先週、お題を募集して「ライトに書く」ということをし始めました。気分が乗れば週1で取り組もうと思います。で、今回のお題は「ライトに書くということについて」です。
なんとなく、文筆をしたいと思う時はたまにあって、しかし構想がしっかりあるものほど、大作になってしまう傾向が年々強まっているから、書こうにも思い切りが必要だったりする。そういう、熱のこもったものではなく、もう少し軽い気持ちで物書きがしたい。そんなわけで「ライトにものを書きたい」といって、テーマを募集したら、いただいたものの中に、正直「ライトじゃない」と感じるものがあった。
- それぞれが掲げるビジョンって、本当に実現するのか
- 炭坑の子守唄について調べてレポート
- これは実際に調べて書かねばと思っている
- こどもに対する「仕掛け」と「仕向け」の違い
- 愛することについて
- 教育心理学と教育政策
- 学校は必要か
- 思春期の子どもに親はどう向き合うべきか
- いじられることと、自らいじられに行くことについて
- 生きづらさの正体
- 大人になっても学び続けることの意義
もちろん、いただいているテーマなので書いていこうと思っているが、しかし前述の「思い切り」が必要だと思えてしまう。繰り返すが、いずれこれらは考えがまとまれば書く。もっとも、「テーマをもらって作文する練習」においては、こういう骨太なテーマのほうが適しているだろう。
しかし、これらよりもよっぽど
- 泣けたときについて
- だだしこれは、すでに既出の作品があるのでそちらをご覧ください
- 埼玉と千葉の争いとその決着
- ただしこれは、茨城県人の私が勝手にものを述べていいものかと思案する
- ごはんのおかずベスト3
- 美しい灯りとは
- 筑豊のラーメン
- カタンに勝たん
- ただしこれは、書くのは自分がプレイしてみてからの話だ
といったテーマの方が、「とくだん何も手をつけたくないので、物書きでもするか」と思った時に取り組みやすいと感じるテーマだ。
はて、この差異はなんだろう。
今回は、件のテーマ募集投稿をしてからいただいた「ライトに書くということについて」をテーマにしている。そのテーマをくださったのが、組織開発ファシリテーターの長尾彰さんだったのだが、正直言えば、彼からこのテーマをもらったときには「ドキッ」とした。決して本人はそんなこと思っていないんだろうが、しかし彼から、「ライトに書きたいからテーマちょうだい」という投稿に「ライトに書くとは」というテーマをもらうという事象に、どうしても言外に「物書きとはそんなにライトなものじゃなくね?」というのを感じる。繰り返すが決して本人はそんなことを思っていなんだろうが、しかし、著書も3冊出していて、出版業も営んでいる人からすれば、「ライトに書くなんてなんたることか、けしからん」とも思われたんじゃないかと思ってビクビクしている。反射的に「すいません」が出てきそうである。どうでもいいが、この段落を書くために「長尾彰」をググってみたら、Wikipediaのページがあって驚いた。
しかし、いい問いを投げていただいたと言うか、考える機会になった。そもそも、自分にとって、書く、とはどういうことなのだろうか。
もう16年もブログを続けてきて、先日もこのPodcastラジオに出た際、最後の質問で「わたし時間」を聞かれて、「ブログを書くこと」を挙げた。自分にとってのこの”enshino Archive”というメディアは、まさしくArchiveとして自分の思考や感覚を、ストックして垂れ流す場である。誰のために書いているかといえば、正直に言えば多くの人の目に触れてチヤホヤされたいのだが、しかしその実、結局は自分が見返してニンマリするために存在するものでもある。公開日記、あるいは公開アルバムみたいなものだろうか。
そう、私にとって「書く」とは、見たり聞いたり感じたりしたこと、あるいは考えたりやったり取り組んだりしたことを、文字として記録に残す行為を言うようだ。ジャンルで言えばそれは随筆というか、エッセーというか、そういう部類に入る。論文ほどしっかりしているわけではないし、かといって小説まではいかない。余談だが、以前「小説版ゆきだまっ!」という、魚沼国際雪合戦をテーマにした同人漫画のノベライズに着手したが、春から始まって夏休みを迎えるまでのところで筆が止まっている。小説を書く、というところまでは、自分には難しいようだ。
前回の記事に対するコメントで、「えんしのさんの文章ってすっと入ってくるんだよな」というのをいただいた。この評判は以前からよくもらっていて、長いくせに削げる部分がなくスルスル読める文章を書くことには定評がある。でもそれは計算されたものでもなければ、編集の手を入れているわけでもない、本当に「とってだし」の、生の文体である。公開前に一読することもないので、誤字脱字を発見したら公開後に修正するくらいである。どんだけ長い文章であっても、だいたいの構成を決めたら、あとはそのままキーボードの上で指を踊らせるだけである。
とすると、僕は「書く」というかむしろ、書きながら「考える」、あるいは「しゃべる」ように書く、ということをしているのかもしれない。今もこの記事を、MacのCotEditorでタイピングしているわけだが、ミスタイプをのぞいて、書いては消し、を一切していない。次の展開を考えて書いていると言うわけではないので、「だいたい3000字まで行ったら終わらせるか」くらいのことを考えながら、結論を見通さずに文章化をしている。それくらい、考えていることを、それこそ息を吐くかの如く文字化している。
そう考えると、おそらく自分が思う「ライトに書く」というのは、そんなに身構えずに考えたり話したりするようなことなんだと思う。ライトに書けるお題というのは、自分に準備をそれほど必要とせず、自分の経験や記憶をスムーズに引っ張り出して、そこから思い至ることをするすると言葉にできるようなものなのかもしれない。いうなれば、「具体的なもの」だ。そうすると「埼玉と千葉」や「カタン」は、準備が必要な部類に入るので、ライトとは言えないのかもしれない。
抽象的なものごとについて考えたり、一定の取材を要するものについては、やっぱり腰が重くなるようだ。それはきっと、具体的なものをテーマに置く時とは違う思考をたどるからだと思う。自分が取り組んできた実践などを文章にすることに重みを感じるのも同じで、それらの思考には「集約」が発生するのが理由だと思う。そもそも抽象化された考えについて書くときには、それに該当する具体をいくつか集めてくる必要があるように思う。自分の実践をまとめる時も、起きていた「具体」を、いくつかの切り口でまとめなおそうとするので、その思考が大変なんだろう。
そこへ行くと、具体的な一つのことから出発する思考は、どこに辿り着くかわからない、ゴールのない「発散」をし始める。その発散に身を任せて、考えていることを垂れ流せばいい。昔、「万年筆は、良い」とか「フレンチプレスは、良い」とかいう書き出しで文章を書いたことがあるが、たぶん具体物をお題に据えると、そこからいろいろ考えや思いが巡るから、たぶん自分にとっては書きやすいんだろうと思う。先日も、大学時代に通ったスパゲティ屋に来訪した際、インスタに写真だけアップすればいいところを、その店をめぐるかつての出来事をつらつらと書いてしまった。
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「話す・考える」と「書く」が、同じくらいのことである僕にとっての「ライトに書く」とは、今のところ、以上のようなことを指すようである。