謹告:2013年4月以降の進路について、および就職活動に関するお知らせ

お世話になっている皆様方、

まず、本来であればこの手のお知らせは、個別にご報告させていただくのが筋であるところ、このような形でのご報告になります非礼をお許しください。個別にご連絡を差し上げるべき方は、特にこの就職活動を通じてたくさん出会わせていただきましたが、そういった皆様方に、タイムラグなくご報告ができる形として、ブログに掲載させていただいております。また、このブログが、私にとっての対外的メディアであることも、ここでのご報告とする理由でもあります。ご承知置き下さい。

前置きが長くなりましたが、皆様にご報告です。

2011年9月ごろより実質的に行って参りました2013年4月入社の就職活動ですが、2012年3月9日に採用内々定のご連絡をいただき、その後熟慮した結果、同23日に承諾のご連絡を差し上げ、28日に承諾書を提出し、結果2013年4月から、株式会社マクロミルのビジネス職として就職することが内定いたしました。この場をお借りして、就職活動においてお世話になりました皆様や、日頃ご心配をおかけしている皆様へ、深く感謝申し上げたいと思います。


ご報告は以上で終わりです。ですが以下、読み物として、書きたいことを書き連ねます。あくまで自分用の備忘録ですから、お時間のある方のみお読みください。

<入社する会社と、その会社に対して今抱く思い>

株式会社マクロミルは、インターネットを用いたマーケティングリサーチ、平たく言えばアンケートの実施と分析を行う会社であり、取引先となるのは大手メーカー企業のマーケティング(販促)部門や広告代理店と理解しています。インターネットリサーチの業界では間違いなく最大手ですが、とはいえ市場規模自体はマーケティング業界全体の中の一部にしか過ぎないとも理解しています。設立12年目で社員数560人、ベンチャー出発である一方、東証一部上場の企業です。しかし、ベンチャー志向は強く、子会社に抱えるエムワープ社ではスマホアプリを開発し、マーケティングの上流過程だけでなく下流過程までおさえにいこうとしています。また、アジアを中心に海外への展開をしています。

この会社の本体部門における「商品」は、マーケティングリサーチ、つまり売れる仕組みを作る上での市場調査や顧客意識調査になります。営業の皆さんはそれを売りつつクライアントのニーズを探るのが仕事であり、商品部分となるリサーチは、調査画面設計/集計・グラフ化/考察・レポーティングの3つのフェーズに分かれます。現段階で私が志望しているのは、この考察・レポーティングをになうリサーチャーという部署です。その希望がそのまま通るとは考えていませんが、キャリアをその職種で積めればいいな、と思っています。

採用のご判断を下していただいたマクロミルのみなさまには、感謝だけでなく、それとはまた違う感情ももっています。就職活動自体の終了のタイミングは内定の受諾(=他社の選考を受けないという約束)ですが、その内定受諾はスタート前でしかないわけで、当然そこから先の関係性が長らく発生するわけです。仲間の1人として迎えていただくという決定が採用内定ですから、そこには期待が含まれていると思っています。私はそれに背いてはいけないと思うのです。

ファーストキャリアの選択はとても重要だと聞きますが、新卒の就職は自分自身の大切な人生の節目の第1歩を預けるということと同時に、自分自身が成長して会社と社会に価値を与えなければならないわけです。入ってもいない人間が言うのもアレですが、会社に入るということは、自分の運命をその会社に預けると同時に、会社の運命を自分が背負うことでもあるような気がしています。だから、内定をもらった・就活が終わったからといって、「やった!」と大手を振って喜べないのはそういう所が原因な訳です。選んでいただいたことや認めてくださったことへの感謝よりも、「これから」に対して身が緊まるような思いが先行していますが、むしろこの感覚は忘れないでおきたいと思います。

<大切なことは、心の中にある>

忘れたくない感覚はもう一つあります。そしてそれは、この就職活動を通じて一番痛感したこと、気付いたことの中で最も印象深かったことです。それは、言葉では説明できない、心という側面の大切さでした。

私は、3月の19日から21日までの3日間、SFCで行われていた、ヤングアメリカンズ・ジャパンアウトリーチツアーのワークショップに参加していました。アメリカで舞台芸術(performing arts)を専門に学んだ10代後半〜20代前半の若者たちとともに、3日間で一つのショーをつくりあげる、という取組みで、歌を歌ったり、ダンスをしたり、演劇をしたり、ということをワークショップ形式で行っていきます。歌・ダンス・演劇という自己表現を通じて、自己開放と自己承認と他己承認をする、というのが、難しい言葉で説明するところのワークショップの目的です。普段は子ども向けですが、時おり中高大生や大人向けのワークショップが行われる、その中高大生向けのワークショップに参加していました。2011年3月にも一度参加しているため2度目です。

私は今年の3月20日のワークショップ中に、非常に希有な経験をしました。それが、僕にとって大切なことを気付かせてくれたきっかけでもありました。それは、屋外でのワークショップ中の出来事。ショー中に歌う、絢香のI believeに合わせて、自由に振り付けをするというワークショップの最中でした。踊り終えると、一人のヤングアメリカン(以下YA、ワークショップの講師役となるアメリカ人)が涙を流していました。驚きました。気がついた自分は、とっさに “Are you OK?” と、声をかけ、それ以降は彼女の肩を叩いてそばにいること以外、することは思い浮かびませんでした。むしろ、なにも言葉をかける必要はないと思ったくらいでした。

彼女自身、あとから体験をシェアする時に「家からはなれて過ごすことがさみしくなった」と言っていましたが、涙する姿を最初に見かけて声をかけた時には、「自分でもなぜ泣いているのか分からない」と言っていたくらいでした。僕はそのことに、大きな驚きとショックを得ました。晴れ渡る空の下、日差しのおかげで暖かい陽気、そして芝生の上で流れる絢香の曲、そしてそれに合わせて自分の思う通りに身体を動かしてみること。そうしたことが重なって、アタマで考えるよりも先に心が震えた、その震えが涙という媒介を使って表現された、ということ。そこに「思考」=「アタマで考える」という営みはなかったんじゃないか。

踊りとか、歌とか、演劇とか、そうした営みが、心を震わせるものだということを肌で感じた瞬間でした。彼女のそばにいて、涙する彼女の気持ちの手を握りながら、彼女がどういう想いでいるのかを感じ取ることができました。そこには、慰めの言葉も必要ないし、日本語・英語の壁など存在しなかったということを体験しました。ワークショップはその後、同じ曲に合わせてペアで自由に踊っていく、というものに。それを通してよりいっそう、彼女の心のなかのさみしさを、キュアできた感覚をもっていきました。と、同時に、自分の中での気づきが、より増していきました。そしてその気づきは、ワークショップを経て、最終日のショーを仕上げるというところに至るにつれて、より大きなものになっていきました。

それが、大切なことは心のなかにある、ということでした。アタマで論理的に考えることは重要だし、それを自分自身捨てたいとは思っていない。でも、論理的に考えていってもどうしても詰まることはあるし、論理的には説明できないことがたくさんある。だから、ワークショップ中に感じたことを、その時は言語化することさえしたくない、と思ったほどでした。心で感じること・受け止めることが、どれだけ重要かを感じることができたのは、就職活動の最後の時期にヤングアメリカンズのワークショップを受けた最大の成果でした。就職活動の終わりにおいて気持ちを整理したい、自分について考えたい、と思っていた、その意図が、完全にその通りになったわけです。

<最終的な軸は、説明しがたい「正義感的なもの」あるいは「世の中の役に立つ」>

大切なことは心の中にある、ということは、その時の自分にとってとても大きな気づきでした。就職活動の終盤にあって、自分の選択肢をどうしようか考えるにあたって、いつもジレンマを感じていたからです。アタマでは分かっているのに、なぜかどこかに引っかかりがあって、なにかモヤモヤしている、ということが数多くありました。実は、マクロミルから内定をいただいたにもかかわらず、即決して返答しなかった原因はそこにありました。アタマでは、マクロミルで得られる経験が自分の将来の糧になるということを十分理解していました。しかし、その時ちょうど、Webエンジニア職のインターンを終え、実質15営業日程度で社内ツールをPHPで組むということをやり遂げたこと、そしてそのポテンシャルを一定評価してもらえたことから、エンジニア職への未練のようなものから逃れることができなかった期間がありました。

もはや自分にとって、明確な第一志望はなく、その当時選考が進んでいる企業さまはどこも自分にとって申し分ない会社でしたから、マクロミルから内定をいただいた時は、どうしたって悩むに決まっていることは見えていました。しかし、どう先延ばしをしても結局出る結論に変わりはないだろうと考え、「いつまで待っていただけますか?」と伺って、2週間の猶予をいただきました。内定をいただいた段階で選考に進んでいた企業さまをお断りするなどしながら絞り込みをかけなければいけない、というその2週間、本当に胸に手を当ててみて、自分のやりたいことは何なのか、心の声を聞いてみました。就職活動を通じて、自分がロジカルな人間であることを認識したにもかかわらず、心にフィットした最終的な軸は「正義感的なもの」あるいは「世の中の役に立つ」という、全く漠然としたことでした。

その漠然としたことを、たぶん就職活動真っ最中の自分は言語化する方向に向けていたでしょう。しかし就職活動終盤において、それをあえて言語化しないようにしよう、と思いました。それは、迷っていた会社の一次面接を受けた時に「言いたいことが言えた感覚」を感じたことに起因します。詳しくは後述しますが、その面接では、自分自身がそれまでやってきたこと、そしてその会社・その業界を目指す理由の背景に、経験に裏打ちされた「正義感」や「社会貢献」の想いがあるということを滔々と語りました。それに耳を傾けてくれ、それを評価してもらえたことがうれしくてたまらなかった。それが結果的に自分を、実質的な選択において迷わせた一方で、「正義感的なもの」あるいは「世の中の役に立つ」という想いを持つことに素直になれたきっかけでした。結局その会社からは、前述のワークショップ3日目にお断りのお電話をいただきましたが、「遠藤さんが活躍すべきフィールドは別の場所にある」という言葉を、今ではポジティブに捉えています。

もう一つ、自分の軸が「正義感的なもの」あるいは「世の中の役に立つ」ということであることを認識したのは、同じく就活の終盤、とある会社の面談後にお断りのお話をこちらからさせていただくときでした。何度もセミナーに足を運び、何度も面接・面談に足を運び、様々な社員の方のお話を伺いながら、エンジニアとして働くならこの会社、という想定ができていた会社でした。しかし、その「最後の」面談の時、自分の中での「正義感的なもの」あるいは「世の中の役に立つ」ということが強くなっているなかで「100%、御社の事業に対してアグリーできない部分がある」ということを伝えました。帰ってきた答えは、「なら自分の気持ちに正直になった方がいいと思う」ということでした。

事業に対してどこかしらに疑問や疑念をもっているようでは、いくら自分たちが遠藤君にうちで働いてほしいと思っていても、お互いに取ってハッピーじゃないと思う、とおっしゃっていただいた人事の方の発言は、予想外の反応でした。しかし、それはとても幸せなことだ、とその場で痛感することができました。企業は、自分に対して採用コストをかけているにもかかわらず、その選考をこちらから辞退する旨を伝えるのは、大変申し訳が立たないと思っていました。でもその人事担当者の方は、遠藤がこの就職活動を通じて最も納得のいく選択を取ってもらえることがうれしいし、その過程で遠藤と話すことによって刺激を得られたことがうれしいと言ってくださいました。自分の気持ちに正直になること、それがすなわち、大切なことは心の中にある、ということ。前述のワークショップよりも前に、実はそれに気付いていたのでした。

<就活で揺るがせなかった見通し:10年後に教員になる>

ここで、私自身の就職活動について振り返ってみたいと思います。前提として、積極的非就職活動生という選択をした大学3年生の夏から思い起こしたいと思います。その時、僕は大学院生になることを考えていました。教員免許の取得と、自分の研究の深化、それを期して、べらぼうに高い値段であることを承知の上で院生になる決心をなんとなく立てはじめた大学3年生の夏。就職活動はせず、かといって研究活動に専心するわけでもない、そんな惰性の学生生活を継続した自分が感じていた虚無感は非常に大きなものでした。何もしていない自分への嫌気、しかし何かをするわけでもない自分自身。その虚無感は、未だに時おり思い出されます。

その後、院試に無事合格した後に、卒論を思い切り仕上げ、その後満を持して院生にならんとした時に震災が起きた2011年。入学は遅れ、授業開始が遅れ、そのおかげで若干勢いが整わないまま、大学院生の初年度は始まったのでした。就職活動生として最初にアクションを起こしたのは、確かあれは8月だったでしょうか。かねてから知り合いから紹介されていた、ジースタイラス社の逆求人ナビに登録をし、社長やコンサルタントの方と面談、そして9月に逆求人フェスティバルに出場します。この選択は、僕の就職活動(自分のキャリアビジョンを描きつつ、自分自身についても理解を深める活動)において非常に有効な手だてでした。思えば、最終的な軸となった「正義感的なもの」あるいは「世の中の役に立つ」というのは、逆求人に出場する段階、あるいはその前の大学院進学決定の時に、もはや軸と化していたのかも知れません。

9月の逆求人フェスティバル、そしてその後11月にも出場した逆求人フェスティバルにおいて述べたことは、自身の経歴についてや結論の内容や質は違えど(実際9月の方は漠然としすぎていたので11月には絞りをかけたのですが)、将来成したいことについては、エントリーシート段階から全く変えずに言いました。それは、「40歳までに、公立中学校の英語教員として採用試験を受験する。それまで、ITベンチャーの世界で働きたい」ということでした。

教員になりたい、というのは、手段の一つだと捉えていますが、とにかく自分は教育に対して問題意識を持っていて、それに関わっていく上で、現場に携わっていたいというところから、この目標を掲げました。しかし、すぐに教員になれるほどの人間的な深みが自分には足りていないし、社会見識もコミュニケーション能力も実務も足りていないと、教育実習を通じてより深く感じ、一般企業に就職することを志しました。もちろん、それ以外にも以前のポストにある通り、奨学金の返済が実際問題として辛いというのもあります。いずれにせよ、採用試験受験リミットである40歳は、就職してから10余年というタイムスパンであり、具体的なマイルストンとして分かりやすいものでした。

ただ経験を積みたいから会社で働く、というのは、自分の運命を託し、あるいは会社の運命を託される、という関係性にある「会社」に与するにおいて、あまりにもおこがましい話だ、と考えていました。10年という時間は、会社にも社会にも、貢献や還元ができるような仕事ができているのではないか、と思います。それに、教員になることを目標としても、それは見えやすい目標だから定めたのであり、いずれ教育のことに関わっていくことを志すのであれば、必ずしも教員である必要はないわけです。その関わり方を模索する時期としても、10年の会社人経験はきっと大きいものになると思っていました。

だから、逆求人フェスティバルでは、最初からこの目標を前面に示して、それをある種会社選びのスクリーニングに使っていました。「教員になります」宣言=有期限の労働従事ということを、どう捉えてくれるのか。最初の時点で遠藤との接触を選択してくれる企業は、自分とベクトルが近い企業であることは、実際に逆求人で感じ得たことでした。そもそも逆求人フェスティバルには、一部企業を除いて、多くがベンチャー出発の企業が多いため、将来の目標を明確に持っていることが逆に正の方向に働いたのかもしれません。そのご縁をスタートに選考に進んだ企業は、実際どこも自分にとって働きたいと思える企業でした。

<ITに身を置くということ>

就職活動の開始期から、インターネットベンチャーの業界で働きたいという志望を持っていたのですが、そこと教員という見通しがリンクしないという指摘は数多く受けました。果たしてリンクする必要があるのだろうか、いやなくても良いだろうというのが僕の考えでしたが、でも根本ではつながっていたことを現在では認識しています。やはり結局は、「正義感」とか「世の中の役に立つ」という点からインターネットを捉えていて、そしてインターネットを通じて人と人とのコミュニケーションをよりよくしたいと考えていたことが、対面による人と人とのコミュニケーションの成功と失敗の体験を教育を通じて伝えていきたいという点で合致していたのでした。ただ、こうした考え方にたどり着いたのは、就職活動の終盤になってから、でした。

就職活動の開始期から、インターネットの世界を志向していたのですが、その働き方を、プログラマ・エンジニアとしてコードを書けるようになりたいということで限定的にエンジニアに絞っていた時期がありました。はじめてから3ヶ月はそうだったと思います。経験がなかったわけではありません。Linuxサーバに触れたことはあったし、C++は授業で履修し、PHPは読めるぐらいは読め、HTML+CSSには難がない。しかし、あきらかに上を見あげれば雲の上の存在は数多く存在していました。どれだけ、未経験からでもエンジニアはできる、とか、ビジネス・マネジメントとのマージナルな人材が求められているとはいえ、自分が未経験ながらエンジニアを志望することに、本当にそれでいいのか、と悩むときがありました。

実際、それは自分自身が過度に絞りをかけすぎていたのかもしれない。そう気付いたのが2011年の年末ごろでした。インターネットをビジネスドメインにする会社における、ビジネス職の役割って何か、を徐々に知るにつれて、必ずしもエンジニアに固執する必要はないと分かりました。と、いうか、利益を追求するという共通目標に対するアプローチの違いでしかない、ということが分かりました。それでも、何となく興味を持っている、その心持ちの部分は拭えなかった自分は、自分にエンジニア適性があるかどうかを見極めるという意味においても、2月に某社でのエンジニア選考インターンに参加させていただいたわけです。そこで理解できたことは、自分はエンジニアとしてもビジネス職としても、どちらでも仕事が「できる」ということでした。

コードを書くことが楽しくもあり、またコードを書くことに自信がついた機会であったと同時に、インターネットの業界に身を置くこと、置く場合にどの立場で関わるのかということを考える機会として、インターンをうけながら選考に進んでいく2月・3月を過ごしていました。そこからより考えるようになったのは、「できる」でいいのか、ということです。教育とコミュニケーションに問題意識を持っている自分にとって、将来のために今、インターネット業界という選択肢を取るのは、まさしくインターネットを対面コミュニケーションを媒介するツールとしたい、そしてそのツールを用いて世の中を便利に・良くしたいという考えがあったからです。アタマではそれが分かっていた、けれど、コードを叩くことが楽しいと感じた。その葛藤が自分の中に生じたのです。

結局、その葛藤が時間とともに薄れていったのは、心の方がアタマで考えていることに追いついていった、というのが正直な所です。ただそのおかげで、現在取っている、インターネットマーケティングリサーチという業界選択に対する不満や不安は、今の所出ていません。しかし、就職活動の最後のほうでようやくたどり着いた、インターネットとコミュニケーションと教育のつながり、それも忘れてはならないことだと思います。そのつながりは、たとえば自分の研究の関心の出発点にもなっている、長崎佐世保女児殺傷事件しかり、自分が学校裏サイトで叩かれたことしかり、逆にブログで意図せず誹謗中傷してしまったことしかり、一方で学校時代に様々なコミュニケーション体験を積んだことしかり、そういった経験から出発しているということも忘れていはいけないと思いました。

<就職活動は家族を顧みる時期にもなった>

インターネットベンチャーを志望する、という段階で、社名を知っている人・知らない人が分かれると思います。東証一部上場とはいえ、誰もが知っている、いわゆる「有名企業」とかいうものではないのかもしれません。少なくとも、町工場を一人で経営する父と、パートタイマーの母と、80歳をこえる祖母は、内定先の会社が何をしているのか、いまいちうまく理解できていないようです。それでも、僕が下した選択に対して、何も言いませんでした。母からは、教員になりたい、ということについては「あんちゃんは分からない子どもの気持ちは分からないんじゃないか」と岳は言われていましたが、就職活動においては、やりたいようにやらせてもらえました。それだけ託してもらっていたのかもしれません。しかし、人生を考えるこの時期に、あろうことか家族の危機的状況がやってきました。状況は好転する、とはいえ、その時のショックは自分自身忘れてはならないこととして残しておかなければいけないのかもしれません。そして、そういうことがあったからこそ、働いて、お世話になった家族に還元したい、という思いもまた、残しておきたいのです。

2011年の夏頃に、胃に悪性腫瘍が見つかった父は、まだ病巣が小さかったことから、胃を全摘出することになり、9月ごろに手術を受けました。それ自体は成功し、割に早くに食事もとれるようになり、退院しました。ただ問題はその後です。術後は以前に比べて食事がとれなくなり、徐々にやせて体力が落ちました。それ以上に、術後の注意散漫状態のために仕事への集中力も減ってきたようです。胃がないにもかかわらず、以前に増してお酒を飲むようになった印象が強かったのですが、そのさなかに自動車事故を起こしてしまいました。父は寡黙な人間です。だからでしょうか、ショックとストレスを溜め込んでしまったせいか、ある時期から仕事に行かなくなり、日中も家でずっと寝ている生活。それが続くことで筋力が衰え、半寝たきり状態になりました。寝たきり状態をいつまでも続けるわけにはいかない、といって、病院のリハビリテーション科に連れて行ったりもしましたが、どうも話していて目線があわないことが多く、これは多分精神的な部分に起因している、と考えました。年末には、しばらく歩かせると、瞬間的に意識を失ったようになることも増えてきました。

年が明けたある日、父のことが心配になりながらも、ある会社の面談のために会社の受付付近で待機していると、祖母から電話がありました。その日、そろそろもう入院させてしまった方がいいと考えた祖母は、ある種タクシー的に救急車を呼んだのでした。その段階では大事になるとは考えていなかったそうですが、ふたを開けると、父は重症の肺炎でした。その会社のロビーで「これはマズい」と、血の気が顔から引いたのを覚えています。死ぬんじゃないか。なんで俺は東京にいるんだ。そんなことを感じてしまいました。その日の予定をキャンセルして電車に乗り、地元に戻る道中、不思議なことに自分自身は動転せず、実質的なことを考えながら、本当にもしものことがあったらどうしようか、をずっと考えていました。同時に、Wikipediaで調べられるだけ病状について調べました。たしかに、そこに書かれている所見は現れてたのに、まったく気付けなかったことを悔やんでいました。

病院について、医師からの説明を受けると、とりあえずその日から父はICUで人工呼吸をつけることになりました。2歳以降、父の車の助手席でいろいろな所に連れて行ってもらったことや、学校の授業参観などの行事に積極的に来てくれたことなどを思い出しながら、しかしいわゆる思春期を迎えて以降、きちんとコミュニケーションを取っていなかったことを悔やみながら、管に繋がれて、あれだけ太っていたにもかかわらずやせ細ってしまった身体を見ながら、とりあえず一命を取り留めたことに安心しつつも、すごくさみしい気分に襲われました。最悪の事態を脱したとしても、まだ高2の弟と中3の妹がいる家庭を支えるのはやはり自分になるのだろうか、という責任感だけがわき上がってくるのでした。

おかげさまで、父の病状は回復を見せました。3週間程度でICUを出て、3月当初には一般病棟になり、管も徐々に外れて、現在は通常の食事をとりながら歩行リハビリをするほどまでに回復しています。父が緊急搬送された日にお会いするはずだった人事担当者の方には後々、物事は好転するし、自分の人生は自分の人生として考え家族の責任まで負うべきではない、と言われましたが、たしかに状況は好転しました。それでも家族に対する責任の念だけは拭えませんでした。そんな折、やはり父は就職活動について気にかけていてくれました。しかし、父との久々の会話となった一般病棟移動後のはじめての会話の最後に言われた一言は、「がんばれ」でした。その次の機会に言われたことは、「後のことは何とかなるから、とにかく頑張れ」でした。

僕は、父にこういってもらえることを本当に感謝しなければいけないんだと思います。それを素直に言えないあたりが、自分自身悔しいのですが、でもどうして父が息子の進路の身の振り方に対して過干渉しないのか、その理由は息子である僕なりに理解しているつもりです。父は、前述の通り、一人で町工場を経営する工場長。従業員はいませんが、工作機械の部品となる金属加工を、工作機械を用いてやっていました。父はその2代目ですが、それは父の本望ではなかったはずです。父はもともと、プロのカメラマンを目指していました。当時としては珍しく、私の祖父に当たる父の父によって日大付属の中高に通うことになり、そして大学進学は私の祖父の意向で日大の経済学部に進学しました。しかし、その祖父の意向がすでに父の考えとは違っていました。父は日大芸術学部を希望していたにもかかわらず叶わず、そしてプロのカメラマンになるために大学を飛び出して、30歳まで家に帰らなかったそうです。結局その夢は叶わなかった。そして帰ってきた父は、工場を継いだのです。

では僕自身は? 確かに、僕自身、小学校の頃は家の工場を継ぐことを考えていました。しかし、どこからか「政治家になる」と言い出し、その問題意識が狭まり教育に興味を持つようになり、慶應SFCに進学し…と進むにつれて、工場を継ぐことについてはまったく考えに上がりませんでした。不思議と、父はそれに対して何も言わないのです。これは僕の解釈ですが、それは父自身が自分の成したかったことを、父の父によって妨げられてしまったことを経験しているからではないでしょうか。ある人事担当の方は、親が願うのは子どもが幸せに生活することだ、とおっしゃっていました。もしかすると、私の父が願う幸せは、私自身がやりたいことをしていくことであって、決して私が父の後を追うことではないのかもしれません。改めて、そのことに気がつかされたのです。

<月並みだけど、感謝を忘れずに>

だからこそ余計に、僕はこの与えられた機会に感謝をし、それを大切にしながら、大口を叩いた分、それを実現させなければいけないのかもしれません。就職活動という機会は、学生から見れば選択の余地に迷い、あるいは自分の人生を誰かに評価されるような機会なのかも知れません。しかし、企業側からすれば、コストをかけてまで仲間を捜す、リスクを取りながらも命がけで行っていることであるし、親や家族からすれば、子どもの重要な進路決定の機会なのでしょう。そして学生自身にとっては、自分と仕事と企業をマッチングさせていくという営み以上に、働くとは・自分とは・他者とは、ということに対して思いっきり苦しみ、それでも一定の結論を出そうとする貴重な思考の時間なのかもしれません。

僕自身の就職活動でありながら、僕一人に対して周囲の人々がかけてくださっている「コト」は本当に膨大である。それを思うと、どのようにそういう皆さんに顔向けできるようになるかは、結局私自身が決めた進路で自分がどれだけ成したいことを成せるか、ということにかかっているのだと思います。それはつまり、自分が自分に嘘をつかず、まっすぐにやり遂げることでしかないと思うのです。それが僕にとっては「世の中の役に立つ」ということなのです。自分でも、抽象的な言葉をつなげていることは分かっています。でも、結局はそういうことなんだと思います。そう信じたいです。

改めて、就職活動を通じてお世話になった皆様、それは内定先の会社だけではなく、選考をこちらが辞退したりお断りをいただいたりした会社の皆様、就職活動を支えてくださった会社の皆様やそこで出会った仲間、また友人や家族に対して、感謝をすることを忘れてはならないと思いますし、現にその感謝の気持ちでいっぱいです。同時に、これからが就職活動本番という就活生に対して、しっかり頑張ってほしい一方で、考えること・悩み苦しむことを辞めないでほしいとも思います。

ここまで長い文章を書くと、就職活動は、その終盤になって、自分にとって忘れてはならない事柄をたくさん残したことに気付きます。だからブログに残すのです。内定連絡をいただき、それを受諾してから早2週間が過ぎてしまいました。考えていることを吐き出すには相当時間がかかりました。その間には、マクロミルで一緒に前へ進んでいく内定者にも会いました。でも、こうして吐き出しきることによってようやくこれでケジメが付けられそうです。あとはちゃんと大学院を修了すること、教員免許を取ること。

さぁ、明日から、新学期の授業が始まります。


<追記:同期からのコメントを受けて>

気づけば多くの方にこのポストを読んでいただき、またシェアしていただき、Google Analytics上では、PVは2000を越えました。公開から1年ほど経つ「アイスブレイクアイディア集1」も通算で2000ですから、急激にアクセスが伸びたことが驚きでした。それだけ、私の半生の一時をシェアさせていただけたことは感謝です。

Facebookに投稿したところ、このブログを書こうと思ったきっかけにもなった、同期内定者のもりやんが、コメントを寄せてくれました。彼は、内定と同時に「【就職先決定】」というポストをしたアツい男です。その彼のコメントの一部を引用します。

えんしの へ

全部読んだぞ!!
つらつら感想述べます…の前に、俺が言いたい結論は『えんしのと同期で良かった』ってこと^^

順を追って書いていくぜよ!!
①<大切なことは、心の中にある>より感じたこと
俺もいくらロジック立てて考えても、最終的に「本当にマクロミルでいいのか?」って悩む部分はあった。けれども、最後は感覚的な部分で決断した。ここで言う感覚的なものってのは、言葉には表現できない「何かマクロミルの方が良さそうだから」っていうような感覚のことね。でも、この感覚的な判断っていうのは、現状の俺の考えでは「自分にはまだ”感覚”としてしか捉えきれていない”自分の価値観”がマクロミルの良さに呼応した」と解釈してる。ナポレオン・ヒルが「思考は現実化する」って本書いてるじゃん(俺はまだ読んでません…)。俺流の”思考”のプロセスは2段階あると思っていて、1,自分の価値観と目の前の出来事との整合性を確かめながら熟考する→2,まだ見ぬ自分の価値観(=感覚)と目の前の出来事との整合性をたしかめながら熟考する(=曖昧ゆえ”感覚的”と感じがち)→現実化する。だから、えんしのの言う、”心で感じること・受け止めること”という判断はとっても大事やと思うし、10年後にはその”心で感じること・受け止めること”が”言語化できる確固たる価値観”となっているかもしれないしね!!それを見つけていくのが人生なんじゃないかなとこれを読んでて思ったぞ。
……(中略)……
③<就活で揺るがせなかった見通し:10年後に教員になる>より感じたこと
教員志望も俺と同じだ(笑)でも、今は俺にその選択肢はないんだよねー…だから、あと数単位で数学教員の免許取れるけど取らないことにした。理由はただ1つ。現状の自分の考えでは「自分が教員になる=教育現場の”根本”が変わるとは思えなかった」ということ。教育実習を通じて教育の現場には様々な問題があることを知った。だからと言って、俺が教員になる!!と言えなかった…俺は物理科ということもあってか、「根本的に何が原因なの?」って部分に目を向ける人間なんですよ^^;そこで、何が教育をダメにしているか考えた時に俺の行きついた答えが「しくみ」だったわけ。なので、”しくみ”を改善できない教員にはならないと”今は”決めた。でも、時が経ち、自分が変わり、環境が変わり、自分が教育界にできる価値提供というものがもし、見えたら教員になるかも。えんしのが教育についてどう考えているかもまた聞きたいわー!!
……(中略)……
最後に…
えんしのと喋った時の第一印象は『メチャクチャ理論的に考えそー』でした。これにつきる(笑)でも、ブログ読んで+α『アツい想いを持ち合わせている』と感じた。普通の人ってどっちか片方しかないと思うから、この2つ兼ね備えているのは素晴らしいことやし、一緒に働く俺としても学ぶ部分が沢山ありそうで楽しみだわ^^ではでは、長々とお話ししましたが、来年4月から仲間として、そしてライバルとして切磋琢磨していきましょう^^

ゆうに1万字を越える文章に、よくぞこれだけリプライをくれたものだ、と本当に感激している所です。彼も述べてくれましたが、すでにして良き同期に恵まれたと思います。同時に、仲間でありながらライバルであることは確かですから、彼の言葉をそのまま借りて、切磋琢磨をしていきたいと思います。

彼流の、物事の捉え方や価値観の捉え方は、また新たな気づきを与えてくれるものです。「10年後にはその”心で感じること・受け止めること”が”言語化できる確固たる価値観”となっているかもしれない」というのは本質的というか、結局就職活動でも「あの時は、きっとこう考えていたんだと思う」とか「あのときの経験は、今はこう評価できる」とか、そういう言語化は、後から後から行っているんだ、と思いました。私がよく引く山田ズーニーさんも、過去と現在と未来が一直線になっていることを図示していますが、「いまこのときの感覚」が過去のものになると、それを言語化した時に「価値観という軸」となるのでしょう。その感覚と言語化された価値観は、まったく同一のものだろう、と思うのです。

この議論は僕にとって、僕がなぜ教員という選択肢を取るのか、にも通ずる部分だと思うのです。確かに彼の言う通り、仕組みを作ることが教育において、全体を最適化する上で必要であることは僕も痛感しています。では、その仕組みをどこから創り出していくか。すでに現状、その手段は多様であり、教員というキャリアパスからも仕組みに関与できるという前例があることが、この考えを支えていますが、それ以上に結局、僕自身が確固たる価値観を築いて(気づいて)いった場所が学校である以上、今となって言語化することができるようになった「あのときの感覚」を、僕は子どもたちに身を以て伝えたいと思うのです。

僕が大学時代に身を投じた、イルミネーション湘南台を手伝ってくれている高校生の、AO進路相談にたまたま昨日乗りました。そのなかで、自分と向き合ってもらうためのインタビューを深めていった所、その高校生は突然泣き出してしまいました。でもそれは、僕にキツく言われたとか(そもそも厳しくは言っていない)、悔しいとか悲しいとかではなかったそうです。ただ、自分を過小評価してしまうほど自分が嫌いで、自分を過小評価する自分自身が嫌いで、それを僕に指摘されながらも、でも自分の周囲にいる人は自分のことをちゃんと見ていてちゃんと評価してくれているということに気づいて泣いていた、と言いました。僕は、そういう瞬間に立ち会うと余計に、自分自身が人にちゃんとぶつかって、それを仕組みに活かしていきたいと思うのです。

「今、この時の感覚」に気づくこと、それを後から振り返って「価値観」とすることは、僕自身においてもこれから起こしていきたいです。それが成長だと思うから。そして、その成長の営みを、他者が体験できるようにすることも起こしていきたいです。そういった日々を過ごす上で、「探究する」営みを常に繰り返しながら、真実を見つけることと、そこからストーリーを紡ぎだすことを訓練していきたい。リサーチの会社に僕が身を置くことの意味は、そこにもあるのかもしれません。


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