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千代田線、日比谷駅。小田急の車両の直通電車に乗っていた私は、扉を見て思わず、降りるつもりだった電車にまた乗った。扉に貼られた、鶴巻温泉病院の広告が、胸を打ったからだ。
この記事は、Instagramへの投稿を転載したものです。
2011年の5月に、Instagramをし始めた。初投稿の次の写真が、「じいじとキャッチボール」という絵の広告。片道2.5時間かけて茨城・古河から神奈川・藤沢まで通った私にとって、小田急の車内で過ごした時間は当然にして長く、多くのものが私の目に入ってきていた。大学院に入学してから1ヶ月は授業が再開しなかった4月が明け、日々を取り戻していった5月の私に、素朴で優しい「願い」は、3.11のあと、さまざまなことに想いを馳せていた心に響いた。
飲み会(といいつつ相変わらずアルコールを入れていない)で、肉料理をうまいうまいと食べ、なんならその飲み会前にやたら腹が減ってコンビニのホットスナックのチキンを食べてしまった私に、満面の笑みを浮かべてうまそうに「肉をほおばる」白黒の絵面は、その素朴さとゆるい愛らしさとともに、それがしたくても今はできない、という回復の道程にある描き手の情景を思い起こさせた。そうだよなぁ、食いたいよなぁ、肉。
「夢なんて抱いたところで、それが本当に叶うのは、ごく一握りの人間だけだ」なんて、ある種の絶望に似た感覚を、うっかり私は32歳で持ってしまった。それからというもの、何がしたいのかに惑いながら、隣の芝生を青がり、眩しいと感じる人に羨望の眼差しを向け、「何者かになりたい」という虚像への執着を拗らせ続けてきた。ここのところ、その拗らせの状況がひどく私のマインドを占めている。所詮、何者にもなれないし、「何者」を規定すらしていないくせに。そこへきて、「夢があるから、がんばれる」と記された下に描かれている絵が、「肉をほおばる」だ。あぁ、それだって、夢だよな。
描き手には、ぜひ、たらふく肉を食ってほしい。別に、がんばることに疲れたとしてもいいと思っていて、がんばることを手放してもいいと思っている。決してこの広告では「がんばること」を強要していない。でも、がんばりたいなら、それで「肉をほおばる」ことをしたいなら、がんばってほしい。がんばる理由とか、夢を持つこととか、「何者かになる」なんてことでなくてもよくて、でも「肉をほおばる」ことが些細なことだとも思っていなくて、いやむしろ、自分の近くにある、とても豊かで貴い夢だとすら思えていて。日々の中にある、「ごく簡単にできてしまうこと」のように見えることですら、ままならなくなってしまうこともあり得るなか、それでも、いやだからこそ、日常の中に埋め込まれていたことを「これがしたい」と取り戻そうとすることの、なんと貴いことか。そして、それが困難として立ちはだかってしまうほど、人の「ままならなさ」の、なんと儚いことか。
「じいじとキャッチボール」から1年半後、2012年の12月は、修論に追われていた。大切な人との別れも経験し、なかなか失意を感じていたころだったなぁ。そんな時に「孫の卒業式に出るんだ」という広告に出会っている。意志の力が、人を動かしていく。叶うとも叶わずとも、その「意志があること」が、人を前に動かしていく。その意志の向く対象に、大小なんて尺度はそぐわない。むしろ、どれほど「したい」と心に誓うかが、大事なんだろうなぁ。さて、私はどんな「夢があるから、がんばれる」んだろう。
なーんてな。