prayforjapan.jp多言語翻訳プロジェクト終結に関する経緯のご説明

皆様、

prayforjapan.jpの多言語翻訳プロジェクトについて、まとめ人をして参りました私、遠藤より、みなさまにプロジェクトを終結させる決定を行いましたことをご報告します。本年4月25日までに、総仕上げとしての翻訳を行った後、本プロジェクトは一旦終了とさせていただきます。その経緯説明という形で、長文の記事をアップしました。お時間のある方のみ、ご覧下さい。

なお、プロジェクト終結までの実作業については、Facebookのprayforjapan.jpページにおいて詳しくご説明しております。こちらは、遠藤の個人的な回想と反省に満ちた【言い訳】ですので、その点ご留意下さい。


はじめに、先の東日本大震災において被災した全ての皆様に、深い哀悼の意を表したいと思います。特に、生きたかったのに生きられなかった、命を落とした方々には、その御霊が安らかになるように、との願いを込めたいと思います。

この「被災」を、私は、物理的な傷だけでなく、さまざまな「傷」を負うこと、と、広い解釈で捉えたいと思っています。その意味で私自身は被災者の1人だと考えています。物理的な傷はなかったものの、家に帰れないという帰宅困難者となったこと、そしてその後に見た・聞いた・感じたことのショック、こうした傷は、いわゆる被災地の皆様に比べればはるかに小さく軽いものではありました。それでも、少しでもなんらかの「傷」を負った人は、日本だけでなく世界中にいたはずです。あの災害は、その点で、多くの被災者を生み出しました。

あの時から1年が経った今、prayforjapan.jp翻訳プロジェクトのまとめ人として、皆様にお伝えしたいことがあり、このエッセーを執筆しています。長文になりますが、そこでお伝えしたいことは簡潔に言えば、感謝と謝罪と「このプロジェクトを終える」という決断、そしてそれにさしあたってのご協力のお願いです。

今回の地震、正直僕自身が負った損害は、「帰宅困難になる」ということに尽きた。そして、学校が受け入れをしてくれたため、それほど大変ではなかったのだ。だから、正直言うと実感がわかない。ただ一つ、僕が一番「助けなきゃ」と思うのは、人々の心の中にある不安なのである

経緯から話させてください。
私は3月11日の14時46分に、所属する慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスにいました。関東圏内の進学校の高校生を集めたイベントが行われており、私は翌日のイベントの仕込みのため教室づくりをしていました。揺れが発生し、外に出て、状況も分からぬままではありましたが、地元でのアルバイトがあるため15時には学校を離れ、動いていたバスに乗り込み駅に向かいました。しかし、いっこうに電車は動きませんでした。重大なことが起きた、その時頭によぎったのは、自宅のある茨城県古河市の家族の安否と、学校に残る高校生たちの安否でした。公衆電話から家に連絡をつけ、その後学習塾にも連絡をつけ帰れぬことを伝え、自分の身の安全を確保する上でもキャンパスに戻り、その夜は帰宅困難となった多くの高校生たちと共に学校に宿泊しました。その時の自分は、自分が「被災した」という感覚よりも、イベントのスタッフとしての正義感を持っていました。校内の片付けが終わった翌日の午後、ようやく解放されましたが、電車の動きの心配もあり、また心を落ち着ける意味でも、自分が好きなスーパー銭湯で身体を休めてから家に帰ることにしました。きっかけは、その後、小田急線の車内でツイッターを見ていたことでした。

話を揺れの当日に戻します。あの日、駅で3時間ほど足止めを食らった時、残り少なくなったiPhoneをPCから充電させながら、生き残っていたSoftbankの3Gパケット通信回線を使ってUstreamから流れるテレビ映像とTwitterの情報を頼りにしていました。東京外国語大学の学生有志が多言語での地震関連情報などをつぶやいていて、それをマッシュアップしたサイトが存在していたことも知っていました。もちろん、#prayforjapanのハッシュタグのつぶやきたちも認識していました。私自身も単なる受信者としてだけではなく、発信者として情報を発信していました。そんなあたりから、浅はかながらも言語学をかじっている学生としての問題意識が芽生えはじめました。たくさんの日本語での情報を、外国人たちはどれほど理解できているのだろうか。たぶん情報を得られない状況の中で、外国人たちは不安に駆られているのではないか。被災した圏内にもきっと多くの外国人たちはいて、しかも大半はアジア系なのだろうな、という予測がたっていました。

一方、prayforjapan.jpは3月12日未明にもっち@mocciccとおっぽ@oppo240によって那須の自動車教習所から公開され、瞬時に日本中で共有されるサイトとなりました。その存在をきちんと認識したのは、諸々の混乱が自分の中で落ち着いた、まさしくスーパー銭湯を後にしたタイミングでした。夜の時間帯ですでにたくさんのアクセス数をもっており、それらを処理しきれずサーバーが悲鳴を上げていたそうです。もっちがそれをツイッターで訴えていたところを私自身も見て、自分が借りているレンタルサーバーも稼働できるかも、などということを返信したことを覚えています。結果的にはサーバーの運営会社が、サイトの社会貢献性を鑑みて、契約内容を越える形で無償でサーバー増強の対応を取ってくれたことで、アクセス過多の一件はおさまりましたが、一方の私の意識は次の方向に進んでいました。それが、翻訳です。

先程も述べた通り、たくさんの外国人が日本にいるのに、拡散される情報の多くは日本語であったことの不安がありました。私自身、つたないながらも英語とドイツ語ができ、ちょうどこの時期にキャンパスとしてドイツ人の短期留学を受け入れている関係上、ドイツ語で情報発信を試みることもありました。そうした折に見た、prayforjapan.jpが集めていた「心に残るつぶやき」は、まさしくもっち・おっぽの言う「これは日本の財産になる」という言葉を思わせるものでした。「これは翻訳するべきだ」そうして、翻訳をもっちに申し出ると同時に、英訳にハッシュタグをつけてつぶやき始めました。多分、実際に英訳という形を最初に行ったのは、かくいう自分だったと認識しています。

しかし、様々な限界にぶつかりました。140字の日本語は140字の英語では収まらないこと、そもそも私の英語力が低いこと、一人では全て抱えきれないこと。さらに、もっちのもとには、翻訳のニーズがかなり寄せられていたそうです。このプロジェクトにおける数々の奇跡のうち、最初にして最大の奇跡は、もっちと僕が知り合いであったことかもしれません。もっちはすでに、facebookにprayforjapan.jpのページを立てていました。彼の招待を受け、そのページの管理人となり、すでにウォールのコメント機能を用いて徐々にスタートしていた英・中・韓の翻訳を、ノート機能に移行させながらマネージしていました。自分が翻訳するよりも、他の人が翻訳する方がはるかに上手。しかし、誰が何を訳して何が訳されていないかはカオス。それをまとめるのが自分の役割だと認識してからは、もはや怒濤でした。

もっちとおっぽは、3.11の翌日にはすでに再開されていた自動車教習を昼間に受けながら、夜は徹夜でシステムを整備し、サイトオープンの2日後の3月14日には、静的なHTMLのみのサイトから動的なブログシステムを用いたサイトとなり、原文と翻訳の対応付けや共有作業がしやすいようになりました。一方、翻訳作業はウォール上で8つの言語までに展開されていました。実質1日ながら急速に参加者が増えたFacebookでの翻訳作業に一旦区切りを付け、プロジェクトの方針付けを変更し、ブログシステム上での作業をご担当いただくメンバーを限定的に依頼して翻訳を続けました。今更ながら、ここまでのことがらが僅か3日ほどで起こったことは本当に驚くべきことです。その後も、翻訳をしたい言語がある、という申し出が数多くあり、結果的に日本語を含む12言語13表記に到達するまでに1ヶ月とかかりませんでした。一方、英語の翻訳を希望する人は数多く、進捗具合に対して人手はむしろ余ってしまう状況だったにも関わらず、その他の言語、特に私が一番問題意識を抱える言語であった、東南アジア系言語や中南米言語の翻訳ボランティアはほとんど集まりませんでした。

その間にも、サイトのファウンダーであるもっちのもとにはたくさんの問い合せがやってきていました。テレビ、ラジオ等のメディア、それから翻訳の問い合せも彼のもとに。そして出版社からの出版の問い合せ。。。彼は最初、出版化には躊躇していたようです。しかし、その殻を破ることになったのは、講談社のとある編集者の方でした。彼女は、なんともっちと遠藤の先輩に当たる、慶應SFCの出身者です。サイトを見つけてから急いで出版化のための企画書を書き上げ、部署をまたいで交渉に交渉を重ねた、とのこと。会社内での交渉や、もっちとの交渉でどんなやりとりがあったかは知りませんが、結果的にはprayforjapan.jpに掲載したコンテンツを書籍として、講談社から発売することになりました。今思えば、この決断は本当に英断だったと思います。

書籍化にあたっては、日本語だけではなく英文も掲載することになりました。校了日である4月13日までの1ヶ月程度の間までに、ほとんど翻訳が終了していた英語メンバーに再度協力を要請し、サイト版の他に追加になったつぶやき/エピソードを翻訳していきました。この時に一番、言語と文化の難しさを感じました。「トイレを貸す」という日本語ニュアンスに対して、英単語としてtoilet / bathroom / restroomのどれをあてがうべきかを、かなり真剣に相談したときもありました。一つの救いは、英語翻訳チームに向かい入れたネイティブスピーカーが、かなり日本を熟知していた、ということです。彼は大学生ですが、高校時代に日本に留学した経験を持っており、これを執筆している現在において、日本への留学を考えている、という意欲の持ち主でした。

さて、書籍化の段階で決まっていたこととしては、印税収入はすべて寄付とすることでした。この寄付先の決定にあたって、もっちは「子どもたちのために」ということを意識していました。さまざまな寄付先を検討し、寄付税制の優遇ということもあって、最初の寄付先は「ハタチ基金」となりましたが、この決定を打診したのは僕自身でした。実はちょうど出版の時期と同じくして、僕は別の震災復興支援プロジェクトに関わりはじめます。それが「プロジェクト結」です。現在も、学生スタッフとして、自分自身何も役に立てていないながらも、身を置かせていただいています。このプロジェクトのコンセプトは「東北の子どもたちの学びと遊びを支援する」こと。これに基づき、現在では宮城県石巻市の仮設団地集会所での放課後の遊び場「みんなの場」の運営や、学校や先生をサポートすることを通じて子どもたちに良質の教育を提供するための「学校サポート事業」、また長期休みには「アカデミーキャンプ」という企画をやっていたりします。こうしたプロジェクトへの関わりをし始めたためか、そうした団体の情報を集めるようになったのもこの時期でした。

書籍が実際に発売になったあたりの4月下旬と、書籍発売以後の5月GW開けに、私は2度石巻市を訪れました。前者は、「プロジェクト結」の先遣的活動として、後者は発売されたPRAY FOR JAPANの寄贈を目的としていました。その時に見た現地の状況から、僕はPRAY FOR JAPANに対して、ある疑問を抱くようになります。それは、この活動によって、現地の人々に本当にメッセージが届いているのか、メッセージを届けることが善意の押し売りになっているんじゃないか、ということでした。まだ当時は緊急期フェーズでしたから、避難所で生活される方が大半でしたが、その中でも半ば無理矢理学校が再開されている状況でもありました。そうした学校を訪問すると、やはりニーズは生活の側面にあるんだと思いました。同時に私の場合、多言語に翻訳するということの意義が、現地で苦しむ外国人のために、本当になれているのかどうか、その目で確かめることはできませんでした。実は現在でも、この疑問:メッセージを伝えたい人に本当に伝わっているのか、PRAYだけでは何も動かないのではないか、ということは心の片隅にあったりします。それは、自分が赴いているわけではなくとも、別の復興プロジェクトに関わる中で、実際に現地に関わるメンバーの姿を見ている分、余計に出ているのかもしれません。

しかし一方で、多言語翻訳をしたことの意義を大いに感じる出来事がありました。所属するSFCが、授業開始が遅れた分の1ヶ月間に行った震災復興関係のフィールドワークを単位化する制度をつくりました。私はこの制度を使って、多言語翻訳プロジェクトに関わってくださった皆さんにインタビューを行い、これを一つのレポートにまとめる作業を行いました。ここから、多言語翻訳プロジェクトに隠された別の意義を見出すことになります。それが、翻訳者自身の心の不安を取り除く、ということでした。Webサイト上で関わってくださっていたメンバーのうち数名は、震災が起こった当時に日本の地にいませんでした。災害で苦しんでいたり、節電を余儀なくされる生活を送っていたりする日本の人々に比べて、同じ日本人なのに何も出来ない自分に苦しんでいた、という声を聞きました。きっとあの当時、多くの日本人は「何かしたいけれど何もできない」という不安にかられていたのだと思います。多言語翻訳は、そうした不安の心を取り除くことができたのです。かくいう、私自身がそうだったのかもしれません。

電子書籍版の発売が決定し、様々な言語での発売が可能になったタイミングで、さまざま持っていた自分自身のこだわりを捨てても、プロジェクトを進めるべきだ、という考えに至りました。サイト時代は、できるだけ日本語のニュアンスを崩したくないことから、日本語と該当言語の話者のみをメンバーとして迎え入れていました。しかしそれでは、充分な作業量を担保できないと感じ、またすでに完成されている英語版の翻訳クオリティが高いことから、英語−翻訳言語の話者の方もメンバーにするという方針にしました。また、できるだけソーシャルネットワークでつながっている顔の見えないボランティアによる恊働、という形を保持したいと思っていましたが、結果的にスピードは背に腹は代えられず、種々のご協力のもと、GMOスピード翻訳の皆様にお手伝いをいただきました。プロジェクトの形態が問題なのではなく、多言語版のコンテンツが完成することの方が重要だという認識に至りました。それでも、プロジェクト開始から日数が増えるにつれて、自分自身のコミットメントの度合いが薄れていっている感覚を、自分自身でも感じていました。

日数がたつにつれ、個人的には授業が始まり就職活動が始まり、またプロジェクト結にも参画するなかで、だんだんと日常生活に向かいつつあった日々、心の中には「やらなきゃ」という思いがあっても、手足がいっこうに向かないという日々が続きました。それが続くことで、「やらなきゃ」という責任感の反面、「やれていない」という現状とのギャップが自分自身受け入れられず、余計に活動に手足が向かなくなる、というジレンマを抱えてしまっていました。同時に、無理なものを無理ということ、やるといったことをやりきるということについて、自分の意識がすごく低かったことを痛感しています。分かっていても改善できなかったということは分かっていなかったということです。自分がしていることが、他者を巻き込んでいるということに無自覚だったということ、その時点で「まとめ人」としては失格だったのかもしれません。だから今、プロジェクトに関わったことについて、胸を張れる自信はないのが正直な所です。

ソーシャルメディアを用いて、顔の見えないどうしが、思いを一つにしてプロジェクトを動かしていく奇跡を、僕は3.11以降の1ヶ月間で痛烈に体験しました。その奇跡は未だに続いているわけですが、今はむしろ、顔の見えないどうしのプロジェクト運営の難しさの方を痛烈に感じています。そこで、人の手を借りる、ということや、手を借りつつもマネジメントするということが、結局上手くできません。自分も、関わっている人も、みな日常があって、気持ちには波やムラがあって、だから毎日それに従事することはできないのです。あくまでボランティアなのだから、できることをできる人ができるだけやる。そうはいっても、ある一定のレベルは求められる… 勝手に一人で悶々とするなかで、私自身は、せっかく手を上げてくださった方のご連絡を結果的に無視してしまい、善意をつぶしてしまう行為に及んでしまいました。

本心を語れば、僕自身には、何かしらねたみのような感覚もあったこともあります。このプロジェクトにおいて、評価されるべき部分において、自分がどれだけ正当に評価されているか、自分とともに活動に関わってくれたボランティアメンバーがどれだけ正当に評価されているか。一つの告知方法としてのフィーチャーの仕方と割り切れば良いものの、人間に潜む醜い「目立ちたい」という欲望のせいか、スポットライトが当たる部分のある種の狭さに対して、羨望がありました。今では、憧れる人になりたいと思っても、所詮自分にはそれだけの器はないと思うに至りますが、確実に自分の手足が動かなくなったことの要因の一つには、そういう醜い「目立ちたい」という叶わぬ欲望が関わっていました。

いろいろ言いましたが、結論から言うと、prayforjapan.jpの多言語翻訳プロジェクトのまとめ人である私は、そのまとめ人という「肩書き」に見合うだけのことを、これまできちんと果たすことができなかったわけです。その目標をしっかりと追い求めることができなかった訳です。そのために必要な協力を請い、関わってくださる全ての皆様とちゃんと向き合ってやることをやっては来なかったわけです。個人的には、もはやそういった、ムダな自責の念しかないのが正直な所です。

だから、けじめを付ける意味でも、このプロジェクトを閉じることにしました。

これ以上、ずるずるしていても、本当にいろいろな所に迷惑をかけるだけですし、いずれ震災復興支援のプロジェクトはどこかで終わりを迎えなければ行けないと思っていました。どこかで区切りを付けないと、いつまでたっても自分にとって、心理的な負荷がかかるのみです。いつまでたっても、自分のしてきたことへの自信や、自分とともに動いてくださった皆様への感謝をしきれないままになります。そして、これ以上プロジェクトを多角展開できるほど、自分には能力的にも時間的にも、その余裕はないと思いました。

プロジェクトに区切りを付ける、という決断は、このように至極個人的なことに基づくものです。当然ですが、このプロジェクトは私自身のものではありませんから、私の一存で終える/続けるを判断するべきではないことは当然です。ですが現状、どのようにプロジェクトを推し進めていくかというアイディアとプランは私にゆだねられている所が多く、私の代わりにまとめ人をしてくださる方が現れるのであれば、これからも続けていくべきでしょうが、そうでもない限りは、ここで区切りを付けて然るべきと思います。

今、prayforjapan.jpと書籍PRAY FOR JAPANのミッションは変わってきていると思います。少なくとも私の解釈では、緊急期・復旧期におけるこのプロジェクトは、人々の心の不安を取り除くことをミッションとしていました。当然このミッションは未だに、特に現地において残っているものです。しかし、日本全体が日常を取り戻す中で、徐々に薄れゆく震災当時の意識を、鮮明なものとして記録する上で、このプロジェクトが今後果たす役割は大きいと思います。つまり、これから復興期へ向かうなかで、2011年の3.11に起こった出来事を記録して誰もが見て思い出せる状態にしておくことこそ、現在の、そして本質的なミッションなのだと思います。多言語翻訳プロジェクトは、被災地の外国人の不安を取り除くことや、世界に向けて感謝の意を表すというミッションを掲げてきました。しかし今では、「あのときのことを、全世界の人に覚えておいてもらう」上で、より大きな役割を果たしているのだと思います。

たくさんのことばに翻訳することは、その記録を数多く残すことになります。しかし、闇雲に翻訳を広げていくことは、逆にあのときの不安を拭った感動を、美しさを、悲しみを、勇気を、そぐことになりかねません。だからこそ人力翻訳には最後までこだわりたい。そうするならば、合理的に考えても限界は存在します。このプロジェクトが、そのツールとしてFacebookをはじめとするインターネット世界のツールを用いている以上、そして日本で発生した事柄を取り扱う以上、どうしたって言語比率的に翻訳可能の言語は限られてきます。私のアプローチ不足だと言われればそれまでですが、でも結局、私が望んだ、東南アジア系言語の補完には至りませんでした。一部の言語は、電子書籍プロジェクトにおいて、たった1名で完璧に翻訳されるに至った言語もありますが、しかしそれをチェックする体制が整っていないのも事実です。その発端はすべて私に帰されるわけですが、とはいえそれが実情でした。

だからといって、中途半端にプロジェクトを閉じるのは自分自身後悔すると思います。そこで、講談社の方と相談した上で、一旦プロジェクトを今月25日に閉じることとしました。これは、初版の出版日です。実はこの決定をすでに3月の段階で行っていたのですが、前述のような心理状況に苛まれるまま、結局今に至る、という具合です。本当に情けない話ですが。。。

いずれにせよ、4月25日までに、残った言語の全てをそろえる、ということを目標に、これまで翻訳に携わってくださった方の他に、新たにメンバーを加えて翻訳を完成にこぎ着けたいと考えています。何を今更、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それでもあと一歩、ご協力をお願いしたく思います。必要な言語については、別途Facebookページにおいてご案内いたします。まずは本ポストを、経緯説明ということでご理解いただき、今しばらく実作業についてはお待ちいただきますようお願いいたします。

最後に、これだけ長い文章での自分自身の経緯説明にお付き合いいただいたこと、本当にありがとうございました。また、私の不徳の致すところで、皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫びすると同時に、それでもなお、このプロジェクトに関わってくださったことを本当にうれしく思います。もっちと僕は、大学からStudent Awardという賞を共同受賞するに至りましたが、このうちもっちの分については、本当に彼の功績を正当に評価したものだと認識しています。翻って僕自身は、始めこそよかれど、後々においては、その賞をいただくどころか、評価さえされるに至るような人間ではなかったと自覚しています。むしろ、この賞は、プロジェクトに関わってくださった皆様のものだと考えるとともに、図らずも自分自身が受賞してしまった責任を全うするためには、きちんとプロジェクトを終結させることが重要だと認識しています。

あと一歩、ご協力ください。

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