陸前高田市は箱根山。そこにある宿泊施設の「箱根山テラス」で行われた「箱根山学校」というワークショップに参加した。たぶん、ワークショップという言葉が最も適当とは思えないのだが、しかしその言葉以外に平たく説明することができない。ただ、何かを感じ、何かに気づくための、日常を離れた4日間であることは間違いない。
そんな箱根山学校での気づきの記録。4つ目は、アクションを起こす人に対する自分の捉え方の自問自答。
そういえば子どもの頃からの処世術は、学校の偉い人に取り入ること、気に入られることだった。割とそうすることで動きやすいと感じることが多い気がしていた。たぶん今日、無意識ながら、そういう取りいり方をしようとしていた自分がいたのかもしれない。
あの輝いて見える人に近づきたくて、だから気に入ってもらいたくて、だから顔を伺う。なんとも不自然な感じ。またこうして、気持ちの悪いことに気がついていく。どうせ治さないくせに。
成果として輝いて見える何かを出している人には憧れて、それを自分の意志で進めている人にはもっと憧れる。フリーランス、つながりで仕事をもらう・つくる、そんなこと俺にはまだできないし、やったことがない。ダイジだと思う想いをきちんと持ち続けて、そこに踏み出している人には、どうしても「変な憧れ」を持ってしまう。おそらくそこには二つの意味があって、一つには嫉妬を含んだ憧れであるということと、もう一つには、きっと自分もああなれる、という自信が混じっているということと。でも明確に違うのは、実際に動いているか否かである、ということだ。そこが足りていないということを自覚するにつけ、多少なりとも絶望を覚えてしまうあたり、開き直れたほうが楽になるのにな、とさえ思えてしまう。
意外だったのは、ファシリテーターのひとりである西村さんが「なにを(やるか)」で迷った時機もあったし、西村さんが印象深いと言った出会いに挙げられた人々が「なにを」に重きを置いていないことだった。それでもなお、そうやって西村さんから「認められている」人々を見るにつけ、自分もそうなりたいと思ってしまう、そのエゴがあるうちは、どうせ大成できないことなんて分かりきっている。分かっているけれど、この感覚はどうしたってつきまとってくる。まだ若いから、そう思うのも仕方ない、ということにしておこうか。