陸前高田市は箱根山。そこにある宿泊施設の「箱根山テラス」で行われた「箱根山学校」というワークショップに参加した。たぶん、ワークショップという言葉が最も適当とは思えないのだが、しかしその言葉以外に平たく説明することができない。ただ、何かを感じ、何かに気づくための、日常を離れた4日間であることは間違いない。
そんな箱根山学校での気づきの記録。7つ目は、陸前高田の街をまわってみて感じたこと、その1。
「陸前高田はひらきなおるしかない」という、市職員さんのことばは、まさしくその通りだな、と思った。大事なのは、あのときどうすべきだったかというよりも、今これからをどうするのか、ということなのだと思う。かさ上げと切り崩し、新しい区画を整理する中で生まれたかさ上げ地と高台を、そして12.5mの防潮堤を見て、そのようなことを感じた。
津波が起きた時のことを、じっくりと、見えるように話してくれた伝承館の館長さんは、後世に「ほんの少しの防災意識を持ってもらいたい」と話しつつ、こんな話もしてくれた。曰く、「こんなに海が近かったんだ」と。おそらくだが、これから先、海はもっと遠いものになると思う。かさ上げ地から海はきちんと見えないほどに、12.5mの第二堤線は高い。
近くで見たところ、2:1の傾斜度は、実際のその高さに比して高さを感じさせないものだった。しかし確実に、すぐそばにある海を、堤防の手前側では感じることができない。今の国道と堤防の間には沼があって、その沼を活かしながら、国立の追悼施設を始めとする公園が整備される予定になっている。今回の12.5mの防潮堤は、100年に1度クラスの津波を防ぐことができるが、しかし3.11の高さにして低く、またかさ上げ地との差異はわずかで、言う人が言えば「この堤防は一体何を守っているのか」とも言える。
ただ今日、その堤防の上に上がって感じたのは、その堤防を「違和感あるもの」として捉えて、そこに置いておくことは、実は大事なのかもしれないということだった。きっとまた、かつての津波のことが忘れられ、低地造成がされるかもしれない。それを防ぎ、未来に3.11の危険を伝えるまでは、12.5mという巨大な、海から人を心理的に遠ざける、あの「違和感ある堤防」は、必要なのだと感じた。
結局、あの3.11の衝撃を目の当たりにしてしまった人々が、防潮堤を立てるという意見を持つことは避けられなかったし、またかさ上げや高台移転するということに至るのも避けられなかった。混乱をする中で、発災から9ヶ月で作られた復興計画に、未来を明るく見据えて、大きなリビルドをするのは、実はとても難しく、悲しみに寄り添うということの方が先立っていたのだと思う。本来であれば行われる出来だった環境をアセスメントも行われなかったのは、致し方ないことだと言われても反論する余地がない。
だとすれば、結局今進んでいるものを踏まえて、どうそれらを活かしていくのか、ということが大事なってくる。思うに、伝えなければならないのは、海の畏れおおさなのだと思う。ひと波で街を飲み込んだ海水は、その一方で恵みと癒しを与えてくれるもので、その二面性と向き合う生活をすることが、沿岸部の人々の元来の営みであったはずだ。今回作られた、防潮堤や高台やかさ上げが、その元来に対する「違和感」なのだとすれば、それが「違和感」であることを伝え続けねばならないだろう。
伝承館の館長が、「5mの堤防が守ってくれると思っていた」と言った。そうはならなかった現実を、語り継いでいくことが一体いつまで続くのだろう。