日頃お世話になっている皆様、
2016年7月29日 18:31に、私の父・遠藤 昇は、1952年2月12日にこの世に生を受けてからの64年間の生涯を、まさしく文字通り「静かに息を引き取る」形で終えました。
本日告別式を終え、繰り上げ初七日を終えたタイミングでこの記事を公開することとなり、特にFacebookなどで親交のある皆様へのご連絡が結果的に遅くなりましたが、謹んでここにご報告いたします。生前、おそらくは私の小・中学校時代の知人は特にだと思いますが、面識・親交のあったみなさま、本当にお世話になりました。
以降は特に、これを事後的に読んでいるであろう自分自身に宛てた記事です。本当にご気分を害される可能性も高いので、本当によろしければご覧下さい。
今、書き出しは7月31日の夜半、まもなく日付を超え、8月1日の通夜式当日になろうとする時刻、父が好きだった「酒」を霊前に置いていましたが、それを開封して、キャップひとくち分だけ口に含ませ、あとは私がいただく、という、声なき・意識なき相手との、最後の晩酌をしている時です。口に含ませた「白州」は私の好みであり、実はウイスキー党が長らく昔からのものだったということをちゃんと知ったのも、死後のことでした。言われてみれば、そうだったな、くらいなものです。晩年の父は、口を開けば「酒をくれ」という人間。一方の私は、好きだけど呑めないという口の人間で、つまり家系的には元来弱いはずなのに、それでも父を虜にし、あるいは見方を変えればむしばんだ「酒」というものは、輪をかけて恐ろしくも思えます。そんな酒を垂らしたその口は、やや曲がってはいるものの、しっかりと閉じられ、とても安らかな顔つきの一部をつくりだしています。病院での昇天後、体をきれいにしてもらったとはいえ、それでもなお美しい肌つやは、「今にも起き出しそう」という印象を与えるほどであり、なるほど私自身の肌がキレイだともてはやされる所以は結局親譲りのものだったのか、と思わせるほどです。ただ、私の記憶の中の元気だったころの父親からは想像に難いほど、その頬はほっそりとしていて、そうか家系的には元来細身なのだから、体には今後気をつけねば、と思うのです。
タッチの有名なシーン(ちゃんと見たことないですけど)の「なぁ、これ、死んでるんだぜ」というのが、すごくよく分かります。知らせをもらい、病院に行き、声帯から声を発しながら呼吸をしつつも、医師はその呼吸はすなわち長くない証拠だと私を呼び出して告げ、瞬間、覚悟を更に固め、痛めつける延命措置はせず、安らかにさせよう、と、理性で意思決定をしました。理性で、です。今振り返れば、それでも父はその時の昏睡を抜け出せるだろう、と、どこか思っていたのだと思います。悲しみの中声をかけ続ける他の家族に対して、私自身は努めて明るく振る舞いました。いや、努めてと言うよりも、不思議と本当に気を確かに持っていたのです。「こんなところでくたばってんじゃねぇぞ」とか「な、あと一回生き吸おう、せーの」とか「ありがとうなんて今言わせるんじゃねぇよ」とか。よくもそんな声色と言葉が、この悲しみとある種の諦めのある空間の中で出せるな、と、言う人によっては言うかもしれないような、そんな言葉掛けをし続けるもむなしく、しかし最後は、医師の死亡確認の前に家族全員がそろい、本当の息の引き取りを見届けることができたのは、よかったことだと思っています。そこからすぐに種々の手配を始め、28歳という、本人の想定よりも早いタイミングで施主を務めることになった葬儀の準備と種々のあいさつごとを済ませ、いよいよ明日とあさってまでが、いま私の脇にいる父親の生身の体に寄り添える、最後のチャンスです。まぁ、そういいつつ現実は長く過ぎる時間をどう潰すかが大変で、結局はアニメの一気見をしつつ、その父の体の脇で昼寝をする日中でした。
結局、本義的に意識ある形で言葉を交わすことが出来たのは2ヶ月前、何の話題だったかすらあまり覚えていません。強いて言えば、また勢い買ってしまったCanon Power Shot G7Xを見せたときのたわいもない会話くらいでしょうか。その頃、ろくに食事を取れなくなっていた父は、母の判断により入院となりました。7月初旬、一度意識を失いかけ、その夜をつきっきりで過ごした際は結局意識を回復したのですが、鼻に繋がれた管を取ろうとする動きを制止してはそれを怒られ、ろくな会話にはなりませんでした。息を引き取る直前はもはや意識がなかったので、言葉を発するシーンを見た見舞いは3週間前のことでした。てっきり、回復して出てくるもんだと思っていたのでろくに見舞えなかったのですが、果たして悔いているかというとそうでもなく、なるようになったのだ、とも思っている辺りが、自分の薄情さを露呈させています。最後に、形式上の言葉を交わした時、父はおそらく本人の本来の意思のレベルを超えた怒りっぽさを露呈していました。ひとえに、血中アンモニア濃度が高まることによる脳への影響、すなわち肝性脳症でした。肝硬変の有名な合併症です。
その夜に、医師の卵に知識の授受を求め、なるほどもう戻ることはないのか、と思ったところから、ある程度の覚悟は出来ていたのだと思います。が、その予測の範囲を超えて、自分が思った以上に気丈であったことは、とても驚いています。さすがに、気丈ながらも時折泣き崩れる母親、弔問に訪れた近しい関係の人々の「しのぶくんがしっかりしているからね」といった言葉、そしてふっと一人になったときに耳元で聴く音楽に、涙が出てくることがあるのも事実ですが、堰を切るようなそれがまだ来ていないのは、自分が強くなった(否、他人に鈍感になった)のか、それともまだ自分の緊張が途切れない状態なのかは分かりません。ただ、後悔をしても意味はなく、ただ自分達の心を傷つけるだけであり、子に先立たれてしまった祖母と、夫に先立たれてしまった母と、所帯を持ち孫の顔を見せてやれなかった私を含む子ども3人を、いろんな意味で支えていくことを考えると、いかに前を見るかを考えるかが自分の役割だろう、ということも、なんとなく責任感に駆られ、そういう振る舞いができています。そういう人間なんだろうな、自分は、と思いますし、一方でとても不謹慎ながら、どこかせいせいする気分でいられるのも事実で、そこは家族一人を省みることが出来ない自分の「おかしさ」であるとも思います。
前述の通り、父の死因は肝硬変による肝不全と診断されています。そしてその肝硬変の原因は、これは私の憶測ですが、完全に酒です。先ほど「せいせいした」と書いたのですが、直前の2~3ヶ月こそ、そんな気は無かったものの、蒲田のシェアハウス暮らし当時などは、父のことはリスペクトなどできませんでした、その理由は、病後回復に努める気力を見せることなく、ただ酒に逃げていたからです。今でこそ、好きな「酒」と戯れた結果として安らかな昇天とも思えていますが、ただ息子の自分が言うのもなんですが、明らかに父の飲酒は自殺行為でした。それを責める道理も権利も自分には無いということを理解した上で、しかし周囲が言う「64歳は早い」という言葉からすれば、確かにもう少し長く生きることは出来ただろうな、無理矢理にでも飲ませず、無理矢理にでも喰わせればな、と。そういう後悔が出ないように、私は息子として、父の一生を「体積」で捉え、その総量は他人のそれと何ら変わらないものだったはず、と理解するようにしています。
こうなるまでの顛末を語る上で欠かせないのが、2011年夏頃の胃がんの発覚。それからの半年のことは、この記事にも書いた通りですが、かいつまんで言えば、胃の全摘後の集中力散漫による仕事の不出来、それによってたまるストレス解消としての飲酒、その後飲酒をした状態での自動車事故、人をあやめることはなくとも収監され、結局車が使えない状態ながら工場にようやく出勤することになるも倦怠感は増すばかり、ついに寝たきり生活となってから突如意識を失うことが増え、結局はそれが重篤な肺炎だったと発覚しICUへ、しかし驚異的回復を見せ家に戻ることができたものの、リハビリは進まず食も細いままで仕事の復帰のメドは立たず。そんなさなかに、私は就職のためいったん家を出ることになりました。父に対する「何してんだお前は」感は、このときかなり募っていたのは事実です。素直に、回復したことを喜んだわけでもなく、また家で過ごす父の姿を認めることも出来なかったわけです。
ひとえにそれは、自分にとっての、尊敬できる父親像に相反する「みすぼらしい」姿であったことに対する抵抗感だったと思います。やせ細り、歩くことも多くままならない、年齢にしてはあまりに「かわいそうな」姿は、仮にその当時彼女が出来て家に招くことがあったとしてもとても見せられやしない(結局は居ませんでしたが)、と思うほどでした。まったくその兆候はないとしても、仮に自分が結婚するとしたら、その式に父はちゃんといれるのだろうか、なんて、根拠のない妄想をしても、そこに父を据える姿も想像しえませんでした。当時のそんなある種の「嫌悪感」からくる妄想達は、結局今となっては、現実に、将来の奥さんの姿も、その子どもの姿も、本当に見せることが出来ないということになってしまったわけで。
話を父の病のことに戻せば、できるだけ長く生きてくれることを望む母や弟・妹の意思に反して、父は自分で勝手に散歩に出かけ(そんな体力あるんだったらちゃんとリハビリして回復する意思くらい持って欲しかった)、勝手に酒を買ってきては自分で飲んでいました。同居する祖母が「何が食べたい」と聴けば父は「酒」と応える日々で、どんだけ母が酒の在処を隠しても、母は息子(=祖母は父)に酒を与えてしまっていたそうです。私の母がどれだけ周到に酒を隠しても結局は自分で見つけて飲んでしまう。これは、もう慢性的な依存症でしかありません。特にここ1年のそれは顕著でした。元来の酒好きを差し引いても、もはやそれ以外にすることはないのか、と問い詰めたいくらいに渇望する姿は、回復して相応の稼ぎを持つことが求められるのであれば無理矢理にでも止めるべきでしたが、しかし件の胃がん発覚から3年以上も過ぎ、父は家業であった金属加工業を事実上の廃業とし、工場跡の土地を建物付きで処分するという決断をし、結果的には働くということをせず自分の好きなことができる状態にあったわけで、今となっては、個人の自由意思で飲んだくれたことを責める・とがめる権利は、こちらにはなかったのかもな、と思えています。きっと家族全員がその認識だと思います。
ちょうど24時間たってまた筆を執り始めました。通夜式には私の想定以上の皆様のご会葬を賜り、そこでは親戚(おそらく10代までの父を知る人)、高校時代以降の友人(20代・30代を知る人)、仕事関係でのお付き合いのあった人(30代以降を知る人)から、父がどんな人だったのかということを教えてもらいました。通夜のあいさつの際に私は、「多くを語らない人だった、それだけに酒をよく飲んだ」という話をしました。高校時代以降の友人のみなさんも、父の仕事にまつわる皆さんも、口を揃えて言っていたのは、やはり「飲まないと口数は少ない」ということでした。大方の予測通り、やはり父は多くを語らない寡黙な人間でした。それだけに、父のいままでの生き様と、その時々に思っていたことを、父の口から聞くことが出来た機会がかなり限られていたことは、悔いは残さないようにしようと思いつつ、哀しいと思うことでもあります。ただ、ここまでの父の人生を思えば、私自身がとても自由に自分の目指す道に対して進んでいくことが出来ている環境を用意してくれたこともよく分かります。
昭和27年に父が生を受けたのと数年違わないくらいの時に、私の祖父(しかし私が生まれて4ヶ月後には亡くなっていた)は今の我が家に居を構えたそうです。幼なじみや同級生達とよく遊んでいた、というのを通夜中にもよく聴きました。祖父は金属加工業を営んでおり、真鍮の棒をなんだか加工する(詳細は不明)仕事をしていたらしく、それはもう相当働いていたそうで、今の家の隣にあった工場では深夜になるまで作業に没頭していたとか(そうか残留耐性はそもそも遺伝か)。そのせいか、かなりお金には困らない生活をしていたそうです。本当に、裕福な生活を送っていたよ、と、祖母も叔父も口を揃えます。曰く、その祖父には先見の明があったらしいのです。
当時から言えば、日本大学付属の中学・高校に進学したのは珍しいことだったと思いますし、かなり長距離の通学ながらもちゃんと通ったことは素晴らしかったと思います(そうか長距離通学・通勤の耐性は遺伝か)。おそらくはそこで様々な刺激に触れる中で、カメラを買い与えてもらった、という話も聴きました。付属校だったのでそのまま日大に進学するのですが、経済学部に進学した父の腹の内は、本当は芸術学部に進学したかったとのこと。しかし、祖父の意向により経済学部に進学「させられた」のは、私からすれば父にとっては不遇だったのだと思います。結果、父は行方をくらまします。と、この辺の話は聴いていたのですが、行方をくらます前に、なんと赤のフェアレディーZを買い与えてもらっていたというのを耳にして衝撃を覚えました。そんな車に乗っていただなんてまったく予測もついていません。
行方をくらましていたころは、本当にほうぼうに出かけたようです。祖父と祖母が血眼になって行方を捜しても見つからず。結局実家に30歳ごろに戻ってきたのですが、それまでやっていたのは、カメラマンになる修業だったそうです。そう、父の夢はカメラマンになること。しかしそれは叶っていませんでした。ある見方をすれば「どうせだめでも実家に帰ってこれる、そんな逃げや甘えがあったのでは」とも言えますが、私にはどうしてもその当時の父はまさしく「夢破れて失意のなか家に帰って家督を継がざるを得なかった」ということだと思うのです。それは、今自分が夢や目標に向かって生きていることからすれば、相当な挫折だったのだと思います。
そもそも、行方をくらましてまで夢を追いかけたというほどに、父の人生の冒頭は、ある意味、祖父からの抑圧に苛まれていたのだろうと、息子ながらに想像をします。それはたとえ、周囲が「幸せに暮らしていた」と言っていたとしても、本人としてはしんどかったのだろうと思います。それだけに、息子には自由にさせたい、後悔のない人生を生きて欲しい、という想いを持っていたのだろう、と勝手に想像をしています。しかしそれは、ただ自分が、抑圧を抜け出し自由を手に入れたにもかかわらず夢破れた、ということだけが要因ではない気がします。というか、夢破れつつも家庭を持つという決断をした上で、決して利己だけでは生きられない、という覚悟を持ったはずですし、そこに生き甲斐をもつように決心はしたはずです。そうして結婚し、36歳の時に私が生まれた訳ですが、その3年後の平成3年に、父はその妻を失うわけです。私も薄情ながら、今日になり久々に位牌を見て、その日が平成3年の10月4日だったと知りました。
ご存じの方はご存じと思いますが、生みの母親は私の物心がつく前に亡くなっております。しかし、あまりにも記憶がないもんで、顔も声も覚えがありません。大腸がんでなくなったという伝え聞きと、東京都豊島区の豊島病院に入院する母がその入り口でサーモンピンクのジャージを着て手を振っているのをタクシーから見るという幻影に近い映像しか頭に残っていません。ちなみに、東京に入院していた母を見舞うために祖母が私を連れてよく電車で出かけていたということが、私の「鉄分」を高める要因になったことを書き加えておきます。後から聞いていくに、元々は茶道と華道の先生で、ともすれば私を小学校から私立に通わせ学を身につけさせようとしていたそうです。その亡き母との出会いや結婚生活、そして私が生まれたときのこと、そして病に伏し、結局は息を引き取る、そこまでにあった事実や感じていたことを、ついに父の口から聞くことはありませんでしたし、きっとしらふで問うても呑んで問うても、どっちにしても話さなかったと思います。ただ、愛する人を亡くしたことの悲しみは、言葉で書く以上に計り知れないものだと思います。
現在の母親は、確か私が5歳の時に出会い、再婚した人でしたが、その当時は「なんとかして忍に母親を」という気持ちだったらしく、それもあってか割と熱烈なアプローチをしていたそうです(なぜその点が引き継げなかったのだろうか)。この母親がくるまでの間、祖母が母親代わりになり私を育てたのですが、その頃にご近所や祖母の友人との付き合いがあったことが、私が割と外面良く生きてきた要因でもあり、また「ちやほやされたい症候群」の直接的な原因でもあります。そんななかで再婚した母親は、まぁ当然私に対して気を遣うシーンもいままで多くあったでしょうが、それがあってかなかろうか、かなり自由に放任してくれたから、今のように自分で自分の道を切り拓いている感覚を持つような生き方になれたのだと思います。
話を父に戻せば、結局約2~3年、幼少期の自分を形成する上で、父と過ごした時間というのが核になっている部分はある訳ですが、父は仕事をしていたので保育所で過ごす時間のほうが長かったのは当然です。その送り迎えの時から、よく助手席に座っていました。私の特技の一つである、一度通った道は必ず覚えている、というものは、父の運転で助手席に乗り、様々なところに出かけていった、というのが要因としてあると思います。父と今の母のデートの時にすでに私が居たのですが、それで行った筑波山の時だけは、トヨタ・エスティマの後ろの席にいたのを覚えていますが、それ以外はほとんど自分が助手席で、父の高校時代の友人と新潟の寺泊で夏のキャンプをした時も、家族だけでサンバレー那須にいったときも、スパリゾートハワイアンズにいった時も、富士急ハイランドに行ったときも、そのほとんどは夜間の移動で、そして決まって私が助手席で夜通しの運転に付き合っていたのです。
本当に家族に大切な時間を残してくれました、それは確かに裕福ながら、しかしもう少し工夫のしようはあったのではないか、とも思うものの、父なりに良い時間を提供したい、というものだったと思います。そういえば時系列が前後しますが、新しい母と父の間には、私とそれぞれ7歳・9歳、年の離れた兄弟を授かりましたが、彼らとの生物学上の血縁がなくとも、私にとってはすでにかけがえのない肉親であることは言うまでもありません。親になれば、子の成長と幸せが自分のそれに代るのかもしれない、というのは、その当事者になっていない自分にはとうてい感じられないことですが、しかしそうなのかもしれないな、と思うのです。
そんな父とは、2度、本当にケンカをした、というか、こちらが腹を立てたことがあります。
1度目は高校受験のとき。確かに埼玉県立不動岡高校外国語科を第一志望にしていたとはいえ、万が一のことを考え私学の併願はしていたわけで、そのことはきちんと父にも母にも説明すべきと思っていたのですが、父は私学の併願の話を出しても「公立高校」一点張り。しかし、酒を呑んで帰ってきた(しかも当時は飲酒運転罰則強化がそこまで強くなかったので平気で呑んで運転していました、いま考えたら自殺行為です)夜に、とある私学併願予定校だった学校について「そこに行け」と言い出すのです。こちらは色々考えて、すべて説明がつく状態で公立高校と私学の併願優先順位を決めていたのに、呑んだ勢いでいきなり「その学校に行け」と言われたことがとても腹立たしかった。そのとき和解できたかどうかすら現状あやふやですが、その後に父が自分に対してどういう思いを持っていたのかを知っただけに、あの酒の勢いの言葉だけは妙に残っています。
2度目は大学院進学。ただここでは、ケンカした、というよりも、最後は諭されたのですが、結局大学院は奨学金を借りてほぼ自己資金で進学したものの、入学の初年次にかかる一部の費用だけは親に借りねばならず、それは投資として父が自分に貸してくれるものだからこそ、その説明責任は果たさねばならない、という理屈を言ったのですが、まさしく「理屈」であり、一蹴されました。親は、自分の子どもの幸せを願うのが仕事で、子どもに説明責任を果たされる道理などないし、投資だなんて思っていやしない、というのが父の主旨で、今となれば納得は行きますし、今更思えば当時の自分は父に自分の考えていることを分かって欲しかっただけだったと思います。父は自分を認めていたし、自分は父に畏敬の念を持っていた、それがただ互いにすれ違っただけのことだったのでしょう。
この二つ目のエピソードが示すように、ある種父は、上から・決めつけのごとく、モノを語る傾向があったようで、それはおそらく現在の自分にそっくりそのまま受け継がれている性質かもしれません。なんでも意味づけのしようはあるでしょうが、ここまで書いてきてやはり思うのは、この親にしてこの子どもである、ということ。かなり多くの影響を父から受けているようで、それは一定、一緒に生活する時間も長かっただけに、致し方ないのだと思います。ただ唯一、あまりを多くを自ら語らない、という点には違いがありますが、それは大元をたどれば「自分に抱え込んでしまう」ということの現れであり、その点では父も私も違いはないのかも知れません。
父が、自分の思いを押し殺す際、決まって酒を浴びるように呑む、というのは前々からのことでした。この1年以内にも、そのようなことがあったのですが、過去の私にまつわるエピソードにも、その一端が現れています。あれは、小学生だった頃。なんだか友人とたわいもない口げんかをした末、相手が「消えろ」と言ったので、「ああ消えてやるよ」と、学校の窓から飛び降りる真似をし、その後「たんけんボード」の紐で首を自分で吊ろうとすることをしたことがあります。いまから考えれば、なんてことをしていたんだ、自分は、と思っていますが、別に「消えろ」に傷ついた訳ではなく、たんなる応酬として「ああやってやるよ」というケンカ越しの反応だったわけで。しかしその当時、産休に入った担任の代りに来た講師が初任者でだいぶびっくりしてショックを与えてしまったという事件がありました。本人たち以上に周囲が動転したらしいのですが、このことの顛末により、父はとんでもなく酒を浴びて大泣きをしたそうです。まったく本人にはそのそぶりを見せず。
このエピソードをいつだったか聴いてなおさら、父が寡黙で多くを語らず、その分酒におぼれるという性格であることを意識するようになりました。だからなおさら、私からしたら父が不憫でならない。それは父のこれまでの人生のなかで、祖父との少なからぬ抑圧の歴史と確執があり、夢破れた後に家を継ぐ覚悟に自分を押し殺し、最愛の人を亡くし、という辛い経験をしたということそのものよりも、むしろ、そうした辛い経験に対して「つらい」という言葉を発さず自分で飲み込み、その気を紛らわすために酒に依存する生活になっていた、ということです。
もっと、辛いことを「つらい」と言える、そんな素直な人生を父が送れていたら。そう思うと胸が締め付けられます。一方で、そのように自分を出さないということが、こと子どもを育てるという意味では、その子どもがやりたいようにさせる、私たちに悔いのない人生を過ごさせる、そのために出来ることはするんだ、という「信念」を持って生きてきた父によって、結果的に私はのびのびと育つことができた訳です。その「後悔のない人生を生きなさい」という教えは、ある意味では自分が抱えてきたつらさや苦しみを子どもが味わうことのないようにしたい、ということの現れだったのかもしれない、と勝手に解釈しています。
私の中での父親は、確かに多くを語らない人間ではありましたが、一方で多くの知を授けてくれた存在でもありましたし、多くの楽しみを教えてくれた人間でもありました。
小学生高学年だった自分がようやく絶叫系マシーンに乗り慣れたころ、富士急ハイランドに行き、当時出来てあまり日が浅いFujiyamaに乗る最中、父と列に並びながら私は怖くて大泣きしていたのですが、いざコースターに乗ってしまえば、すっきりとした顔になった私。結局、その後絶叫マシーンにはまってしまいました。めがねをかけた状態のままジェットコースターに乗っていた当時の父のことを思えば、よくめがねを無くさなかったもんだな、と逆に感心してしまうほどです。
子どもの頃から温泉に連れて行かれることが多く、しかし子どもの頃は「サウナ→水風呂」というコースの魅力などまったく分からなかったのですが、いまではそのルーチーンは欠かせない週末のたしなみになるほどにまでなりました。ことある事にしょっちゅう通い詰めた健康ランドは数多く、その風呂好きは晩年まで続いた訳で、亡くなる直前も「風呂に入りたい」と繰り返していたそうです。
父は祖父亡き後も祖父の金属加工業を継いだのですが、その仕事の関連で工作機械の見本市にも一緒についていったことが何度もありました。後から本人に聴いた話でさすがだと思ったのは、当時の町工場の組合の中でいち早く父が「工作機械導入」を推進したとのこと。それまでの手作業で進めて人件費を食うよりも、工作機械による自動化をしたほうがはるかに合理的である、と機械化の旗振りをした当時の父はまさしく「イノベーター」だったのだろうと思いますし、その点で父は自分を「エンジニア」とは名乗らず「経営者」と述べていたのも、納得はいきます。まぁ実際は機械に仕事を任せることで、そのオペレーションは内実ひとりでやっていたので、ピープルマネジメントができる経営者というよりも、個人事業主というほうが合っていましたが。ちなみにその当時の仕事の主たる納品先は、半導体製造の工作機械のメーカーでした。いまのITデバイス産業の爆発的な進歩を思えば、父もまた先見の明があったのかもしれません。
小学校の頃の授業参観は、必ずといっていいほど作業着で参加し、それは他の親御さんからすると珍しい服装だったわけですが、サラリーマン家庭が多く平日の参観日には父親が来れないことが多い中、父も母も祖母も来ている遠藤家は、一つ有名であったことは確かです。学校行事にも積極的に参加してくれたのは、一方では他の親御さんよりも年齢が上であることのコンプレックスを抱きつつも、それ以上にうれしかったことを覚えています。そういえば子供会の夏祭りの時も、当時自治会の子どもが少なくなる一方ながら、子どもたちで担ぐための御神輿を一緒になって手作りしてくれた記憶はかなり印象深く残っています。
そうした楽しい日々を送っていた、そして黙々と仕事に励んでいた、その結果として子どもたちが後悔のない人生を送れるような準備を進めていた矢先、60歳を目前としたタイミングでの胃がんとその後の胃全摘は、結果的にそれまでの父にとっての普通の日々を、若干「過ごしづらい」日々に、別言すれば「今まで通りにならない」日々に変えたのは確かです。言いようのないしんどさ、しかし言うことを聞かない体、その狭間にあり、その辛さを「つらい」と言えない父は、従前のごとく酒に走ったのです。
それはある見方からすれば「逃げ」なのでしょうし、実際に父は何かを目的に生きることにたいして動機を失っていたかもしれませんが、一方では本人の中でもやりきったという感覚があったのかもしれません。それだけに、好きなものにおぼれるのであれば死んだっていいと思っていたに違いなく、たとえそれが「自殺行為」であったとしても、今の時点からはその父の選択を尊重する方がよいのかもれないと思えています。
結局、息子の私からすれば、父の64年の歴史は、抑圧と自由の狭間でもがき苦しんだ人生であり、また察するに、一時的な楽しさよりも後に尾を引く辛さを抱えた人生だったと思うのです。
「後悔のない人生にしなさい」
そう、確かに父に言われたことがあります。ここ3年以内の話です。ここ3年の間に私は、約2.5年の間、実家を離れて暮らしていたのですが、割と頻繁に帰っては、またシェアハウスに戻る折に必ず「頑張れよ」と言われていたことを思い出します。たぶんその中でそういう話になったと思います。
なぜそこまで「後悔のない人生を送りなさい」と言ってきたのかと思えば、それは父が後悔を持つ人生だったからなのだろう、と思いをはせます。きっと父には成し遂げられられなかったことがたくさんあった。自分の思い通りにできないことがたくさんあった。だからこそそれを、自分の子どもに重ね合わせていたのかも知れない、と勝手に推察しています。
表では、直接褒めてくれることはそんなになかった。それでも、父は飲み屋で、スナックで、ことある事に私を自慢していたと聞きます。単に残業代が減ったので家賃を払うのがイヤになり実家に帰っただけにもかかわらず、実家に帰ってきたことを喜んでいたとも聞いています。特に、約9ヶ月前に実家に帰ってきたときは、ちょうどなにやら臨時収入もあったらしく(働いていないけど)、冷蔵庫やら電子レンジやら炊飯器やらの買い換え、さらには精米器まで購入し、自分でキッチンに立って料理を作っていたのですが、それもどうやら、私自身が実家に帰ってくることを喜び、それならうまいもん食わしてやらねば、と、ノリノリで買ったという話も聞きます。
本当に素直でない人なので、そういう言葉を他人伝いに聞くからこそ、余計にこちらとしては涙がでます。自分が自由に過ごさせてもらっていながら、その成長を本当は喜んでいたんだろうな、と思うと、それをストレートに言って欲しかったなぁ、という気持ちと、その気持ちに恩返しをする親孝行をこれからするはずだったのに、予想より早く昇天してしまったことにしんどさを覚えます。
それでも、父が父である限り、遅かれ早かれこういったことに気づくのはやはり父の昇天に際してのことであり、だからこそ余計に、もちろん他人に丁寧に接しつつも、父の言いつけを守り、自分の人生を自分で切り拓き、後悔のない人生を送りたいと思います。いや、というか、後悔をしたところで全ては覆せないことだからこそ、自分に対して恥じない、自分を認めてあげられる人生を送りたいと、そう思うようになりました。
確かに、仮に父の立場に立ってみれば、父の身に起きたある種の不遇は、父にとってかなり酷なものだったと推察します。しかし、64年という、時間軸だけ切り出せば短いように見えるその人生は、しかし内実中身は濃く、体積としては十分に大きいものだったと思います。本当に私自身が自分勝手だと思うのは、きっとその「大きい体積」の中に、私自身という存在が占める割合はそれ相応にあったのだろうと思うことで、ただそれを思うと一人静かに泣けてきます。また一方で、その父の人生を短いながらも体積を大きくさせた要因には、父を支えた多くの人の存在がある訳で、それを思えば本当に父は幸せものだったのだと思います。
結局は、自分大好き人間による自己承認で幕を閉じようとしているこの文章ですが、告別式の朝の5時を迎える今、終盤にかけての文章を書きながら、少しずつ涙をにじませているのは、こうして自分が生きている今において父の与えてくれたものの大きさを感じているからです。最後に書き加えるならば、もっとも大きい授かり物は、私の名前そのものだったのかも知れません。
「忍」という漢字に込められた意味は、多くのコトを堪え忍ぶ、という意味ではないそうです。人の心を刃で中心まで見通す。それは、傷つける、ということではなく、鋭い刃であればあるほど傷口は大きくはならない、と。その鋭い刃で心を見通したときに、それに寄り添える人間でありなさい、という意味だそうです。生みの母方の祖父母からは大反対を喰らったそうですが、姓名判断上とても良い名前となったのでそのまま決まったそうです。
今、人を育み・導き・共に走る存在を目指す自分にとって、この名前の付けられた所以というのは、決して看過できないものです。相手の心に寄り添う優しさを持つべき反面、「悔い無き人生」を目指したが故に自分勝手になっているところもある。それでも、父が名付けた「忍」という漢字に込められた意味合いを思い出せば、やはり自分が目指したいのはそこであり、むしろ父からそう仕向けられたのかもしれないとも思います。いまなら、私自身のキャリア観に関する父の不干渉は、無関心ではなく、大きく構えた上でのサポートだと思っています。
だとすれば。正直、28歳で別れを迎えるのはしんどいですよ。
でも、父はむしろ、死を以て、更に自由に生きろというメッセージを伝えているのかも知れないとも思います。奇しくも8月は私の仕事上の転機でもあり、長きにわたって父に会えなかった可能性もあり、また仕事から戻る時には下手をすると死んだあとだったかも知れないのです。良いのか悪いのか、ちょうどタイミングよく、その転機の前に父の昇天は訪れました。なんらかのメッセージ性を感じずにはいられません。だからこそ、余計に、自分は前を向いている気がします。
父・昇の息子で居られたことが本当に良かったと思えるのはまだ先です。なぜなら齢28の私は、父の生きた人生の半分も全うしていないからです。しかし、人間の行動特性は原体験で形成されるという私の人間観からすれば、明らかに父の影響は大きく横たわっていることに、今更ながら気づいた訳です。今時点で、それを信じられているということは、これから先の私が追い求めるのは、「昇の息子で良かった」ことを証明していくことであり、それが亡き父への報いなのだろうと思います。
最後に。
記憶の中の「在りし日の父」は、もっとふっくらしていましたが、胃がん以降の5年間の父は、どんどんやせ細り、前述のとおり「みすぼらしい」姿ではありました。しかしその中で時折見せる父の明るい振る舞いに、父らしさを感じる時がありました。
昇の子ども3人が満場一致で決めた遺影の写真が以下です。
両手で裏ピース。弟が一眼レフで撮影したこの写真が、もっとも父らしい姿でした。おそらく会葬者も一瞬「クスッ」とくるこの写真は、外見こそやせ細っているものの、しかし中身は在りし日の、好きだった父のままだと思います。
そういう大人に、私もなるように、後悔をしない人生を歩みたいと思います。
「さっさとくたばりやがって、このクソオヤジめ、いままでありがとな。」合掌。
追伸:その後ずっとリフレインする「to U」が、今の自分にはいちばんしっくりきています。
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