「暖かさ」をつくりだす存在になりたくて

ふと、文筆をしたくなった。テーマはなんでもよかったので他人から募集した。そしたら思った以上にいろんなお題をいただいた。それで、一本すでに書いたのだが、他に「暖かさ」とか「心地よさ」とか「なぜ日本の若者たちは、見えない将来の漠然とした不安を覚え、目の前のことに注視できずに日々を憂鬱に過ごすのか」とか「文科省が提案する教員の変形労働時間制について」とかのお題をいただき、その辺をぐるぐるさせた結果、ちょっとした弱音の文章ができあがった。

なお、前述のお題にもどストライクでは応えていないし、他に「エモい、とは?」とか「偶然と運命の違い」とか「今いる地域の実情」とか「先週ほっこりしたこと」とかのお題も残っているが、それはまた追って。


寒がりな僕は、夏でも職場では長袖で過ごす。去年の夏はまだ人事で、エアコンが寒いので長袖にしていた。今年の夏は教員になっていて、前職に比べれば「寒い」と思うことは減ったが、それでも長袖を着続けた。

好きなカフェを飯塚でも見つけて、足繁く通っているが、この夏はアイスコーヒーを注文することが多かったものの、実家暮らしの当時は、古河の行きつけのカフェに来て、夏でもホットのフレーバーカフェラテを注文していた。今、この文章を飯塚のカフェに来て書いていて、脇にはホットのカフェラテを置いている。めっきり、夜は寒くなってきた。

寒いと体がこわばる。血行が悪くなってくるのだろう、肩のコリもひどくなりやすい。2週間ほど前、少しずつ朝夕の寒暖差がついてきたからだろうか、それとも心身の緊張が故だろうか、それとも給食のカレーを食べ過ぎたからだろか、ひどい肩こりが頭痛に発展し、のたうちまわるほどの痛みに苛まれた。死ぬかと思ったが、寝て起きたら治っていた。

寒い季節に差し掛かると、自分の心も寒くなってくるらしい。思い返せばここ数年、暖かい季節よりも寒い季節の方が、思考を廻らせては自分で勝手に気分を落とすことが多かったように思える。今年もそうなるだろうな。

つい先週、メンタルブレイクしかけた。

授業の終わり、思わず泣きそうになってしまった。「ああもうごめんけど限界だよ」と、声を荒げていた自分がそこにいた。「このクラスで次に授業をすることが、怖い」という感情が、自分を支配していた。

世の常だとは思うが、生きていて、すべての人と合うことなんてあり得ない。どうしたって「合わない」人はいる。こちらが仲良くなりたいと思っていても、向こうが「嫌い」だと思えば、そりゃ合いっこない。「合わないならは離れればいい」というわけにはなかなかいかないのが学校というところで、相手が自分を嫌っていることがわかっていても、対峙する必要があるし、僕は対峙したいと思う。

ただそれが「反応しない」ならばまだいい。露骨に鋭い言葉で現れる(ように感じられる)。「ウザい」「キモい」「英語きらいだし」そうした、反抗とも、拒絶とも、揚げ足取りとも思える言葉たちの存在は覚悟してきたし、そうした反応と向き合うことを望んで、あえて学校種を中学校にした節もある。それにしては、その時は許容量を超えてしまった。怒りはなかったが、悲しさと恐怖が自分を支配していると気づくまでに時間はかからなかった。

しかし一方で、僕はその「露骨に鋭い言葉」を、その発信者が悪いのだとは思えないし、思いたくない。どこかで自分が、何かのボタンのかけ違いをしてしまったのが原因だと思う。その発信者を取り巻く状況が、その言葉を言わしめているだろうし、その一端に自分がいることは明白だ。教師と生徒という関係性以前に、おなじ人間として向き合って対話ができたら、と思う一方で、その気持ちは通らない可能性の方が高いから、ビビってしまっている自分もいる。

そんな話を同僚にしたら、やさしい声でこう語ってくれた。

私たちはプロとして、生徒と対等な関係を築くだけではなく、言うべきことを言ったり、話を聞いたりしながら、子どもたちの成長に必要なことをしていくのが仕事です。私も、腹が立ったり悲しいと思ったりしながら日々を過ごしているし、悩みは尽きません。私も先生も、気になることを注意しちゃうタイプだと思うんですが、あの子たちには怒ることよりも、褒めることをしていったほうがいいな、って思っているんです。

金曜日の放課後の職員室、その先生からの優しさに泣きそうになったのだが、思えばその先生は、教室で子どもと向き合っている時の笑顔が印象的な人だ。成長を褒め、面白いと思ったことには吹くほどに笑う。そりゃ、メリハリをつけて厳しく言うこともあるが、僕の目には、明るさを感じることのほうが多い。

メンブレ寸前の授業から一夜明け、憂鬱な気持ちを抱えながら臨んだ授業は、ALTの先生に主導してもらい、また同じ教科の他学年の先生にも入ってもらったのだが、授業は驚くほどスムーズに進んだ。対比すれば、前の日は私の説明が多く、また教員も私だけ。そこで気づいた。「ああ、やっぱり俺が原因か」と。

余裕や余白がなかったのかもしれない。だから躍起になった部分もあり、授業の進行も強引だったような気がする。分からない、が増幅してもおかしくはない。つまらないと感じられても無理もない。そのくせ、自分にもブレが出ている。結果的に顔つきは厳しく・暗くなる。それじゃ、行く道を明るく照らせない。こちらが光を発せなければ、熱を感じることもできないし、本人たちが動いてなければ、熱を持つこともできない。

「あたたかさ」という言葉を漢字にする時、僕は「温かい」ではなく「暖かい」を使うことが多く、よく人から間違いだと指摘を受ける。けれど、太陽に照らされて温度を感じる「暖かい」のほうが、僕は好きだったりする。いろんなことが折り重なってか、多分僕自身が「暖かさ」を生み出すことができていなかったのかもしれない。

夏にイベントをご一緒したとある小学校の先生が、「常に自分をニュートラルでいさせる」ということを話していた。たぶんそれが「感情のコントロール」という面での教師のプロ性なんだろう。学年主任が言っていたことにも通じる。はたまた、TFJの先輩フェローが「泥水と黄金水」の話をしていたことを思い出す。なるほど、どんな状況においても黄金水を注ぎ続けられるかが、教師のプロ性なんだろう。

やっぱり、寒いのはしんどい。冷えるし、こわばるし、悲しい気分になる。こちらが怒ったり悲しんだりしたままでは、相手もしんどいと思うだろう。

陽の光によって感じる「暖かさ」のほうが、心地いいし、ほぐれるし、うれしい気分になれる。だから前を向ける。

2学期が始まる時、件のクラスで「英語の授業を受ける時の約束」をみんなで決めた。そのなかに、「ずっと笑顔」というワードがあった。私がそれを見失っていたようだ。正直、怖さを完全に断ち切れていない状態だから、まだ不安定な状態は続く気はしている。けれど、自分が光源になれるような、心の余裕を持てるようにしておきたい。

みなさん、とりあえずこの仕事は、やっぱり「すごい仕事」だと思います。


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