『ワークショップとは「あつまったみんなが、うまいことやって、なんかうみだす」ための考え方』 – 青学WSDのレポートから②

青山学院大学社会情報学部ワークショップデザイナー育成プログラムの28期が終わって1ヶ月経った。3ヶ月間、ほぼ週末をこのWSDプログラムに費やし、動画教材を見てレポートを書くわ、様々なワークショップを参加者として体験するわ、考えや価値観を互いに発表し合うわ、ワークショップを実際に企画して実践するわ、それに対してリフレクションするわ、もうめまぐるしかった。そんな日々の終わりから1ヶ月、その後、後に続く期の皆さんの交流会の準備にも関わり、まぁめまぐるしかった。ちょっとずつ、WSDとしてのご相談も頂くことが増えてきた。

で、20本近くレポート(とはいえだいたいが400−800字。多くても2000字で、文章が長い私にとっては造作もない)を書いたのだが、その中で2本、まぁそれなりにエモい文章を書いたなと自画自賛する作品があって、すでにその片方はご紹介したが、今回はもう片方をご紹介する。

今回は最終課題をご紹介したい。「ワークショップを知らない人に説明して下さい」とお題で、自分自身で説明相手を設定する。いろいろ悩んだ挙げ句、小学校を卒業する直前の子どもたちを対象に書き出してしまい、案の定、なんかお手紙みたいになった。


これから先の人生で、誰かと何かをしていくときに、いやそれはむしろほぼ毎日のように起きるんだけど、今から僕が話す「ワークショップ」というものの考え方を覚えておいてほしい。ワークショップってのはね、「あつまったみんなが、うまいことやって、なんかうみだす」ための考え方なんだ。

たとえばだけど、今日の昼休みに何して遊ぶかって話のときに、「なんかみんなで遊びたい人、あつまれ!」って言って集まってきた人がみんな「ドジジボールやりたい!」って言うとは限らないじゃない。「みんなで遊びたい」って気持ちは同じだけど、トランプ、ドッジボール、鬼ごっこって、それぞれが別々なことを言いっぱなしだったら、結局何も遊べなくて昼休みは終わるじゃん。どうせならみんなで楽しみたいのにさ、「んじゃお前勝手にトランプやってれば」ってのもさみしいし、じゃぁだれか声のでかい人が「ドッジボールで決まりな!」って言うのもイヤでしょ。できるだけみんなが「いいね!」ってなったやつでめいっぱい遊びたいじゃん。

「ワークショップ」ってのは、最近だと、決まった答えがないような問題をといたり、みんなで考え方をすり合わせていったり、ふだんの生活だとなかなか気づけないことに気づいたり、今までの世の中になかなかなかったものをうみだしたり、そういうときによく使われている方法なんだ。授業でも、そういうやり方を取り入れたときもあった。でも今僕は、「ワークショップ」ってのを「考え方」として話している。なんでかっていうと、こっから先の世の中では、「あつまったみんなが、うまいことやって、なんかうみだす」ってことが、よっぽど大事になってくるからなんだ。

残念ながら世の中で生きていくうえで、みんながぶち当たることってのは、だいたい「こうしたら一発で解決!」みたいな答えはないんだよ。そういうときだいたい、一人でできること・分かることには限界があって、だからだれかが知ってたり気づいたりしたことから学んだり、逆に自分が知ってたり気づいたりしたことをプレゼントしたり、ってことが必要になってくる。ただ困ったことに、「あつまったみんな」ってのはそれぞれに別人だから、だれかにとって「正しい」と思えることは、別の人にとっては正しくもなんともない。そんななかで、できるだけみんなが「ああ、そうだよね」って納得できる部分を探し出して、せめてみんなで決めた部分は、ちゃんとやろうよね、ってならないと、ものごとはうまくいかないわけだ。

「ワークショップ」っていうのは、だれかとなにかをつくりあげながら、自分のことを知って、相手のことを知って、そして仲間になっていくためのしかけだと思う。そして僕は、それを「方法」じゃなくて「考え方」としてみんなに伝えることで、みんながそれぞれ「あつまったみんなが、うまいことやって、なんかうみだす」ために、どんな関わり方ができるのか、ということを考えてもらいたいと思っているんだ。それが、みんながこれからいろんな人と関わっていく上で、とても大事になると、僕は思っているんだ。


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