陸前高田市は箱根山。そこにある宿泊施設の「箱根山テラス」で行われた「箱根山学校」というワークショップに参加した。たぶん、ワークショップという言葉が最も適当とは思えないのだが、しかしその言葉以外に平たく説明することができない。ただ、何かを感じ、何かに気づくための、日常を離れた4日間であることは間違いない。
そんな箱根山学校での気づきの記録。5つ目は、Social Good Actionをしている自分への戒めとして。
とある水先案内人が使ったことば、というか他人から言われたという「ソーシャルマント」ということばは、たぶん自戒のもとに持ち帰らねばならないことばだと思う。加えるならば、実はその彼のスタートも、ソーシャルな成果を出すことによって自分の承認欲求を満たすことだった、ということを聞いて、「あ、そんなもんかね」と思うと同時に、それにホッとした自分に危機感を覚えたのも事実だった。
自分がprayforjapan.jpで体験したのは、支援したい人へのプラットフォームの必要性、すなわち「何かしたい」という気持ちを受け止め、「何かした」という認識で自らを落ち着かせることのできる受け皿を作ることの大切さであった。でも結局、見方によってはこの「何かしたい」はエゴであり自己満足だと思っている。本当に「ありがとう」を生む、いや、そうでないにせよ、成果を生む仕事は、そのエゴの先にあるはずで、乗り越えればならないとは分かっている。けれど、捨てるのが怖いとさえ思えるほどの、拠り所となってしまう。できれば身を飾っていたいし、そうでないと不安に思える。
ただ今日、やや安心できたのは、そうしたエゴが故にマントをかぶっているということに、自分が自覚的である、ということであり、気づかぬうちにマントを羽織って気持ちよくなっているだけのフェーズではない、ということだ。おそらく、これから「参画」する人々に対して、その自己認知をもて、というのは流石に酷な気がする。せめてその、ソーシャルマントと自分のエゴの交わる中に、あることに気づいていながら、それを戒めつつも逆に原動力にして、コトに当たるしかないんだ、と思った。