もう何を言いたいのか分からなくなってきたけど、とりあえず「知のキュレーター」の要件についてぐるぐるしてみた

リクエストにお答えして文筆をします。テーマは「異なる専門性を理解するということ」と「教育について」という二つをミックス。前者はSpecificすぎるし、後者はざっくりしすぎだし、しかしどちらも最近思うところに近しいので、書いていこうと思います。長いので、以降全部、続きにしました。

育成担当者は、「知のキュレーター」であるべきだ。それが、人材育成担当として仕事をしてきて最近思うことです。

というか、私自身がそうありたいと思う姿です。新人教育を実際にやってみて、私自身が講師として前に立つ機会はそんなに多くありませんが、身につけるべきマインドセットとスキルセットを定義し、それを誰にどのようなコンテンツで担当してもらうかを考え、その担当者とひたすら内容について詰めていき、あるいはそれを学べる機会としての「タスク」ないしは「プロジェクト」を用意する、ということをやってきたなぁ、という実感があります。それはまさしく、編集者の仕事であり、ライターの仕事ではありません。しかし一方で、編集者・キュレーターには明確な編集方針があるのと同様、育成担当者としても明確なポリシー、ないしは信念があるべきだと思います。それが現れているのはまさしくこの記事です。

自分でも少し不思議なのが、私はどちらかというと専門家気質で、頼るより頼られたいし、手を出すより口を出したいし、巻き込むより巻き込まれたい人間です。しかしこうして、「知のキュレーター」としての動きをしています。それは新人研修に限らず、企業内大学のように社員向け研修コンテンツをつくっていくミッションにおいても顕著に出ています。なんでこのような気質を表出できているんだろうか、というのに対して、おそらくその答えは、私自身が「新しいことを手に入れていく過程に喜びを感じる系の専門家気質の強い人間」だからだと思います。その反対にいるのが「精度を高めることに生き甲斐を感じる職人気質の強い人間」だと思うのですが、どうやら私はそっちではない。とかく「おもろい」ことに刺激を感じる、「グルメな知的好奇心」の持ち主なのだと思うのです。

だからこそ私は現職にある限り、いや、人生をかけて、「学びの環境をつくるプロ」という専門性を持った上で、何を学んでもらうかに関しては外部の専門家を徹底的に頼ろうと思います。そのとき、その専門家が見ている世界を、私自身も「学びの環境をつくるプロ」の視座から一緒に見ることを心がけたいと思います。

思うに、今の時代の学校の先生に求められるのは、絶対的に必要とされる知や技や心を本人のなかに備えきることではなく、そうした知や技や心を持つ外部リソースを有機的に繋げて学習者に伝達されやすいような環境をつくる技術と、その外部リソースを得られるネットワークだと思います。その点で「会社員を経験して子どもたちに語れるものをつくってから先生になりたい」といったかつての自分をぶっ飛ばしたくなるし、また社会にはびこる「学校の先生は社会を知らない」という批判にたいして違和感を感じます。

さっき述べた、「環境をつくる技術」は「教える」や「育む」や「学ぶ」に関する専門性であり、「外部リソースを得られるネットワーク」は知的好奇心だと思います。その間を、きちんと「ビジョン」とか「目標」というものが仲立ちしない限り、両者は決して結びつきを持たないと思います。「ビジョン」とか「目標」というと大仰ですが、ある種「こうあるべき」とか「こうしたい」というのが、信念、あるいはそれを通り越して覚悟のレベルで、自分の言葉で語れることが大事だと思います。

ここで見過ごしてはいけないのは、「「教える」や「育む」や「学ぶ」に関する専門性」というものを持っていることの大事さです。この専門性はどちらかというと、Howの専門性、「どうやる」の専門性、また別言すれば、動詞としての専門性だと思っています。教育に携わる人間として、私自身この専門性は一定備えているつもりです(教員免許も持っているし、関連する情報の収集には努めているつもり)。この専門性を持っているからこそ、Whatの専門性・「なにを」の専門性・名詞としての専門性に対して興味が湧きます。おそらく社会の大半が忘れていることに、「学校の先生は「教える」や「育む」や「学ぶ」に関する専門家である」ということがあるのではないでしょうか。それを忘れているが故に、学校教育がやり玉に挙がりやすく、また同時に学校の先生がその専門性に対して時間を割くことが許される組織構造や勤務実態になっているのも事実だと思います。

これからの時代に求められる「学習」あるいは「人財開発」の機能というのは、「「教える」や「育む」や「学ぶ」に関する専門性」と「学ぶ対象となる領域に対する専門性」の両輪をきちんと持つことだと思っています。しかし大方の場合、人はどちらかの専門性しか持てないと思っています。いや、両方持ちうる可能性もありますが、効果的なリソース配分を志向するのであれば、どっちかは外部委託するほうが良いと思っています。となったときに、片一方の専門性を発揮するだけではまったく無意味なので、もう一方の輪を外から借りてくることが当然求められるのですが、そのためには、どうすればもともと持っている専門性の輪と有機的に繋げることができるかを考えるために、いったん外部から借りてこようとする専門的なことについて自分自身が理解しようとする努力が求められます。この努力を「努力」というハードルにさせないために必要なのが「知的好奇心」です。


ちょっと自分でも意味不明になってきたのでいったんまとめます。前のシェアハウスの同居人が書いたこのブログ記事にあるとおり、「【名詞】を【動詞】する」というフレームで考えることはとても大事で、一つの「コトを成す」には、【名詞】と【動詞】の双方の精度を高める必要があります。精度の高を高めた「専門性」というのは、【名詞】にも【動詞】にも存在しますが、どっちかは借り物であっても、どちらかは自分のものとして持っておいた方がいい、というのが私の主張です。さらに加えると、どちらかを「借り物」でまかなう場合には、元々持っている専門性の視点から、「借り物」となる専門性を持っている人が見ている世界を見ることが大切だと、それは「知的好奇心」を持たないとできないことだ、ということです。(ちなみにこの議論の大元の出展はこちらでした)

私の会社の社外取締役に就任した、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が著書で触れている「トランザクティブメモリー」という考え方に、興味を示す社員が弊社のなかでも多いのですが、「組織のメンバー全員が同じことを知っている」ことではなく、「組織のメンバーが『ほかのメンバーの誰が何を知っているのか』をしっておくこと」 が大事というのは、ちょっと間違えるとえらく失礼なことになると思っています。自分の得意とする領域と、他者が得意とする領域を掛け合わせるとき(【名詞】と【動詞】の掛け合わせはもちろん、【名詞】と【名詞】、【動詞】と【動詞】においても)、相手の得意とする領域に対する一定の理解は外せない要件だと思います、というか、マナーだとも思います。さしずめ、「知的好奇心」は、もはやマナーでしょう。

マナーとしての「知的好奇心」を前提として、更に持つべきなのが、自分が持ち得ない・相手の専門性に対する理解を、自分の専門性の視点から咀嚼し、その理解を伝達することだと思います。その摺り合せができていない状態は、単に専門性を深化させることはできても、新たな領域への発展・昇華は見込めないと考えています。深化も、昇華も、どっちも大切な営みであり、バランスをとることは大事だとはいえ、ここまで書いてきたことから考えれば、人は自分のもともと持つ専門性は深化させつつ、他方で持ち得ない専門性との掛け合わせによる昇華も行うほうがよい、というのが私の主張です。


さておそらくここまで、あるべき論を能書きのようにたれてきたところで、じゃぁどうすれば、自分の専門性の深化と、外部の専門性との昇華を叶えられるのか、というところは疑問のままだと思います。それで結局戻ってくるのが、教育に携わる人間が「知のキュレーター」であるべきだ、というところです。

伝えること・受け手側にとって有機的なインプットに仕立てること・そのインプットをインテイク&アウトプットさせることで確実に血肉にすること、という側面ではプロとして動きつつ、どの領域に触れさせるかについては常にさまざまな可能性を探る必要があります。用意すべき「領域」をどのように集めるかにおいて必要なのは、明確に「編集方針」、つまり「ポリシー」です。

幸い、企業のラーニング部門は、それをつくりやすい。事業の推進に必要となる知や技や心、というのは、なんとも定義しやすいものです。きちんと、従業員と経営層の双方のニーズを汲み取り、その上でラーニング部門が積極的にシーズを仕掛けていき、そのバランスが保たれる状態をつくる、というのは、確かに難しいですが、おそらく学校教育に比べれば容易です。

たぶん、可能性に満ちあふれているスポンジのような「子どもたち」に対して、どのような編集方針を持つのがいいのか、というのは、とても大変なチャレンジだと思います。学習指導要領も、一定の指針を示しつつ、一方でよくわかんない感じの自由度の高いことを言い出している昨今においては、子どもたちが経験できるコトの幅も広がっており、何を取捨選択すべきかに迷うだろうというのが学校の先生の大変なところだと勝手に察しています。

キュレーターとしてのポリシーは、その本人をかなり色濃く投影するものだと思っています。キュレーター本人の個性を、どれだけ普遍的なものとしつつも個性として維持するかは、めちゃくちゃ難しい問題ですが、この課題を乗り越えるために必要になるのは、そのキュレーター自身が、他を凌駕する「知的好奇心」でもって、多くの「(特に名詞としての)専門性」に対して首を突っ込んでいくことだと思います。

おそらく、この「知のキュレーター」に適正を持つ人間は、なんとなく、天性で、それらの「専門性」たちから見えてくるストーリーを紡ぐのがうまい人たちです。私も、そこに対しては一定の自負があります。だからこそ、自分自身の「編集方針」を磨く上で、マナーとしての「知的好奇心」を充足させる動きを、今後もしていかねばならないと思っています。

以上、お読みいただきありがとうございました。

Comments

comments