ジェネジャンで出会い、ブログでも取り扱った作家(少し前までフリーラーター)の奥山貴宏さんが、17日20時01分亡くなられました。
奥山さんとの最初の出会いは2003年の12月でした。
2度目のジェネジャン出演時に共演しました。
収録も最後の方にさしかかったところで一言、「おれ、余命2年なんですよ」
まさかあれだけかっこいい服きてる人が余命2年なんて想像もつきませんでした。
でも、奥山さんの生と死の捉え方というのが非常にかっこ良く思えました。
「昔は牛丼特盛を食っていたけど今じゃ波で精一杯。でも食い終わったときはすごくうれしい。」
この言葉は今でも忘れません。
普通に生活していれば何となくやり過ごしてしまうことも、実は生きているからできることで、すごく幸せなんだと思ったのです。
奥山さんとの出会いは、確実に自分の生と死に関する考え方を変えてくれました。
1年後、再度ジェネジャンに出演したときも、奥山さんは登場しました。
僕にとっては衝撃でした。
なぜなら、収録後約2ヶ月で余命宣告を受けてから丸2年になることになっていたからです。
もう相当弱っていると勝手に思い込んでいましたが、そうでもありませんでした。
言葉は悪いかもしれませんでしたね、なぜそう思えたかと言えば、ジェネジャンに出てくるだけの気力があったと思えたからです。
確かに体は以前よりやせていて、本当に弱っている感じがしました。
「みんなに忘れられるのが怖い。だから本を書いた。紙文書なら残る。」
1度目の出演の時点で、既に1冊目の本「31歳ガン漂流」を出版していた奥山さん。
実は収録の3ヶ月後にその本の続編「32歳ガン漂流Evolution」を出版する予定になっていました。
本という形で、自分の生きた証を作る。僕も死ぬ前に何か証を作りたいと思うようになりました。
何より、再会の感動で、胸がいっぱいでした。
最後にがっちりと握手を交わしました
「いろいろがんばってるみたいだね、テレビみてるよ」
その言葉をかけてもらったのがうれしくて仕方ありませんでした。
再会したときの回はその年の年末に放送され、さらに3ヶ月後には再放送もなされました。
「前回一緒に出たenshino君や、○●君に会えたのがすごくうれしかった」
この言葉が本当にうれしかった。奥山さんに出会えて本当によかったと思えた瞬間でした。
以後僕は、奥山さんの公式HPやブログをみるようになりました。
たまにトラバや、コメントをして、メールなんかも送るようになりました。
もちろん本も読みました。
Web日記をそのまま本にしたやつなのですが、闘病記と言う気がいっさい持てない本でした。
ありのままの生活が書かれている、ただ違うのは、それががん患者としてのありのままの生活であるということ。
常に弱音は吐かない文章を書いていて、読んでいて飽きない文章でした。
抗がん剤治療に苦しめられながらも、体が持つ日はツーリングに出かけたり、カフェで仕事したり、残りの人生を楽しんでいる人の単なる日記として読めるものでした。
現在、続編を読んでいます。
続編では、メール投稿によるブログ記事も読めるため、リアルタイムに事が進んでいくのがよくわかります。
どうやら好きな食べ物は麺類だと最近になってわかり始めました。
再会後、僕は奥山さんにあるお願いをしました。
「冬休みの宿題で英作文を書きます、題材にしていいですか?」
問題はないということで番組の内容をもとに奥山さんとの出会いのことを英作文にしました。
今日は報告があります。
実は、その英作文が、朝日ニッケ英文エッセーコンテストの優秀作品に選ばれてしまったのです。
「よかったね、いいきっかけになれたみたいでうれしいよ」
一緒に喜んでくれました。
実際、受賞者は僕ですが、英作文の内容の95%は奥山さんなので、奥山さんとの出会い無しにはこんな賞を受賞してはいません。
奥山さんへの感謝の念は忘れることができません。
「死にたくないな、書店で会いたい、本屋でセットで買ってくれ」
いつもならシニカルな言葉を発する奥山さんが4/16にこの記事を書きました。
何だこりゃ。最初みたときはこうとしか思えず、放置。
いつの間にかコメントが200件を超えていて、ふとみてみれば、「ご冥福を・・・」の文字。
全く理解できませんでした。そして、今日、正式に発表がありました。
多くの人が、「悲しい」「涙が出た」とコメントしてましたが、僕にはそうは思えません。
むしろ死んでいるとも思えません。またブログに記事を書いてくれると思い込んでいます。
所詮そこまで心にとどまっていないんじゃないかと思う皆さん、それは違います。
奥山さんは、今までのがん患者のイメージとは全く違うイメージがあり、精神面も肉体面も生命力で満ちあふれていると見えたからです。
だから現実として受け止められないのです。
本当は、告別式に参加したかったのですが、真意がはっきりしなかったため参列できませんでした。
死ぬ前に、英作文を読んでほしかった。
これだけが悔やまれます。
でも、小説を出版し念願の「作家」になれたことは、喜ばしい限りです。
夢が叶った(発売日は4/14)後に亡くなった訳だから、本望でしょう
あれだけお世話になったのだから、そのご恩は返したかったし、もう一度会いたかった。
でも、もう日記の更新もみられなければブログの記事も読めなくなる。
寂しい。
それでも奥山さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
あまり臭いことを言うとおこられそうだなぁ。
ご冥福をお祈りします。とは言うものの、天国から何か突っ込みを入れられそうな気がします。
ただ今は、奥山さんとの出会いを大切にするものだと思っています。
奥山さん、本当にありがとう。
ゆっくり休んでください、しばらくしたら天国に会いにいきます。
敬意を表して、トラバします。
奥山さん追悼の記事でも奥山さんの文章をまねてみたかったので、不適切な言葉が含まれていた場合は、ご容赦ください。
最後の最後まで文がまとまらないで、申し訳ないです。
すごい久しぶりなノラちゃんです。一つの大きな仕事が終わりましたのでここに来てみました。興味深い話なのでコメントさせていただきます。言葉が汚くなるかもしれませんが許してください。
先日母方の祖父が亡くなりました。二ヶ月くらい前に心臓が止まったとか息しなくなったとかで、入院。それからずっと意識が戻らず人工呼吸器の力で生きていました。でも身体も限界で血圧が下がり、病院側から「会わせておきたい人を呼んでください」と言われたそうで、兄弟と母で病院へ向かいました。それが4/4の夜9:00。
病室は個室で、祖父の周りには妻(つまり祖母)と子供たち(つまり母や叔父叔母)と孫(私たち)、そしてドラマでよく見る医療機械たち。機械が祖父の心臓が動いていると教えてくれました。でも脈拍は60?55、よく知らないけどもうヤバいんだろうとおもう。血圧を計りに来た看護婦さんは手首を握って「脈拍が分からないほど下がっている」とさっき言っていたから。
「最後にお礼を言いなさい」と母は言う。聞こえているのかいないのか、分からないけれど姉たちは「お世話になりました」「がんばるからね」と言っていた。私の番、何も言えない。お礼は心の中で言って、ただその手を強く握ってあげるだけ。あったかい。まだ生きている。いつの間にか大人たちは葬式の手順だかを相談しに外へ出てしまった。脈拍はだいたい50くらいに下がっている。もう元気になることは無いとわかっているから。ただただ手を握る。あったかい。でもしばらく見ないうちに小さくなった感じがする。それとも私が大きくなったのか。ふと機械を見ると数字が0になっていた。姉たちは気づいていない、知らせようと思ったがなんだか怖くなった。
脈が0ということは当然死んだということだけれど、それを知っているのは私だけ。誰かにこのことを言ったら、それを認めることになる。つまり、私が祖父を殺したということになる気がしたのだ。でも言わなきゃ。もしかしたら心拍数を計っている線が取れたのかもしれないじゃないか。医者に見てもらうまで、この人は生きている。でも言わなきゃ。「ねぇ、0になってるよ」それでも怖い。声が震えた。
「10:00丁度です」医者が言った。ホントにドラマのワンシーンみたいだ。人工呼吸器のおかげでまだ息を機械的にしている。正確に言うと、人工呼吸器が送る酸素で呼吸しているように見える。また手を握った。冷たくなっている。あっためてあげなきゃ。強く握る。涙は出ない。泣かないって決めたから・・・
葬儀は一週間後に行われた。さくらが散り始めたころ。雨は降ってたけど、きれいな日だった。じいちゃんは4/4の10:00にじいちゃんでなくなり、今は骨になって私の目の前にある。始めて見た。なんだか沖縄で見た珊瑚の死骸みたいだった。
今は悲しくない。悲しいと感じるよりも、忙しいと感じる毎日を生きているから。ただ私はあなたが買ってくださった勉強机に向かって毎日がんばっています。