「勇気と気づき」のために、「その人」に向き合う

6月1日を超えた。経団連が出す「採用選考に関する指針」に照らせば、各企業は6月1日以前の採用選考を厳に慎むということに配慮しながら自己責任のもとに採用活動を行ってきた。んで、多くの企業が6月1日以降に面接を始め、そうした企業の一部が「みんなが行きたがる企業」なので、就活もそこで一気に動きが出た。採用担当の私も、当然ざわついた。

こういう時期になると、私はどうしても、センチメンタルになって、文筆をしたくなって、んで書いちゃう。勝手に熱く・長く、書いちゃう。そんなことするヒマがあれば働け、って自分でも思うけれど、書いちゃう。それはどうしてもこの時期になると、自分の働くスタンスを考えてしまうからだ。ただ幸いなことに、下記に書こうとしている文章のキーワードである「勇気と気づき」というのは、30歳を目の前にして、「ようやく出会えた!」と思える、自分の生きるスタンスを示す言葉だったりするのだ。

というわけで、先日、会社の人事部内で自分がプレゼンした話を基に、あくまでも個人の見解ではあるが、私と会社との関係性やら、自分のスタンスやらを書いていく。


忙しくても、泥臭くても、「その人」と向き合う

1月に、新卒採用チームに異動した。そこからもう半年経つのだが、思った以上に自分がポンコツだと気づいた。ただ、それは自分がポンコツであることもさることながら、とにかく忙しいからポンコツに見えるのかもしれない、という風に言いたい部分もある。いやたしかに、自分は発達が相当でこぼこで、レーダーチャートにするとあまりにも形がいびつすぎる。他人が「最低限」でできることの下をいく要素がいくつかあり、それは過去の上司達からもずっと言われ続けてきていて、もはや自分への失望を通り越している。しかしそれでも、この2018年の上半期は、ここまで忙しいか、というほどに忙しかった。

まず、ここのところほとんど席にいない。1日8時間の労働のうち、ほとんどが「誰かと話す」予定で埋まっている日が多い。「誰かと話す」には、会議も含まれるのだが、それ以上にこの時期の自分の予定を埋めているのは、面接と面談である。面接は一定、ありがたいことにアシスタントさんに予定を組んで頂いているので「埋められる」のだが、空き時間があろうものなら学生さんとの面談を自分から突っ込んでいく。それでも空き時間ができたら、今度は学生さんに電話連絡を試みる。でも別にやらされている気にはならないし、というかむしろ、少しでも空き時間があろうものなら学生さんへの対応をしたい。そうこうしているうちに、ピュアな作業時間は削られていく。

自分が主に担当するのは3次面接であり、それは最終面接の一歩手前である。そこまでに既に2人の面接官の判断を通ってきているが、だからといって聞くことは山ほどある。1時間で足りるとは思えない。前の面接官の申し送りを参照しながら、そこで聞いたこと以外にもできるだけたくさん聞いて、聞いたことはすべてお気に入りの万年筆とニーモシネのノートに手書きで記載していく。うんうんうなりながら、その人の過去の原体験と、未来の在りたい姿と、そこを結ぶ線の上にある、現在から見た一歩先の選択を、とにかく聞いていく。その結果はすべて後からPCでテキスト化し、詳らかにしたうえで合否判断をして、次の面接官に申送る。当然、記録は長くなるし時間がとられる。最初からPCでメモれよ、と思うだろうが、そこは私のこだわりで手書きなので、自ら選んで時間をかけている。

場合によっては最終面接に同席をする。自分が3次面接をしたか、あるいは最終同席をした学生さんに、内々定をお出しするとなった場合は、だいたい自分が内々定通知書をお渡しする。そこまでに収集した情報を基に、内々定をお出しした後は、「さて、どこに入社する?」というコミュニケーションを始める。巷に言う「オワハラ」にならないように気をつけながら、できるだけ自社を魅力に感じてもらえるように、現場社員にご協力を賜って面談を設定したり、ランチに行ってもらったり、あるいはそれを自分がやったり。最近は、自分が楽しくなっちゃって、勝手に「メルマガ」というのを不定期で送るようになった。そうして、内々定を承諾し、来春から仲間になることを決めてくれれば、感慨もひとしおだ。

ところが、そうは問屋が卸さない。就活生は、企業から送られてくる実質不採用メールである「貴殿の就職活動が良きものとなりますようお祈り申し上げます」という文面を怖がっている。ただまさか、「お祈り」するのは企業側だけかと思ったらそうではなかった。選考辞退、内々定辞退。これをメールで告げられることも増えてきて、その末尾には「貴社ますますのご発展をお祈り申し上げます」と書かれている。我々も祈られる。それは実質、我々企業側が、就活生のみなさんから「落とされた」ということになる。「まだ可能性があるかも知れない!」と思ってすかさず電話をするも、基本的に意志は揺るがない。その瞬間、自分の未練たらしさと、「まだやれることがあっただろうに」というのが出てきて、脳内では金爆の「女々しくて」が流れる。辛いよ。

そりゃぁたしかに会社説明会でプレゼンするのは楽しい。面接や面談で学生さんと話すのは楽しい。でもそうした矢面に立つ場面における「キラキラ」だけが、人事採用担当じゃない。思いの外泥臭い。もはや採用活動は、営業やマーケティングと同じだ。いや、下手すれば新卒採用に関しては、営業やマーケティングよりも、不確実性が高くて理詰めだけではどうにもならない。たぶんどちらかというと恋愛に近いプロセスかも知れない。しまった、俺の不得意領域じゃないか。仲間の中には、「人間不信にさえ陥る」という言葉を使う人もいる。たぶんほぼ同じことを就活生のみなさんも感じていると思うのだが、どっちにしたって大変だ。

それでも私は(そしてこのプレゼンをしたら仲間もみんな同意してくれたので「私たち」と言って過言ではないだろう)、「その人」と向き合う、ということをやめるつもりはない。


その人の意志決定に、「勇気と気づき」を与える存在へ

運良くデータ分析の仕事からキャリアをスタートした私だが、実際1.5年しかその仕事をしていないから何を語れるんだ、というのはあるのは分かっている。もっとも、当時も今と変わらずポンコツだったので、早いこと出された、という見方も出来るかも知れない。ただやっぱりマーケティングのデータ分析からキャリアをスタートしたことは自分にとってラッキーだったし、そこへ来て自分のメタ認知能力の高さがあってか、スムーズに人事の仕事に移行できた気もする。まぁもちろん、教育畑で大学生活を送ってきたことも要因の一つではあるが、不思議と自分の中で、データ分析と人事の仕事は似ているものだと思えていた。それこそ、面接や面談は、私にとってはデータ分析である。

そもそもマーケティングのデータ分析は、マーケティング課題の解決のため、言い換えればマーケティング施策の意志決定のために用いられる。別にデータなんて無くたって、エイヤッでマーケティング施策は打てる。高度経済成長期の日本における「作れば売れる」の頃なんて市場調査など要らなかったのではないか。でも今や、データドリブンだのなんだのと言われる。多様性と複雑性の世の中で、確からしい施策を打つためには、確からしいと思えるロジックと、確からしくするための証拠=データが必要になる。マーケ施策の「正解」は、実際に売れたかどうかの成果が出ないと見えないわけで、その前の段階では「納得解」で進むしかない。不確実な状態では人間は不安なわけで、マーケターは常に不安にさらされているだろう。そのなかで意志決定をして前に進むには、「この施策は進めても大丈夫」とか「この施策はここを気をつけろ」とか、そういうのが必要な訳だ。弊社は、それを「データ&インサイト」として提供している。

弊社の社長が今のアメリカ人社長になってからだろうか、ビジョンに関連する文言のなかに、二つの動詞が頻繁に使われるようになった。そして私は、それに心底惚れ込んだ。それが “empower & inspire” であった。それこそ新卒研修においてはプレゼンテーション研修のテーマに設定したこともあった。ポイントはこれをどう日本語訳するか、という話だが、 empowerは「力を与える」という意味で、 inspireは「ひらめきを与える」という意味で、それを考えていくにつけ、「勇気と気づき」というのがしっくりくるなぁと思うようになった。「この施策は進めても大丈夫」「この施策はここに気をつけろ」というのはまさしく、勇気と気づきを与えている。

やっぱりそれって、人事の仕事と一緒だな、と思う。「働く人」に関わる人事の仕事のなかでも、私は育成と採用を務めてきた。育成の仕事においては、働く人がそれぞれの働く場所においてイキイキと仕事をし、それを通じて本人と会社が成長することをサポートしてきた。採用の仕事においては、当然自社の成長に資する人を集めて仲間になってもらうことを主目的とするわけだが、そのためには自社で働くことに対して意味を見いだしてもらうような関わりをしてきた。どちらにせよ大切にしてきたことは、本人の意志、自己決定だ。自分の意志で、ここに居たい、ここで働きたい、ここで成長したい、と思う。それこそがもっともパワーを発揮する原動力になるはずだと信じて止まない。そうした「自己決定」を支援するのが人事の仕事なのであれば、人事のすべきこととは、「勇気と気づき」を与えることに他ならない。

私が大好きな、元進研ゼミの小論文の編集長だった山田ズーニーさんの「考えるシート」に乗っているキャリアの図を、平易な言葉に落とし込むと、結局キャリアというのは、「過去の自分はどんな人間で」「将来の自分はどうなりたくて」「関わる社会はどうなっていて」という3つの要素の交点にある自分自身をあぶり出し、そのうえで「だから自分はこれをする」というのを決めて行くことなんだと思う。この「過去の自分」「将来の自分」「関わる社会」を、ヒアリングなどによって収集し、人物特性の読取りや振る舞いの予測を行った上で、面接であれば合否判断を、面談であれば本人の意志決定に資するフィードバックを、それぞれ行うわけだ。これはまさしく、データ分析と同じであり、その分析結果としての合否やフィードバックは、まさしくその本人が「自分で決める」ための「勇気と気づき」になる(不合格も、本人の不幸せを防ぐためが故のものだ)。

なぜここまで、人事として「勇気と気づき」、そして「自己決定」にこだわるのか。それは特に弊社が、データ分析を通じて、クライアントのマーケティング施策の意志決定を支援しているからに他ならない。誰かの意志決定を支える人が、自分の意志決定ができないわけにはいかないだろう。データという、客観的な事実をもってしても、誰かの意志決定に一枚噛んでいくということはそれ相応の覚悟が必要なんじゃないかと思う。もっとも、マーケティング施策は、それが一つでかなりの金額が動き、人が動き、モノが動き、世の中が動く。それだけの大事を支える仕事する人だからこそ、「決める」ということの大変さを知っている人であってほしい。いや、それ以上に、自分で決めて何かをしていくことが楽しいしおもしろいということを知っている人であってほしい。それは別に弊社に限った話でなく、付加価値を生み出す仕事に従事する人すべてに感じて欲しいと思うことだ。

だから私は、「その人」と向き合う、ということをやめるつもりはない。


たぶん今までの人生も「勇気と気づき」がキーワードだった

青春基地に関わるようになって、「動かして学ぶ」というProject Based Learning を知り、たぶんその「動かして学ぶ」はかつての自分がやってきたことだと気づいた。前に動かしていく上で、いつも気持ちが滅入ることがあったが、それでも一歩前に進めてきたのはまさしく勇気だった。福島の子どもたちへのキャンプに関わって、子ども向けのワークショップに毒されてしまったのだが、なにがおもしろいかというと、子どもたちが発見する「気づき」が、自分の予想右斜め上であることが多かったからだ。なにより自分が、いろんなものごとから、「ああそういうことね」という気づきを得ることが大好きだった。

なんとも後付けなのかも知れないが、こう考えてくると、リサーチ会社で人事をやっているというのは、とてもハマりがいいことに気づく。ありがたいことに、ちょうどもうすぐ30歳になるというこのタイミングで、自分がなにをつくり出したいのかが分かってとても良かったと思う。これからも、自分自身と向き合うことは続けていかなければいけないが、それと同じくらいに、私は「その人」と向き合う、ということを続けていきたいと思えている。

この生きづらい世の中で、「勇気と気づき」が、明日を切り拓く。

そんなふうに思える人を一人でも増やしていければ、いいんじゃないかな、というのが、今の生きるスタンスである。なんてね。

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