「なにもしない」を赦せるようになってきた(お題:連休最後の日)

連休最終日である。22時を過ぎ、あと少ししたら床につかないとというところだが、少しだけ物書きをしたいという、軽い衝動に駆られて、TwitterとFacebookでテーマを募集してみたら、Facebook側では、思いのほかたくさん返信をいただいた。

今回はそのなかで、TwitterのDMでいただいた、「連休最後の日」というテーマを書き出そうと思う。他にもたくさんのテーマをいただいたが、それは今後、気が向けば週1本ペースくらいで、書けるところから記事にしていければと思っている。


すべての週が、週休3日になれば、QOLが上がるんじゃないか。3連休ともなると毎度のようにそんなことに思い至る。それでも日常はやってくるわけで、Offというのは、Onがあるから際立つわけだ。明日から、本格的な3学期が始まる。

この3連休はどこか、冬休みの延長にあるようなものだった。昨年度も今年度も、冬休みには、仕事納めより先に年休を取りはじめ、仕事始めより後に出勤をする。先週は、水・木と生徒たちがまだ来ない日々を過ごし、金は始業式なので午前中で生徒は帰った。それでなくとも金曜から日曜にかけて、今住んでいる土地では寒波によるどか雪が降ったため、金曜の登校時間は遅くなり、雪の影響で親が送迎できずに出席できない生徒も多かったのに加え、出席した生徒もさっさと帰った。かくいう私も、定時で学校を出た。そこから始まった、この3連休。

しかし、途方に暮れた。やることがない。

いや、あるはずなんだが、いまいちどれにもやる気が起きない。当然、仕事をする気にはなれなかった。しかし自分としても驚いたのが、いわゆる「2020年秋アニメ」の消化もする気が起きなかった。ダウンロードしておいた「呪術廻戦」や「ごちうさ」ですら、再生ボタンを押さなかった。唯一再生したのは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」だった。最新作の公開までに、あと「破」と「Q」を再復習せねば。

ブログだってそうだ。書きたいと思っているネタはある。一つは「それでも、中学生に関わることに、こだわるわけ」、もう一つはシリーズもので「農業ビジネス体験学習の裏側」だ。きっと大作になることはわかっていて、そういう記事こそ、べつに仕事がスタックしているわけでもないこの手の連休に手をつけるべきなのだろう。しかし、やる気は起きない。

書くのがダメなら読むのはどうか、というところで、読書だけは少しだけ手についた。それでも、安宅和人さんの『シン・ニホン』を2020年10月くらいから少しずつ読んできて、5章の半分と6章の半分が進んだくらいだった。通算読書時間は3時間程度で、しかもその半分がスマホの画面に奪われた。

「なんか、しばらくはいいかな」と思って距離を取っていたオンラインの学びの場には、思い切って課金することにした。課金して正解だったなと思うが、それもどこか、思い切って課金したからには回収せねば、くらいの感じであって、まだ往時の「意識高い感じ」に戻れている感覚には乏しかった。

他に能動的に動いたことといえば、ミニキッチンに立って料理っぽいものを仕立てて昼食と夕食を取ることくらいだが、それにしたって手間はそんなにかかっていない。あとの大半の時間は、つい勢いで買ってしまった、職場用の23インチPCモニタを取り巻く環境をどうしつらえるか、のために、Amazonと睨めっこしながら、どのケーブルを買えばいいかを思案することと、大雪の中申し訳ないと思いつつ、ヤマト運輸さんがそれらをいつ運んできてくれるかを心待ちにすることくらいだった。結局、日曜日にディスプレイが届いたので、雪の合間に職場に行ってセッティングだけしてきた。職場に行ったのに、仕事はしていない。

以前の自分は、これを「意識が低い連休の過ごし方」と捉えていた、そんな時期もあった。

今回は仕方ない。だって、警報レベルの降雪である。何かをしにいこうにも、それは自分から身の危険を犯しに行っているのと同じである。ちなみに、それでも身の安全を確保するために、2020年2月に大雪が予測された前日に購入したものの結局そこまでの降雪にはならずに使えなかったタイヤチェーンを、今回はきちんと履くことができた。しかし、とにかく寒かった。電力供給が逼迫するレベルで、家にいても寒かった。「意識の高い連休の過ごし方」は、このタイミングにおいては、家でじっと毛布にくるまることくらいである。

「なにもしない」休みを過ごすことに、抵抗を感じる時期があった。いや、抵抗感というより、罪悪感というものだろうか。学生時代のことはもはや思い出せないが、それでも30歳くらいまでは、そういう感覚に苛まれることが多かったと思う。

昼まで寝て、気づいたら夕方になっていて、「あー」となる感じ。スタックしている「しなければならないこと」も多く、はたまた気持ちだけが先行する「したいこと」も多く、それでも長い長い睡眠がそれらを無為に奪ってしまい、奪われたことに気づいたあとのやる気さえも奪ってしまっていく感覚。時間を「無駄」にしてしまったこと、機会を「損失」してしまったことに対して、誰に対してのものかわからない「申し訳なさ」を感じる日々は、令和元年度までは多少たりともあった。

しかしどうだろう。今回のこの連休の過ごし方、人によっては「えんしのらしくない」と言うかもしれないが、一つも悔いていない。生産性のない休日に対して「そりゃ、休日は休むためのものだから、生産性なんて皆無でいいじゃん」という認識。見方によっては、甘えとも言えるかもしれないが、しかし冒頭でも書いたとおり、OffがあるからOnが際立つわけだ。別段、気を張って「これをしよう」という強い意志があったわけでもない休日に、なにか生産的なものを求めること自体が間違っている。

しかしふと考えてみると、びっくりしたもんだ。なにがびっくりかって、過去の私はこんな発言をするようになるなんて思っていなかっただろう。

きっと過去の私なら、「なにかができるはずのときに、なにもできなかった」という、筋の悪い自責に駆られて陰鬱とするに決まっている。それくらい、「なにもしない」のは、自分にとって「なにもできていない」というマイナス評価を下すものだった。今は、それから解き放たれている。一つには、生活上のOnとOffの双方に「慣れ」が出てきて、その結果として「なにかできる」時間を確保しなくても、物事を回せるようになってきた、というのがあるかもしれない。

「余白」というキーワードがよく取り沙汰されるが、いうなればきっと「なにもしない」という選択は、「あえて『余白』を生み出している」という、生産的行為なのかもしれない。「なにもできていない」のではなく、「『なにもしない』をしている」ということ。それは自分にとって必要なことであり、また「『なにもしない』は悪いことではない」と自分を赦せるということ。そうした「余白」や「赦し」の大事さを感じるようになってきたのも、変化かもしれない。

かといって、この連休は「気づいたら夕方でした」という状況にはならなかった。毎日、コーヒーを淹れることができた。10月からコーヒーキャニスターに入っていた、岩手県陸前高田市から送られてきた中粗挽きのコーヒーを、ようやく9日に消費しきり、10日と11日は、修学旅行で訪れた、宮島の「伊都岐珈琲」のルワンダの豆を自分で挽いて淹れて飲むことができた。ルワンダの豆は、コーヒーのわりにフルーツ味がふんだんで好きだったのだが、今回のはちょっと濃さを感じた。後から気づいたのだが、その豆は深煎りだった。自分が好きな、スッキリめにするには、淹れ方を工夫したほうがよさそうだ。

 

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そういう時間を過ごすと、いろいろと思考がめぐる。そんな時間の過ごし方でいいのかもしれない。気張らないくらいがちょうどいい生き方なのかもしれない。

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