実家に来ている。
明日、都内で用事があるので、月火の有休を取った。土曜に、生徒会の役員たちと、他校の生徒たちと交流するオンラインイベントに参加し、それを終えて北九州空港から羽田に飛んできた。スターフライヤーはPax Japonica Grooveの搭乗ミュージックを聴くために乗るようなものである。そんな時間を過ごして辿り着いた、我が地元である茨城県古河市、その駅から徒歩5分にある我が実家は、えらく寒かった。
実家のある古河には、長いこと足繁く通っているカフェがある。Ocha-Novaという名前のそのカフェは、私のインスタグラムをご覧の方には「かわいいラテアートのカフェ」として認識いただいていることと思う。実家に来たら必ずと言っていいほど寄りたいと思う店でありながら、訪問はじつに夏ぶりになった。10月・11月と、数回にわたって古河に来ているのだが、だいたい日→月と宿泊して、月夜便で福岡に戻る行程だったので、月曜定休のこの店には足を運ぶことができなかった。
このカフェで、たくさんの記事が生まれてきた。久々に訪れた、大好きな空間で、かわいいラテアートが施されたフレーバーカフェラテと、甘いフレンチトーストを口に運びながら、ここのところできていなかった、モヤモヤと考えていることをただつらつらと文章に書き起こすことをしてみようと思う。
今日、Ocha-Novaに来た一つの理由は、オンライン会議をするためだ。今年度、副担任として担当をしている44人の生徒と同じ数の社会人を集めて、社会人2対中学生1の組み合わせで、進路・キャリアにまつわる対話を通年で5回行うという企画を進めていて、その第4回のセッションがもうすぐ行われるので、社会人側にとっての事前の学びの機会を設定した。その事前セッションを行うのに、どうにも実家のこたつの中からでは、接続も安定しないし上半身が寒い。なので、行きつけのカフェを訪れて、そこから社会人たちの学びの深まりの様子を見ることにしたのだ。
社会人たちは口々に言う。「生徒たちから話を引き出すのが難しい」「生徒たちにとって進路のことを考えるのはやはり大変なことだ」うんうん、と同意しながら、そのなかでも生徒たちとの限られた対話の機会の中から、彼らの意志や特性を見出してくださり、彼らのためを思っていろいろと考えを巡らせてくださっていることは、本当に豊かであったかいことであるように思う。今回は初めて、「社会人2」のペアの組み合わせをあえてバラして、担当チームの枠を超えたコミュニケーションを図ってもらった。そこで生まれる、社会人側にとっての学びや気づきの深まり自体が、とても尊いもののように思える。
人が、一歩を踏み出そうとする。人が、何かの気づきを得ている。その瞬間に立ち会うことで、自分自身の気づきが膨らむ。自分が、今の生き方において楽しみを見出すのは、そうした瞬間であることは間違いない。そのことは、ずっと前から気づいていたし、ずっとこれからもそうなんだと思う。
しかしこの一年、自分は、これからの自分の生きる様に対して、ほんのちょっとした、軽い、絶望に似た、「なんだかよくわかりません」をずっと抱えてきている。見栄と矜持、といえばかっこよく響くのかもしれないが、ある種、自分では「恥ずべき」と捉えているような感情に苛まれ、葛藤というか、逃避というか、次なる一歩をどう踏み出すかを考える理由が、そんな出発点だったりしている。
今の環境に身を置き続けたとしても、その状況において「したいこと」を見つけて、自分なりに動いていくことはできると信じている。この記事にも登場した、同僚の教員には「先生は、したいことをしているじゃないですか」と言われた。確かにそうだと思う。今だって、「今年度中に、市内の生徒会役員向けのリーダーシップ開発プログラムを実施したい」とか言っているし、今年度はGEG Chikuho の立ち上げも行った。担任ではないし部活動顧問ではないが、それにしても生徒会執行部の顧問教師と、情報教育担当とを、一人で2つ掛け持ち、どちらも「ひとり」主担当として動くというのは、自分でもよくやっているなと思う。この場に居続けることで、ある程度確約されているシナリオ。しかしそれをしても、「ここじゃないどこか」「これじゃないなにか」に対して思いが巡ってしまう。この「もや」から、かれこれ1年間、脱せていない。
今年も、懲りずに「国家公務員経験者採用試験(係長級事務)」を受験した。
昨年は57人合格の中で席次8番という成績だったが、今年は62人合格の中で席次34番と、成績を落とした。1次・2次とある試験において、1次試験では択一式の教養試験問題が出題されるのだが、その成績も昨年に比べて5問、正解数を減らしてしまった。対策にかけた時間と熱意の減衰を思えば、ある意味当然の結果である。それにしても2年連続で受かったというのは、少しは自慢してもバチは当たらないだろうと思う。
それで今年も、この記事に書いた内容のリベンジを果たそうとしたのだが、結果は今年も振るわなかった。一番なりたいものになれない現実は、1年経っても同じものだった。今年は、昨年お世話になった担当者の方に結果通知をしてもらったのだが、不思議と去年ほどのショックを受けずに終えることができた気がしている。なんというか、「ダメもと」という感覚が自分の中にあった。いちおうの全力はぶつけたつもりだが、しかし心の中にある種の「邪念」がある状態でもあったわけで、それ相応の結果になったということもできる。ちなみに今、実家に帰ってきているのは、今回は他省庁の訪問もしているからで、対面訪問のみを受け付ける省庁に出向くからである。
なぜ今年も挑戦したのか、と問われたら、その一つの理由に、生徒の存在を挙げている。昨年度の受験においては、最終結果が出るまでは、勤務校の管理職にしかその情報を伝えていなかった。それで「落ちた」ことがわかった翌日、たまらなくなってその顛末をすべて授業の際に生徒たちに話した。その授業の自己評価カードにある生徒から「先生がいなくなるのは寂しい。でも、夢を諦めないで」と書いてあった。その一言が、今年1年、彼ら生徒と共に過ごすことを、そして生徒たちをして、その進路決定において「なんとなく」と言わせない、という目標を立てることを決意させた。そして、自分が挑戦を止めずに、再度「試験」にチャレンジする姿を通じて、受験生たちを鼓舞したいということがあり、またチャレンジすることを決めたのだった。
しかし、前述のことは、正直建前である。本音のところで言えば、「もがき」の一つだったことには違いない。国家公務員になりたいのか、国家公務員でなければならないのか。自分なりの今日時点の答えは「しらんがな」である。
あれほど「教員」と言い続けてきた、20歳からの10年間。念願を果たして教壇に立ち、まぁしんどい状況の中で、本務では結果の出ない日々、ごく一部でありながらも生徒と分かり合えないように思えてしまうしんどさに苛まれながら、それでもできることを積み重ねようともがき、青臭く理想を掲げつつ、実働では勝ち筋の見える企画を推し進めてきたこの日々をして、人はきっと「教師・えんしの」は天職ではないか、というかもしれない。自分としても、そう思いたい。そう思うことで、この仕事に対して身命を賭す、としたい。そうでもしない限り、一生の仕事として日々の学校現場に向き合うプロフェッショナルたちに対して失礼にあたるだろう、という思考が、自分の中に存在する。
葛藤の正体がここにある。あれほど「学校と社会をなめらかに」というミッション・スローガンのもとに、学校現場の中にありながら、「社会」と呼ばれる側にあるリソースを学校現場の学びに変換することに自身のあり方を見出そうとしていたにもかかわらず、あるいは、「学校の教員は社会全般を見渡しても非常に魅力的で汎用性の高い仕事だ」という論調を訴えようとしていたにも関わらず、そのキャリアの道程をそのまま歩み続けて専門性を高めていくということに対する踏ん切りを持てていない。なぜなのか、を言葉にしようとすれば、できなくはないのだが、それによって気づいてしまいかねない、自分がこの仕事をどう捉えているのか、という部分について、それを外に出してしまうことの不義理に耐えられないのかもしれない。
ビジネスに戻りたいなぁ。人事をしようかなぁ。ここ1ヶ月くらいで自分の中に芽生えている、次の4月からの「はたらく」のビジョンについていえば、それは自分の保守性、あるいは逃げ、みたいなところをはらんでいるように思えてならない。それに耐えられない、と思いながらも、それが正直な自分自身の心のうちであることも確かだ。悔しいが開き直るしかないのかもしれない。だってこの1年間、結果的には「教師として身命を賭す」ことへの腹決めをしきれなかったのだから。
どういう方向に転がるにせよ、私は来春に実家に戻ることにしている。いや、これを書いている段階での意思決定の話であり、ひっくり返る可能性はゼロではない。しかしこれは、どちらかというと自分のキャリアに関する考えからくるものではなく、「守るべきもの」の優先順位の話でそう決まっている。
2021年の6月、叔父が倒れた。2016年の7月に昇天した父・昇(奇しくも「昇天」と同じ字だな)の弟に当たる叔父は、遠藤家の長男である私・次男・長女の3人兄弟が全員実家を出たあと、昼に仕事に出ている私の母に代わって実家を訪れ、加齢黄斑変性症によってほぼ失明状態の祖母の世話をしていた。しかしその叔父が、心筋梗塞により倒れ、その後植物状態になっている。有事の際の種々の対応には慣れているので、倒れてすぐの対応であるとか、救急病院から療養病院への転院であるとか、そうした節目の対応を私が取ることはできたが、それでも日々は福岡で過ぎていく。その状況で、身動きが取れることはどうしても限られてくる。適切な支援を受けなければ、いろいろと回っていかないと判断し、本来であればもっと前から取得できるレベルであったのだが「ようやく」というところで祖母の視覚障害者手帳の申請をしたり、介護保険認定を受けたり、という対処はした。しかし、それでも気掛かりは気掛かりである。加えて言えば、叔父は独り身なので対応する「家族」は私の家となるわけで、そうなると「嫁」である母の負担は増すばかりだ。
決して、飯塚の街が、筑豊のエリアが、福岡という県が、九州という土地が、嫌いになったわけじゃない。嫌になるわけがない。
好きなカフェもできた。スパイスコーヒーを出すお店では、あまりスパイスコーヒーを飲まなかったが、その代わり「極浅煎り」のコーヒーに出会うことができた。峠道の展望台のお店では、毎回同じパスタを注文するので、顔でメニューを言われるまでになった。アフリカ産の浅煎りのコーヒーが好きな私にとって嬉しい選択ができるロースターも見つけた。少し足を伸ばせば、福岡市内にはモーニングをわざわざ食べに行きたいと思うパンケーキの店も見つけた。
今や、実家に来ても、心を許すコミュニケーションにおいて、口をついて出てくるのは筑豊弁である。だけん、家族と会話しよっても、東北訛りに近いことばやイントネーションは出てこんもん。今朝も「布団をしまう」ではなく「布団をなおす」っち言いよったばい。「どうした?」っちいわれよっても、こっちの方がもう自然になりようもん、仕方ないっちゃろうが。
それでも、飯塚を「ついのすみか」とする腹の括りは、自分にはできなかった。いろんな要素がそこに絡んでいるのだが、「守りたいものを守る」ということが、自分の意思決定の軸に現れたことは、10年前の自分からすれば驚くべきことである。だが、残念ながら来年4月から、何をして生きていくかについては、今日時点では、まだなにも決まっていない。
昨日乗ったスターフライヤーの機内の中で、自分の2列うしろの席に座っていた赤ん坊が、最終着陸態勢前から気流の関係でベルトサインがついたあたりから、ずっとギャン泣きを続けていた。私はそもそも、遮音性の高いイヤホンをつけていたこともあり気づかなかったし、仮に音楽を聴いていなかったとしても、赤ちゃんが泣いていることに腹を立てたり気分を害したりはしない。むしろ、気圧の変化などの要素がある中で、その赤ちゃんは相当頑張っていたと思うわけだ。しかし、長いこと大声でなく赤ちゃんを「どうにかしなきゃ」と思っていたであろう母親の「気が気じゃない」心中を察すると、とても居た堪れない気分になってきた。
着陸し、ゲートに到着して、ベルトサインが消灯し、前方列の乗客が立ち上がったのと同時に後ろを振り返ると、泣いていたのは赤ちゃんだけでなく母親もだった。溢れ出る母親の涙の横で、ぜったいにその母親の関係者ではないであろう別の乗客が、その母親に優しい言葉をかけているような様子が見られた。しかも1人ではなかった。ある女性はずっと母親に話しかけ、また別の女性はCAが赤ちゃん用に持参した絵本を母親の代わりに預かっていた。前の列の窓側席にいた男性のサラリーマンは、自分が出るよりも先にその母親を下ろそうと笑顔で手のひらで「どうぞ」というサインをだしていた。CAさんも着陸態勢のなか、泣き止まない赤ちゃんへの対応の一つとして、ストローをつけたリンゴジュースを母親に差し出すなどの対応をしていた。思った以上に、周囲はあたたかであった。察するに、母親の目の涙には、その優しさからくる「解放」も含まれていた気がしている。
羽田からの京急の中で、そのことを振り返りながら、「どうか、この国の、子どもが育つことに関わる人々が、周囲を気にしての『申し訳ない』を言わないで済むように」と思い、それと同時に、存外世の中が、そうした優しさで溢れている様子を目の当たりにして、自分のこの先の生きる様なんてものが、どうでもよくなってきてしまった。今、この瞬間に、暖かさに包まれていさえすれば、あと先のことなんてどうでもいい。考えたってどうにかなるものでもない。そう思ってしまっている。
カフェラテのラテアートがかわいかった。フレンチトーストがやわらかくてうまかった。足繁く通ったOcha-Novaでは、マスターは以前から変わらずとも、働いている人は少し様変わりした。私は、店員と世間話を楽しむ様な、カウンター席の住人ではなかったので、人が空いてきてから、いつも座っていた作業机みたいな席に移動して、こうして文筆を続けた。久々にこんな時間を過ごしてみて、実は欲しているのは、こんな居場所なのかもしれない、とすら思っている。
気づけば、社会人になってもうすぐ10年目を迎えようとしている。ちょっと走り続けてきた感があるのか、モラトリアムを過ごしたいという気すら起きてきている。
甘ったるいものを欲しているのは、甘えていたいからなのかもしれない。
あと、アイキャッチ画像、もっといい撮り方があっただろうに・・・