おもんぱかって、つきすすむ – 「この状況で」への葛藤

分散登校が始まる週になるまでもう少し。自宅のリラックスチェアに腰掛けて、仕事をするでもなくMacを膝に置き、ものかきに耽る。こんな心落ち着けられる土日を過ごしていていいのだろうかと思う部分がある。世間は大変なのに。

「世間は大変なのに」

正直、その感覚から離れてしまっている自己認知があって、後からそれに気づいて自分にげんなりする。それが、日に日に増す。慮りが足りていない自分自身への嫌悪と、だからといって何かができるわけでも何かをしているわけでもない自分自身への嫌悪と。

せめてこうして書き記すことで、碇をおろし、いまここを見つめ、結局灯をともせるように、すこし「ぐるぐる」としてみよう。


慮る、という表現が好きだ。

読みは「おもんぱかる」だ。漢字のよみがななのに、半濁点がつくのがいい。しかもそれが「ぱ」という音なのもいい。どうでもいいが昔、「答えがパピプペポ」というアイスブレイクゲームをやったことがあるんだが、それくらい「ぱ」には、愛おしさを感じる。

思い遣る、に近い表現だが、ちょっとニュアンスが違うようだ。「思いを、遣る」。遣隋使とか遣唐使の「遣」を使う。さながらそれは、英語でいうところの前置詞 to を思い起こさせる。自分の「思う」を、相手の元に届けるというのは、その瞬間、自分のことではなく、相手のことを考えているので、良いことなんだろう。

慮る、は辞書的に言えば、「あれこれ思いを巡らし、深く考える」とか「周囲の状況などをよくよく考える」とか、そんな表現に行き当たる。ありがとう、Google先生。

それでいえば、あれこれと考えて勝手に「ぐるぐる」することは、ままよくある。しかしどうしても、あるときに得てしまったひらめきに対してつきすすみ、結果「周囲の状況などをよくよく考える」ことなしにアウトプットをひけらかしてしまうこともまた、ままよくあるのだ。昨今、そういうのが多い。

今、お給料をもらう方の仕事で一つ、ボランティアで関わる方の仕事で一つ、企てごとを走らせている。どちらもなんというか、点と点が結びつくような感覚を得るできごとがあったりして、その度に「面白い」と感じて先に進もうとしてしまう。「面白い」は「面が白い」と書き、光が顔に当たるくらい、前を向いていることを表すらしい。その時僕は、周りが見えていない。


お給料をもらう方の仕事で走らせているプロジェクトでは、4月当初から種々の計画と相談と交渉を重ね、話が前に行ったり止まったり、右に行ったり左に行ったりして、休校で生徒が来ない中ながら、生徒の学習活動の企画にもかかわらず、生徒より先に教員が探究をする、という構造にあいなった。それもひとしきり形が見えてきて、その計画の道すがらで思いついてしまったとある企てに、僕の頭はフル回転になった。

実業家へのアプローチを2件。その一方からは、企画書を絶賛いただき、Facebookへのタイムライン上でベタ褒めをしてもらった。嬉しくないはずがない。これは絶対に成功させたいと思う一方、一定存在する「ポシャる」リスクに対して、もしそうなったらがっかりさせるかもしれないという恐れも抱いた。

もう一方からも連絡があり、前向きに検討してもらえることになったが、なにせ相手がビジネスセクターだ。私が企てを思いつき、どうしてもご協力を乞いたい相手は、今全力で、社員と取引先と顧客を守るために必死のアクションを起こしている最中だった。「だから少し時間をください」というメッセージを受け取った時に初めて、「あ、そうか」と思った。

ボランティアで関わる方の企てごとは、まさしくこのコロナの影響を受けることで、存続が危ぶまれる取り組みをなんとかして繋ぎ止めるためのアクションだ。その取り組みは僕にたくさんのものをくれた、かけがえのないもので、しかも大学生時代に関わりを持ち、期せずして今になってまた再び縁を紡いだ取り組みだった。物心がついてから、数回しかない「感動の涙」も、そこで生まれた。

だからこそ余計に、「なんとかせねば」という気持ちが入り込みすぎたが故に、あるいは、「自分が大事だと思っている気持ちはみんなも同じはず」と思い込みすぎたが故に、協力をお願いする相手に対し、それはたとえ仲間だと思う存在であったとしても、本来かけるべきであった「あなたの今の暮らしが心配です」という配慮を欠いてしまった。後から、「あ、そうか」と思った。


書き出してみると新たなことに気づく。「配慮」とは、おもんぱかりを、くばる、と書く。あなたについての状況をよく考えていますよ、というのを、手渡すがごとく差し出していくことだ。そら、前しか向いていない状況じゃそれはできない。もっとも、おもんぱかれば、どうすれば受け取ってもらえるように差し出せるか、なんて考えるのは容易かろう。まるで僕は投げ逃げみたいなもんだ。

何に対しておもんぱかるかといえば、それぞれがいまこの状況において、いちばんに考えたいと思うことが何なのかについて、だろう。しかしこう、立場と状況と、そこからくる日々の営みとは、なんとまぁ、その「相手の状況」についての想像力を減衰させるものか。おかれた状況が違う相手は、私と同じ状況にはない、という当たり前のことすら、見失う。えんしのめ、なにが「わたしとはちがうあなたと、いっしょにうまいことやる」だ、自分のばかやろう。

これまた人によるので、同じ職業でひとくくりにはできないのだが、公立学校の教員という職にある僕は、いまのところ給与や仕事を失う心配がなく、それでいて今年の2月まで続いていた忙しさに比するとびっくりするほど稼働時間が短くなっていて、「仕事してる」という感覚に乏しかったりする。いや、仕事はしている。しかし、明確な根拠がないんだが「これでいいんだろうか」と思ってしまう部分がある。

確かに、2月末の突然の休校発表は驚いて、そこから3日間は忙しさを感じた。4月に一度学校再開を果たし、その3日後にまた休校になる、その時もバタついた。けれど多くの人から寄せられる「先生も大変でしょう」という言葉に対しては、本心から「全然です」と答えてしまう。その「全然」と感じていた間に、実体経済がみるみるしんどくなっていった。僕はなんというか、蚊帳の外、いや、ある意味で「蚊帳の中」だった。のんきなものである。


その「のんきなものである」ということを、認識していないまま、僕はその多動性と好奇心が故に、いまの状況を斟酌せず、平時の時と同じテンションで、企てごとをしてしまっていた。あまりにその妄想がとまらないもんで、自分への戒めも込めて、何かが思いついた折には同僚に「すいません、今脳内がワンダーランドなんです」なんて自己卑下をした。平時ならワンダーランドを楽しめただろう人も、この状況では「自粛願いたい」となるやもしれない。

昔からエゴが強い僕は、クライシスにおいてより、正義感をたぎらせてしまいやすい。休校前の年度最終授業が際たるもので、あんなもん言いたいことを言い放っただけでしかない。このコロナの状況はどこか、東日本大震災の時にオーバーラップする部分が自分の中にあって、「何か動かなきゃ」という衝動が、あのときほどでないにせよ、ちょっとずつ積み重なっていくのを感じる。それもあって、おもんぱかることを忘れているのかもしれない。

一つの事実として、あの時は学生で、今は公務員で、自分の生命への危機がない状況にいる。だからさっき「蚊帳の中」と言ったわけで、そんな立場の人間が何かの企てをしようとしても、それどころじゃない状況に置かれている人もいるわけである。そんなところに「ワンダーランド」を打ち込んだところで、「はぁ?」となるのが関の山だ。そしてその実、何もできていない。


ああ、でもやっぱり、成したいことがあるみたいだ。仮に今が平時であったとしても、それは成したいし、しかしそれ以上に、このコロナ禍が故に、より成したいみたいだ。

先週だったか、大学時代の仲間とZoom飲みをしたとき、往時には「我先に」と、どんどんとアクションを起こしていったその彼が、この状況下においてリモートワークになった時間を使い、オンライン英会話を頑張っていて、でも「あのころの自分」と比べたり、「あのときの仲間の今」と比べると、何もアクションをとれていないと思い至ってしまい、葛藤しているという話を聞いた。すごくわかりみが深かった。

僕は彼に、こんな話をした。

僕は、高校時代の部活の顧問が教えてくれた、ノブレスオブリージュという言葉が好きで、それは僕なりには「持てるものの責務」という言葉だと解釈している。あなたは、様々な巡り合わせの末、今の会社・今の立場にいて、そしてこの状況を迎えていて、そのなかでできることは、能力的な面でも動機的な面でも、決して無限ではない。そのなかで、今自分がやっていることが、後の価値創造と価値還元につながるんだと、そう解釈しているのがいいんじゃないか。

思えば彼には、周りの状況への「おもんぱかり」があり、それが故に葛藤に苛まれていたんだと思う。自分が彼に投げかけた言葉を、自分にも投げかけてやろうとしたが、「おもんぱかり」の有り無しでいえば、出発点が違ったと、今気づいた。

そう思いながら、しかし僕なりに「おもんぱかる」に、やっぱり成したいと思うことを成したいようなのだ。それはともしびみたいなもので、それによって、「彼ら」のツラを前に向かせたいのだ。

みんな大変だ。だから、ともしびの渡し方には、火であればなおのこと、工夫が必要だ。それでも僕は、前に進むためのともしびになる企てがしたい。そういう役割でありたいみたいだ。

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