障害当事者が、仕事を通じた社会貢献を実感できる未来のために(インタビューしていただく06)

遠藤さんとは、チームビルディングの手法を学ぶ講座で知り合いました。その後、Facebook上で、人事から教師へ、教師から障害者雇用へと、様々な経験をされている姿をお見掛けして、「面白い活動をしている方だなぁ」とずっと思っていました。それで、お声がけして私の関わるコミュニティに講師としてきていただいたり、また一瞬ClubHouseが流行った際にお話しさせていただいたりと、3-4年に1度だけかかわりがある不思議な関係が続いています。今回も「インタビュー」という新しい形での接点が生まれたことをうれしく思っています。

今回は、そんな遠藤さんが取り組まれている障害者雇用に対する課題意識と、その背景となるご自身の過去について聞きました。「障害当事者と働くことでたじろぐのは、障害者自身ではなく健常者です」と語る遠藤さんの感じる怒りとは――。

この記事は、このブログ enshino.biz の所有者である遠藤忍が、自らの「とっちらかった思考を整理してもらいたい」と知人に呼びかけたことに端を発する企画『インタビューしていただく』の一環で書かれたものです。

著者紹介

編集・執筆:竹林秋人
2021年『嫌われる勇気』の著者として知られる古賀史健氏のbatons writing collegeを受講、以降インタビューを中心にライティングを行う。また、会社員として、素材メーカーで医療機器領域の戦略策定・新事業開発に従事。



インタビュー本編

障害者雇用は、事業にどう役立つか?

今日は、遠藤さんが取り組まれている障害者雇用についてお話を伺えればと思います。

ありがとうございます。インタビューして頂く竹林さんは事業開発のお仕事もやられていると聞いているので、ビジネス的な観点からの議論もできればと思っています。特に、事業開発の観点から見て、障害者雇用がどう価値を出しうるのかを整理したい。

どんな風に障害者雇用がビジネスに役立つんですか?

オペレーションを改善するのか、売上を上げるのか、二つの可能性があると思っています。前者からお話しますね。

よろしくお願いします。

ビジネスのオペレーションにおいては、安定して運用できること、それにコストを下げることが重要です。そのためには、業務プロセスを精緻に分析し組み替えて、誰でもできるように整理するとメリットがあるはずです。誰でも出来れば、誰かに依存するリスクも減る。労働のコストも減らせるでしょう。

ここに障害者雇用は役に立つ。例えば重度知的障害の方を雇用すると、業務プロセスの整理は進みます。この方々に作業を担ってもらうためには、作業を分解してわかりやすく伝達する必要があるからです。

なるほど、障害者の方に仕事を依頼するための準備自体が、業務オペレーションの改善につながるということなんですね。

はい。

 でも、プロセス分解しづらい仕事もありそうですね。例えば、いわゆるホワイトカラー的な仕事はどうなんでしょう?

ホワイトカラーの仕事は、より曖昧でコミュニケーション力が求められると思うんですよね。

例えば、プログラム開発であれば、プログラムを作るだけでなく、顧客と向き合い求める要件をきちんと聞いて、期待値調整を図る要素が出てくる。

より要素が多い。

障害当事者がこれら全てをこなそうとすると、困難が生じることもあります。

例えば、自閉スペクトラム症、いわゆるASDの方でプログラムのロジック形成に強い人はいます。最近では「デジタル分野における「ニューロダイバーシティ」の取組可能性」という言い方で、経済産業省がASDの方をIT人材不足という課題に対する人材プールとして期待していたりする。

でも、この方たちはオタクっ気が強く主張が強い方が多い印象があります。最後の所で、「私はこれがいいと思う!」「顧客が求めているのはそういうことじゃない!」と揉めてしまうこともあるかもしれない。

その状態が続くと困りますね。

ただ、このコンフリクト自体が良いきっかけにもなりえると思うんです。「お客さんへのヒアリングはAさんが合う」「この開発部分はBさんにお願いしよう」。業務プロセスを分解し、適切に配分する能力をマネジメントが持つことは効率化につながりうる。

お伺いしていると、障害者雇用以外にもつながってくるような話かもしれませんね。

というと?

例えば、Z世代は成長実感をより強く求めるという話があります。

働き方改革が進む中で、上司はパワハラに感じられることを恐れて指導が柔らかくなる。長時間労働で仕事自体の量も減る。その中で若手が仕事を通じた成長の実感を感じにくくなってしまっている。ある調査では約45%の若手が「自分は別の会社や部署で通用しなくなるのでは」という不安を抱えているとされています。そうした成長実感に対する不満が退職に繋がりうる。

職場の上司がプロセスを分解し、切り出した作業をしっかり教えられるスキルを持てれば、若手も段階的にやれることを増やして、成長を感じやすくなるかしれません。

良い視点を出していただいた気がします。

「業務プロセスを分解し、教えられる能力」は障害者雇用に限らず、今後必要性が増していくかもしれませんね。

次にもう一つの、売上につながるお話が出来ればと思います。多様な顧客のニーズを理解するために、障害者雇用は役立つと私は思うんです。実は、障害当事者が会社の職場に入って影響を受ける、もっと言えば「たじろぐ」のは健常者の方なんです。

「たじろぐ」とは、どういうことですか?

みんなが当たり前にできると思っていること、例えば、書類を読むこと、高い位置にあるボタンを押すことに不便さを感じる人がいる。それを知ると、その職場で使っているシステムや道具の不完全さを感じられるようになる。あるいは、健常者のやさしさから出た行動がが、相手を傷つけることになるかもしれない。

目の前の障害当事者に対してどう接したらいいのか悩む。その「たじろぎ」が出発点となって、多様性への感度が高まっていくのではないかと思うのです。

確かに、実際に困る誰かの顔が思い浮かぶようになると、色々なことに実感がわいてきそうです。

私はIT機器メーカーに勤めていますが、例えば受注生産のパソコンを買うお客さんは本当に様々な人がいるはずです。障害者雇用は、そうした顧客の多様性への感度を高めるためのエクストリームなソリューションの一つになると思います。

なるほど。ひょっとすると、業界によって必要な顧客の理解は異なるかもしれませんね。

どういうことですか?

例えば、私は昔、B2Bで原材料を販売する仕事をしていました。お客さんは製造業の購買部で、背広を着た30から50歳ぐらいの男性ばかりでした。そうなると、その多様性への感度を高める必要性を感じづらい。

そうか! たしかに業界によって違いますね。

同じ業界でも、顧客が違うと変わってきそうですね。

例えば、同じパソコンを販売する場合でも、企業向けなら購買部が顧客です。でも、B2Cで実際の販売店やカスタマーセンターの人ならば、色々な一般消費者に向き合わないといけない。

おっしゃる通りだ。このロジックも聞く相手を注意して使った方が良いかもしれない。

あと、「障害者雇用が売上や利益にどう直接つながるのか?」を明確に示せると説得力がある気がします。営業やマーケティング部門は常にそこを問われるので。

具体的には、既存製品の売上を伸ばせるのか、あるいは新製品を生めるのか。障害者雇用はそこに貢献しうるんでしょうか?

エポックメイキングだと思っているのは分身ロボットのOrihimeです。私は学校の教師をやっていた時に分身ロボットを授業に呼んだこともあるんですが、あれはまさに障害当事者の「ままならなさ」がビジネスになった事例だと思っていて。

障害当事者の困っていることって、普通の人にもやってくる事なんですよね。例えば、重度障害の外出困難者は、ある意味で寝たきりの高齢者の先輩ともいえる。
そう考えると、ビジネスの新規事業の種は、障害当事者の困りごとから生まれてくることもあるはずです。

障害当事者が「老いの先輩」というのは、言われてみると納得ですね。

似たような事例として、システム業界においてユニバーサルなアクセシビリティ担保のために障害当事者を起用している事例があります。

例えば、クラウド会計のfreee社は視覚障害の当事者をシステム開発のチームに入れて、製品の改良を図っています。チームのメンバーに実際に「不」を持つ人がいることで「社内の●●さんだったら使いやすいかな?」といった想像力が増す。

そうか、開発側の共感力が高まると、それが製品にも反映されるんですね。

障害当事者自身が具体的に発想したり手を動かさなくてもいいと思っています。
ただ、その当事者と相互作用を持つことで視野を広げることが出来る。

こう聞くと、障害者雇用には、事業開発に役立てる色々な可能性がありそうですね。


みんな仕事がしたい、みんなやさしさに包まれて生きていきたい

正直に言うと、今日お話を伺うまでは、障害者雇用は事業開発の人間からすこし遠い、あまり関係ない領域の話だな、と感じてしまっている部分がありました。

そうですよね……。

どうしても障害者雇用は、「人事施策の一つだよね」とか、「政府が決めたからやってるんだ」とか、あるいは「障害当事者がかわいそうな人だからやっているんだ」と思われてしまいがちですが、本流はそこじゃねぇだろ、と。

「上からのお達し」という形で、現場部門が納得しないまま進めると、結果的に疲弊そうですね。

みんなが「本当にやるべきだよね」とわかってくれる状況にならないと、真の社会参画が果たせないやんけ!って。

……やっぱり怒ってんだな、私は。

怒ってるんですか。

うん。

遠藤さんは、何に対して怒っているんですか?

特に精神、発達系の人たちの日々の努力や頑張りと、あと彼らの感じるしんどさを見ているので、彼らが不当な見られ方をしてると怒りを覚えるんでしょうね。その社会構造ってなんやねん、それを作り出してるのはどっちなんやねん、って。

不当な社会構造ですか?

例えば、転職の採用プロセスでいえば、お題目としては求められる経験やスキルさえあれば、障害の有無やあるいは性別、年齢は関係ないという前提で採用を行う方向では進んでいます。

でも現実は、その障害当事者は苦労している。なぜなら、その前段のキャリア形成の所で苦労しているからです。

特に発達障害の人に多い印象がありますが、マイノリティーであるが故に「自分が出来ない」という感覚を持ってしまったり、周りとのコミュニケーションにズレが生まれてしまうことがある。二次障害的にうつ病を生じて体調を崩したりもする。

そうすると本来出せるパフォーマンスが出せない環境にいるから、新たなスキルを獲得できない。

転職に必要な経験も積めなくなってしまいますね。

遠藤:結果的に、同じスタートラインに立つことすらできない。だから、キャリアが進むにつれていわゆる「健常者」の背中がどんどん離れていく。

大きな差がありますね。

でも、本当は、障害当事者って特別じゃあないんだぜ、とも思うんです。

どういうことですか?

みんな大変じゃないですか。障害当事者じゃなくったっていろいろ生きづらいことがある。

あくまで障害者、つまり手帳保持者って、人がみな抱えるいろいろな困難さの閾値を超えた人だと私は思っているんです。だから、いわゆる「障害者」も「健常者」も、別に困りごとを持つのは変わらない。

あくまで障害者って、人がみな抱える色々な難しさがエキストリームに閾値を超えた人だと私は思っているんです。だから、障害者も健常者でも、困りごとを持つのは別に変わらない。

あくまで、いくつかあるラベリングの一つである、と。

うん。Z世代とか、LGBTQとか、妊産婦とか、あるいは男性・女性とか。そうしたものと同じラベルの一つです。

元々、ラベリングって、何が起きるかわからない世界の中で、知識によって不安を払拭して進んでいくためには一定効果があるツールだと思うんです。例えば、大津波警報というラベルは、「出来るだけ早く高いところに避難する」という対応を明確にできている。

でも、そのラベリングが人を苦しめることがある。

例えば、マイノリティグループであれば、自分がそのグループに所属していること自体を知られたくないメンタリティーが生まれやすい。LGBTQの方々や、目に見えづらい精神・発達系の障害当事者の方々とか。

障害者というラベルは特に悩みを生みそうですね。

そうですね。

でも、実際に仕事でいろいろな精神・発達系統の皆さんと接していたり、今住んでいるシェアハウスで車いすユーザーの方とも暮らしていて思うのは、それぞれの人が抱えるままならなさは名づけられているラベルではカテゴライズできないぐらいの個別性があります。大変は大変だけど、その度合いと方向性は人によってぜんぜん違う。

もっと言えば、私は中学校教員をやっていましたが、生徒たちの中には様々な困難を抱えるような子供たちがいると感じました。

そういう意味では、みんな、大変で、みんな生きづらい。

特別じゃない、というのはそういう意味ですね。

障害者と一言で言っても千差万別。もっと言えば、そもそも障害者であるかにかかわらず、みんな苦労している。

障害者って、もともと英語でいうと” Persons with Disabilities” 。つまり困難と共にある人々のことです。

そう言われると、いわゆる「障害者」でなくても、だれでも困難と共に生きている気がしますね。

ですよね。

でも、キャリア形成を見ていると、障害当事者だけが明らかに持てていないものがある。

特別じゃないはずなのに、マイノリティが損をして、同じスタートラインにも立てない。

そういう所に問題意識が、もっと言えば怒りがある。

キャリア形成以外に、遠藤さんが課題だと感じられるテーマはありますか?

関連する話になるかもしれませんが、障害者雇用された方の正社員登用というのは重要だと感じるようになりました。

正社員雇用ですか。障害者の方は比率として少なそうなイメージがあります。

特に、精神系の障害を持っている方が仕事で不安に感じやすいのは、ポジションの安定性なんです。

元々発達障害当事者は先の見通しが持てないことに不安を感じやすいと言われています。だから、はっきり言えば「首を切られにくい」という正社員になれれば安心につながる。

将来に不安を強く持たずに働けるんですね。

おっしゃる通りです。

一方で、正社員ポジションは大変さもあります。ただの労働者であると同時にビジネスを前進させるエージェントとして見られる。数字のプレッシャーも当然ある。障害当事者は合理的配慮を求められると言っても、正社員の責任が免除されることにはならない。

確かに、先ほどのキャリア形成の話も加えると、ハードルは低くなさそうですね。

でも、だからこそ、そのプレッシャーの中で、生きづらさを感じているメンバーが、通常の正社員と同等の責任を負って働けているというのは大きいと思います。

今後、仕事で力を入れていきたいテーマです。

遠藤さんとしては、これから先の未来で、障害当事者の方の働き方はどう変わってほしいんですか?

障害当事者が、「私は社会の役に立っている、貢献ができている」と思えることですね。たとえ、苦しくても。

その意味で、障害者雇用がビジネスとして価値があるものであってほしい。「お上の要求」として押し付けられたものではなく。

企業の本質は価値の創造です。だから、障害当事者の仕事のパフォーマンスもその目的に合致しなければならない

障害者雇用の売上やオペレーション改善への貢献ということを考えられていたのはそういう理由なんですね。

それが、遠藤さんのいう社会に参画できている、ということにつながる。

みんな仕事したい、ってことですね。

もう一つ付け加えると、みんなやさしさに包まれて生きていきたいじゃんってことかな。だから、手帳を持つ人が持たない人が、お互いに助け合い、同じ一人の人間として机を並べて働いてている。そういう社会になってほしいですね。


「もっと、こっちを見ろ」「理解しろ」

あえて聞いてみたかった質問があるんですが。

はい。

遠藤さんは「この生きづらい世の中で、勇気と気づきがまだ見ぬ明日を切り開く」ということを自分のVisionとして折に触れて書かれています。

一方、遠藤さんはいわゆる有名大学を出られて、業界でもナンバーワン企業に勤められた経歴でもあります。

そのある意味「輝かしい」ご経歴の中で、「生きづらさ」を自身のミッションの中核に据えているのを不思議に感じているんです。そのきっかけはどこにあったんでしょうか?

(少し考えこんで)なんとなくですけど、小学生の頃から周りと合っている感じがしなかったんですよ。

例えば、体育が苦手だったので、ドッチボールが嫌いだった。球に当たりたくないから、陣地の端っこの方にいた。

つまり、あまり目立たないタイプの子供だったということですか?

いや、ちょっと違って。

例えば、小学校の頃、僕はテレビに触発されて、将来アナウンサーになりたかったんです。それで、放送委員会に所属していて。それで、運動会で全学年でチームを組んで行うリレー大会という目玉企画があって、その実況中継を全校生徒の前でやったこともあります。そのあとも、学級委員とか、クラブ活動のリーダーをやっていきました。

お伺いしていると色々と活躍されていて、あまり「生きづらさ」を感じるような印象は受けないんですが。

でも、例えば、高校の体育祭の団長みたいな、みんなの中心にいて感情を盛り上げるようなリーダーではなかった。責任を果たしていくようなポジションをとることが多かったです。機能的リーダーシップと私は呼んでいるんですけど。

どういうところで生きづらさを感じていたんですか?

自分のやりたいことが、周囲とは異なる。そういうズレは感じていました。

例えば、その時ゲームが流行っていたんですけど、やっているタイトルが違ったんです。みんなが好きな『大乱闘スマッシュブラザーズ』を一緒にやっても、私はやりこんでいないから勝てなかった。『ファイナルファンタジー』や『ドラクエ』をみんな遊んでいたけれども、私は『電車でGO!』が好きだった。

電車が好きだった?

それもあります。鉄っ気はありました。そこで話が合わないときも、やっぱりズレ感を感じていた。

ただ、リレー大会のアナウンサーや学級委員のような自分なりのある種の目立ち方みたいなところで、自己肯定感・自己効力感を持つことが出来たから、そんなに気持ちが落ちることもなかった。

仮に遠藤さんが機能的リーダーシップのようなある種の目立ち方を覚えていなかったとしたら、どうなったいたんでしょうね。

うちの親は、「こいつはいついじめられるのか」と心配していたみたいです。

なるほど……。

遠藤さん自身の生きづらさの経験が、障害者雇用のお仕事の目線にもつながってきている気がします。

生きづらさを仕事につなげている人は珍しいんですかね?

……伺っていて思いだしたんですけど、高校生の頃、私も結構そうした生きづらさって感じていたと思うんです。どうしても友達とうまくいかなかったり、いずれ死んでしまうことに悩んだり。

でも、社会人になって子供も出来て、その日々の生活に押し流されてその生きづらさを忘れてしまっている気がします。

……本当は、なんかあるよね、みんな、って思います。

もちろん、障害当事者のみなさんが抱えてきた生きづらさと比べれば、私が感じていたものはちっぽけだとは思います。生きづらさは比べるものでもないんでしょうが。

先ほど、「怒っている」という発言もされていましたが、遠藤さんの様々な活動の根底に怒りがあるんでしょうか?

ある時、自分がこれまでやってきた色々な活動を振り返って思ったのは「マイノリティによるマジョリティへの逆襲」って言葉だったんですよね。

障害者雇用でいえば、障害当事者と働くことでたじろぐのは、障害者自身ではなく健常者です。変わるべきは何も気づいていない側である。

だから、障害者はかわいそうな人たちではなく、あなたたちの持つ特性を世に知らしめていくことが、より良い世の中を作っていく。障害者はそういう力をもつチェンジメーカーだと思っています。

「たじろげ」、はひとつのキーワードなんですね。

もっと言えば、「もっと、こっちを見ろ」「理解しろ」ってことですね。これは、教員時代に、いわゆるビジネス界に対して憤りを感じていることでもありました。

どんな憤りですか?

よく教職員に対して「社会を知らない世間知らず」という印象論を語られることがあります。

でも、実際教員をして強く感じたのは、学校現場で日々の仕事に取り組む先生たちの専門性の高さです。先生は教科指導だけではなく、生徒たちに向き合う対人支援の専門家でもある。自分の社会人経験だけでは、現場の仕事に太刀打ちできなかった。でも、その専門性は正当に知られておらず、「世間知らず」と思われている。

「教員」も不適切なラベリングが張られているという意味では「障害者」と同じだったんですね。

遠藤さんは、そういったものといつも戦っているようにも聞こえます。

そうだと思いますし、ある種のマイノリティが社会に正しく認知されて、認められるための闘いをしているのかもしれない。

教員も、障害者雇用も、怒りの源泉は同じように見えます。

ほおっておけない領域がいくつかある、という感じなのかもしれませんね。

こういう世界であってほしい。でも、現状そこに至っていないことに対して、どうにかせにゃあかん。

そういう感覚があるんでしょうね。ある種、生きづらさを感じてきた自分の「救われたい願望」を投影しているのかもしれません。



編集後記

記事の中にも書きましたが、私個人は障害者雇用を自分の関わる仕事と少し遠いものに感じていました。日々の仕事で求められるのは、年初計画で立てた売上やPJのスケジュールであり、目の前の仕事をこなすこと。すぐ周りに障害当事者の方がいなかったこともあり、障害者雇用はあまり考えたことがない、自分の仕事との関連性が見えていないテーマでした。そんな自分にとって「障害者雇用はビジネスに役立たねばならない」という遠藤さんの問題意識は、お話を伺った当初は完全には腑に落ちていませんでした。

そんな自分にとって、「みんな仕事がしたい」という遠藤さんの言葉にハッとさせられました。自分自身は、自分の仕事がビジネスに役立っていると思いたい。自分の仕事に意味があると思いたい。それとまったく同じ。そして、それが障害者の方は感じにくい環境にある。同じように働いているのに。

遠藤さんがこうした問題意識を持てる背景には、ご自身の過去の延長線に障害当事者の方々を感じていることがあるのだと思います。障害当事者の方に共感をしているからこそ、彼ら/彼女らを取り巻く環境に対する怒りが生まれる。しかも、「仕事だから」という理由で意味を見出しているのではなく、ごく自然にその共感を持っている。

こういう思いを持っている人が取り組んでいったら、きっと物事は良い方向に進むんだろうな。そんな風に感じました。

ただ、その共感の背後にある「生きづらさ」は、本当はかなりの人が感じたことがあるはずです。今回遠藤さんの過去のお話を聞きながら、自分自身の子供の頃の生きづらさを思い出していました。確かに、それは私にもあった。でも、忘れている。今回のインタビューがなければ、思い出すこともなかったかもしれません。

その意味では、自分の過去を振り返り、自分の生きづらさ、あるいは悲しみや憤りを思い出すことは、社会を前に進めるための大切な起点になるのかもしれません。

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