元NHKアナウンサーの堀潤さんが、「NHKでは障害者という単語に害という言葉を使うのには明確な理由がある、それは『害』はその人を取り巻く社会の側にあるから」という、本当か、と思うような記事を書かれていました。ことばによるラベリングというのは、違いを明らかにするという点で便利なのですが、違いという単なる事実を超えた、ちょっとめんどくさい感情や思考を生むと思います。
世の中、どうせみんな「ちょっと生きづらい」人々なんだ。そう思えれば、もっとフラットになるのに。
そんなことを、ここのところ考えています。
※ですが書いていて、なんだかよく分からなくなってきたので、その点はご承知置き下さい。
私が携わる人材育成の仕事において、Professional Seminarという企画を実施しています。アイディアも名前も、もともとは上司が考えたものですが、「事を興す」「道を究める」というテーマに昇華して企画の主担当をしてきたこともあり、誇れる仕事になっています。洗練されたオペレーションのもと進んでいく(というと聞こえはいいですが)弊社の仕事のなかで、なかなか忘れがちになるイノベーションマインドのようなものを、多くの社員に持ってもらいたい、というのが願いです。
その企画として、今年の10月に打ったのが、株式会社Letibeeファウンダーの外山雄太氏の講演です。「ビジネスという切り口から見るLGBT」と題して、LGBTというソーシャルイシューとビジネスの関連性、そして会社を立ち上げるというキャリアを選択した氏の根本思想に迫る、そんなテーマを考えていました。ただ残念なことに、最終的な参加者はそこまで多くありませんでした。開催した日程だったり、その講演を聞くことで得られるものを明示できなかったり、と、完全に企画責任者の私の落ち度でした。それでも一定、ソーシャルイシューに光を当て、そうした領域で課題解決をしようとするProfessionalが存在することを、会社の公式イベントとして社員に紹介できたことは、成果だったと思います。
実は外山氏と私はFacebookフレンドだったので、Professional Seminar企画の登壇者を検討する際に、割に早い段階から候補に入っていましたが、実はこれとは別に、会社の後輩から、LGBT研修を社内でやってほしいという声をもらっていました。彼女が、外山氏とマブダチで、さらには外山氏が弊社内に数名知り合いがいた、なんてことも判明。なんたる世間の狭さ、です。ここで重要なのは、その世間の狭さではなく、その後輩が「LGBT研修をしてほしい」と、自らの問題意識をぶつけてきたことにあると思います。彼女は、このセミナー企画を動かすほんの少し前に、社内報にて「LGBT飲みしませんか!?」と社員投稿欄に告知を載せていました。奇しくも同じ欄で私が、熊本県益城町での学習支援の様子を報告したので、提示した社会課題は異なるけれど、同じように社会課題に対して興味を示している人がいたことが嬉しかったです。
と、ここまで「LGBT」という単語を使っていますが、あまりこのラベリングをすることがイケてると私は思っていません。「LGB」と「T」は別物、という議論に始まり、当事者個々が持つ特徴や自分自身の捉え方が異なる以上、ひとくくりにするのはいささか乱暴な気がしています。確かに世の中で言われているラベリングに従えば〇〇に分類されるけど、でも□□さんは□□さんでしょ、と。
わりかし私はこういうフラットな見方ができているような気がします。いや、そう言っている時点で「自分と他の人は違うんです」と差別をしているような感覚にも落ちいるのですが、しかし私は、接する人に対するラベル、特にそれが社会課題として取り上げられるようなラベリングに対して、「あ、そうんだんだね」以上の、たとえば「かわいそう」とか「つらいよね」という同情、まして「気持ち悪い」などという嫌悪を抱くことに、あまりピンと来ていません。
しかし、なんで「ピンと来ない」のかは、よくわかっていませんでした。欺瞞を承知で敢えて「フラットに見れるようになった」という言葉を用いつつ、その端緒を紐解いていくきっかけになったのは、件の講演会の感想に目を通している時でした。
LGBTというソーシャルイシューとビジネスを関連させる、といったとき、私の理解では、1)LGBTの人々が働きやすい環境をいかにつくるか、2)LGBTフレンドリーであることを企業イメージ向上にどう繋げるか、という2側面での議論があります。この2の方に対して、実際に企業キャンペーンに活かしている会社はあり、リスクヘッジとしても取り組まれている、という話を聞きました。この、企業イメージに関する取り上げ方について、違和感を示す感想が参加者から寄せられました。
「社会のなかで困っている人に対して手を差し伸べることが、広告効果がある好事例として捉えられることに違和感がある」
明確にいつ、と区切れるわけではありませんが、以前の私もこの考えに共感していたかもしれません。が、今年の私は、その違和感に対して違和感が湧きました。ちょっと乱暴な言い方をすれば「売名行為で何が悪い」と。私にとっては、「LGBTフレンドリーであることをブランディングに活かす」というのは、「ギークなエンジニア向けにデュアルディスプレイと最高スペックのマシンを揃えていい人材を集める」ことと全く同義なのです。
この考えに至った時、はたと気づいたのが、「そうか、みんななんだかんだ『ちょっと生きづらい』ひとびとであって、それぞれが抱えている『生きづらさ』の程度や性質によって、ラベリングがされているだけなのかもしれない」ということでした。そして私自身、明確に名付けることができない、もやもやとした「生きづらさ」みたいなものを感じているのかもしれない、ということも。だから、いわゆるソーシャルマイノリティの人々に対しては、そりゃ程度も性質も相手の方が「しんどい」はずなのですが、「生きづらい」と感じていることについては同じだから、あまりびっくりしないし、「ああ、そうなんだ、大変だよね」となれるのかもな、と思ったのです。
そう考えると、確かに「障害の『害』とは、取り巻く社会に存在するもの」というのも、確かに、と思えます。「私はフツーに暮らしている。【そのフツーができないことはかわいそうなこと】」とか「世の中の大多数のフツーとは違う。【それはいけないこと、おかしいこと】」とか、【】で囲った部分のような考えが、余計な「生きづらさ」を生んでいて、それが害なんだ、と言えると思います。しかし見過ごしてはいけないのは、そもそも「フツー」って概念自体が、【】で囲った部分を生み出しているということです。
こう書いておきながら、割と私自身も「フツー」という謎のものさしを持ち出す傾向にあるのは言うまでもありません。しかしながら、私は案外、自分自身が「フツーではない」、もっといえば「あいつは変わっている」と言われているような自己認識を持って生きてきました。周りからそういう目で見られることが、ある種「生きづらい」と自分が感じてきた部分だと思っています。会社員生活をするなかで、「自分が良いと思ってきたことが必ずしも他の人も同意するとは限らない」ということを学ぶことで、より鮮明に、「自分は他の人とは違う」と思うようになりました。
なんかやはり、私はどこか、ずれているようです。明確にどう、とは言えませんが、思いつくことや起こす行動の性質は、「いやそんなことフツーの人はしない」というレベルのようです。たとえばそれは、休日にプロボノ的な活動に従事したり、毎年のように雪合戦ツアーの運営をやっていたり(休日にスタッフ仕事をしていることが何よりリフレッシュ)、大学時代に長距離通学してみたり、そんな些細なレベルのことしか今は思いつきませんが、おそらくそういうことが積もり積もって、「あいつはなんかおかしい」というレッテルが貼られたようです(そしてそのレッテル=キャラ設定を、私自身は有効活用しようとしている節があります)。救いだったのは、小中高時代にお世話になった先生、SFCという大学の環境、そして現在勤務する会社の風通しの良さです。
別の部署の上司と飲みに行った際、「えんしのはどうして、そういった社会問題に対してアンテナを張っているのか。単純にそれが気になる」と、件の講演会の後に聴かれました。おそらくその背後には、私自身が「ちょっと生きづらい」と感じるところがあるのかもしれませんが、明確にこれが原体験として、というものが思い出せません。ただ、いわゆる「マイノリティ」としてラベリングされがちな人々に対して、(語弊があるかも知れませんが)「大して何とも思っていない」というのに至るには、たしかにいくつかの経験があったと思います。
たとえばそれは、
- 中学時代にたまたま出演したテレビ番組で肺がんで余命3年と宣告されながら「そんなことどうでも良いから書きたい」とロックに過ごしていたライターと出会ったり
- 高校時代にかけがえのない2週間を共に過ごした海外短期留学仲間の一人に片手がない友人がいたり(ちなみに彼女はその障害すら忘れさせるほどになんでも出来る)
- その海外短期留学の仲間の一人にちょっとアジアンテイストな日本人顔だなと思っていたら実は正真正銘のベトナム人だったという友人がいたり
- 大学時代に言語学の観点から手話に接して明らかに日本語の統語形態とは異なる形態を有している日本手話の存在を知ったり
- 同じく大学時代のゼミで多文化共生をキーワードに勉強していたので日頃から「ミックス」(ハーフとは言わない)や移民の困りごとを知っていたり
- 教職課程の介護等体験における特別支援学校での個に合わせた指導の徹底ぶりに感動したり
- 大学院時代にお手伝いした「日本語を学ぶ外国人中高生」を招く会でカナダ人の男子が英語が話せないベトナム人女子に告白してハグ写真を撮るシーンを見たり
- 視覚障害を抱える社内マッサージ師さんに背中を揉まれた瞬間に胃の不調を言い当てられたり
- 人事に異動して同僚になった車いすバスケの選手の試合を見に行ったらあまりにも激しい試合展開で驚いたり(そもそも私はそんなレベルでバスケが出来ない)
- 社会人最初の2年半で過ごしたソーシャルアパートメントでピーク時には4人の外国人と過ごしたり
そうした経験です。
それらの経験/出会いで知った人々の「特性」は、その「特性」を解釈する側によって勝手に「抱えているもの」と捉えられ、そしてそこに「感動」とか「同情」とかを勝手に乗せられてしまう可能性があるのではないかと思います。が、すくなくとも私はだいたいの場面において、むしろそれらの「特性」を忘れてしまうほどです。しかしそれらの特性は、確実にどこかの場面で「生きづらさ」あるいは「困ったこと」として表出されるわけで、そういうときにはただ、その「生きづらい」や「困った」を手助けすればいいだけの話だと思っています。
私にとっての、「社会課題との関わり」の一大事となった「東日本大震災および福島原発事故災害」にかかわる活動においても、その活動に従事するにつれて、「どこどこの人」ではなく、「特定のあの人」という、個のつながりでの活動(あえて支援とは言わない)になっていったと思います。特に福島の子どもたちを対象にしたアカデミーキャンプでは、参加する子どもたちを「福島の子どもたち」というカテゴリ的な見方すら忘れています。彼らは、それこそ震災後すぐは外出や食事に気を遣い、それが収まった今でも、ここから先「福島」というラベルを背負っていく以上、一定の「生きづらさ」を抱えることになります。「あいつが困っているんだから、そりゃなんとかしてやらないと」という感覚の範囲が、身内や友人というレベルよりも少し広いだけの話です。
結局何が言いたかったかといえば、確かに社会課題というのはそこいら中にあるのだけれど、それは結局みんな「ちょっと生きづらい」の変形だ、ということ。そして誰しもが「ちょっと生きづらい」という感覚を抱えているのだから、もっとフラットに共感して、だれかの「生きづらい」を解決し、その代り誰かに自分の「生きづらい」を解決してもらう、ということはできるはず、ということ。
多様性を認めましょうということが声高に叫ばれはじめ、多様性があるほうがよい成果を生むんだという主張も多くなっている現代。しかしそれは、「いろんな人の生きづらさがいっぱい出てくる」ということと同じことです。そうなると、もはや「やれあれが問題だ、これが課題だ」なんてラベリングには意味が無くなり、もっと根源的なレベルで「誰かの生きづらいを、ちょっとでもよりよく」という志向に【留まっておく】ほうがいいのだと思います。もちろんそれは、私も道半ばですが。
どうせみんな生きづらい。とかくこの世は生きづらい。その分、ちょっとでもよりよい方向へ。
そう思える人が、広がりますように。