず自分の足で立つことは大事だろう。そうなると、オーナーシップのためには自分で説明できることが必要だし、そのためには自分で選んだのだ、あるいは自分には意味があるのだ、と思うことは大事だと思う。

例えば、後輩と銀座で蕎麦を食った時に、自分で自分の適性を判断してそれを希望するしないの議論に挿げ替えていることに対してめちゃくちゃ腹が立ったという話を聞いて過去の自分が恥ずかしくなった。もっとも彼は、よく話をする後輩が、自分にはパフォーマンスが出せなかったからどこも自分に合う場所はないと早晩結論づけてしまい、結果自分がやりたいことに素直になっていないということに対して腹を立てたようだ。そこで気付いたのは、希望とは未来に向けた意義づけであり、これからどうなるとも分からない未知を、これまでの道でもって判断しきれないということだ。

例えば、キャリア教育を研究する人と話になった時に、就活の時の「なにがやりたいの」をそのまま引っ張ってきてしまう風潮があって、だからミスマッチが起きるのだということを述べていた。その瞬間、いつだったか同期が言っていたことが「やっぱりそうか」と確信に変わった。結局「なにがしたい」は「その時点で自分にとってこれから取る選択はどういう意味があるのかを見出せるかの思考力」を図るツールであって、「なにがしたい」のそのもので判断するのではなく、「なにがしたい」に到るまでのロジックで判断すべきなのだ。

例えば、さっき述べた同期と飲みの席になった時に、ここ数年は「配属希望」ではなく「自分のしたい・ありたい」を定性的に書いてから希望部署を書くという形にしていると言う話をしたら、「そりゃそうだ、調査だって定性から仮説を立てて定量をするだろ」と言われて合点がいった。自分がやろうとしていることは間違いではなかったようだ。つまりは「配属」あるいは「職種」や「部署」は「箱」でしかなくて、千差万別の「やりたい/ありたい」をある一定カテゴライズするためのツールなのだ。

一方で例えば、逆算思考が苦手な人もいるから、自分が先に「箱」を選ぶことで、その先を見通すこともできるというのも真だろうと思ったのが、NPO青春基地に関わるようになったことがきっかけ。高校生に、ゼロの状態から「おまえはなにがしたいんだ」と聞いても、アクションを起こした経験がなければスキーマがないんだからなにもできやしない。「箱」や「仕掛け」があるから一歩が踏み出せる、というのもある。しかしその「一歩踏み出す」のアクションのなかで、「箱」に収まるのではなく、そこから得られた何かを先につなげるという学びも必要なのだろう。


そして今日のことだ。ふと、キャリアという言葉を調べた。

案の定、carryという言葉と語源は同じで、carrerは荷車の道を意味する言葉から発せられた。そして面白いことに、carrerという言葉には「疾走」という意味もあったのだ。そして気になる癖は広がり、今度は「道」という漢字の成り立ちを調べて、どうやら一説にはかなりエグいものもあるが、他の説でいえば、「しんにょう」は「行ったり行かなかったりしながら進む様」であって、「首」は頭のことだから、頭を上げて進む、という意味だということだった。

ふと、アントニオ猪木の詩を思い出す。

この道を行けば、どうなることか。
危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。
踏み出せばまたその一歩が道となり、またその一歩が道となる。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。
ばかやろー。

なんということだ。道なんてものは無い、とまで読める。しかし、そうだよなぁ、と思うのである。とはいえ、迷わず行けよと言われても、迷ったら元も子もない。そりゃちょっとは道標は必要だ。ただ一方でおそらく、「それでも行きたいところがある」という想いさえあればなんとかなる、ということもあるんじゃないかと思う。なぜ、危ぶむのか。それは、道の先が未知だからなんだろうし、何があるか分からない、というかどこに行くか分からない、というのが危ぶむ理由なのだろう。

となると、「それでも、前に進む」という、その勇気は、「自分自身で選ぶ」ということによって得られるんじゃないか、と。

結局、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけない。それが言われたことであっても、まして自分でやると言ったのであればなおさら。明日生きるか死ぬかという瀬戸際で、「動機/意思」なんて言ってられない状況ならなんだってするんだよ、みたいなことを、母はよく言う。そりゃそうだ。残念ながら全てにポジティブでなんかいられないのが常人で、ポジティブ思考が強すぎる人はむしろどこかオカシイと思って差し支えない。だから結局、ポジとネガを「うまいことしていく」ことが必要なのだ。

その「うまいことしていく」というのが結局、自分で選ぶ、ということだと思う。

端的に言えば、その「自分で選ぶ」こそが、ある意味で優秀さである。ちょっと語弊があるので補足をするが、「自分で選ぶ」というオーナーシップをもち、コトに当たってやりとげる。最終的にはなんだかんだ「やりきった人間」が成果を出す。いいかえれば、成果とは「やりきれるかどうか」のものさしであり、その「やりきる」は自分の意思が必要だ。「自分で選ぶ」こそが、その「意思」だと思う。その「自分で選ぶ」に基づいて、やりとげ・やりきる人間が、優秀だ、と言われるんだろうと思っている。

で、別に全員が優秀になれ、と言いたいわけじゃない。ただ、自分で選ぶ、ということができた方が、あるいは自分なりの意味を持てた方が、これまでの道を自分で認めることも、これから先の未知を切り拓いていくことも、どちらも面白いよ、ということなわけだ。本当にやりたいことがあるのも正だし、それがどうしても見つからないのもまた真だと思う。でもそのなかで、今この時点をどう選ぶか、ということを考えて、自分自身で「動機/意思」を高めてコトに当たれるのがいい。「適正/能力」というのは、ぶっちゃけあとからどうにかなる部分もある。

道と未知。これはうまいこと言ったもんだ。来た道も、行く未知も、自分で選んだと思えること、意味があるんだと思えること。そうか。そういうことか。


結局、この記事で言いたかったことは、つまるところ「キャリア」は、「このミチをえらんですすむ意味」だろう、ということだ。どんなことをしてきたかという事実自体はキャリアなのでなく、それがどんな意味があるのかということがキャリアなのだろう。その点で、今のところ僕のキャリアは、それほど悪いもんじゃない。

これが、誰かの役に立ちますように、と思いながら、スーパー銭湯行ってきます。


追伸1:こうして書いていると、「自分」しか出てこないのが僕の課題で、「チーム」とか「誰か」とか「相手」とかが出てこない件については、6月前くらいに書こうと思う。

追伸2:そんなわけで現在、NPO法人青春基地でプロボノとして関わっており、絶賛クラウドファンディング挑戦中です。ちょっとでも、「高校生にとっての『ミチの意味づけ』を応援する」活動に、協力をしてくださる方は、寄付をいただけると幸いです。

追伸3:そして来週からは「SFC-SBC・卒業生マイゼミ」がはじまります。ゼミサーポーターは引き続き募集中です。

追伸4:今日は母の日です。育ての親には、ヤッホーブリューイングのビールセットを買いましたが、産みの親には、この文章が届くことで「ちゃんと育ちましたよ」ということが伝わればいいな、と思います。


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