最近の「ゆるやかな生きづらさ」について:②交流会での初対面が苦手

「生きづらい」ということばが、さまざまなところで聞こえてくる世の中になった。それまでの世の中では顕在化しにくかった、あるいは、表出させづらかったさまざまな「生きづらい」を、世に放っても受け止めてもらえるようになったのかもしれない。あるいはそもそも、世の中に発するための方法が多くの人の手に渡ってきた、とも言えるかもしれない。

しかし、依然として「生きづらい」というのは、大きなもの・深いものと捉えられるように思えていて、そしてその「生きづらさ」に対してさまざまなラベリングがされるようになってきたが故に、そのラベリングにハマらないものは、かえって「生きづらい」というには及ばないようにも思える。きわめて個人的な、うっすらと感じる「生きづらさ」を発することが、かえって申し訳ない、と思うほどに。

しかし、いかにそれが、うっすらと感じる「ゆるやかな生きづらさ」であったとしても、自分にそうした感覚があることには違いなく、その「ゆるやかな生きづらさ」を、どうにかやりくりしながら、それでもなんとか生きている。共感してほしい、というよりも、自分はただ、そうした「ゆるやかな生きづらさ」を、受け止められる存在でありたいと思うが故に、ただここに、吐き出しておきたい。

そんなシリーズ。2本目は「交流会での初対面が苦手」という、「ゆるやかな生きづらさ」について。


人見知り人脈おばけ。

こう自分を表すると、大抵の人からは「おかしい。矛盾がすぎる。」とツッコミを受ける。しかしこの記事でも書いたとおり、これまでにいろんな人との縁を紡ぎ、人脈を形成してきたくせに、その初動の部分においては人見知りを発露させてしまう。自分でも思うが、なんともめんどくさい人間である。

Facebookのフレンドは、ついぞ2800人を超えた。3000人も目前である。しかし、誰彼かまわずフレンドリクエストをしているわけではない。いや、これには少し語弊があって、「最近は」直接お会いした人をベースに繋がるようにしていて、「確かにこの人とは直接会った」という場合でもリクエストをいただいたら承認とともにメッセンジャーで一言送るようにしているし、反対に「この人はどこで会ったっけ」という人からのリクエストの場合には、メッセージがない場合には承認しないようにしている。自分から申請リクエストを送ることは、実はかなり減った。

ただ、Facebookを使い始めてしばらくの間は、誰彼構わず会えば申請したしリクエストも承諾していた。それが顕著だったのが、就職活動・ソーシャルグッド系活動・人事系の集まりだった。そういう場では、割と情報交換的な交流も多く、また集まる人たちの「つながりあうハードル」が低いこともあって、メッセージのやり取りを介さずにフレンドになったはいいが「そういえばこの人はどこで会ったっけ」というのが思い出せなくなるということに見舞われもした。

そうして気がつけば、3000人のフレンドとの繋がりを紡いできた、というのが目前に迫ってきた。それは一定、私が「つながりを紡ぎながら前に進んでいく」ということをしてきた証でもあるし、また元来ソシアルな人間であることの証でもあると思う。加えるならば、そうした繋がりを、自分はできるだけていねいに扱ってきたつもりだ。それでこれだけのご縁に恵まれるのもありがたいことである。

しかし、そうした縁を紡ぐ場として、割と多い回数出向いていたはずの「交流会」と称されるような場に対して、もっと言うと、立食形式による多人数のコミュニケーション場面に対して、自分は割と苦手感を覚えており、スムーズな身のこなしで名刺交換やカジュアルトークを交わしている人たちを見ると、すぐさまそうした人たちに「陽キャ」というレッテルを自分ではってしまい、その対極として自分を「隠キャ」とラベリングしてしまう。


人事ごった煮という、長く続く人事のコミュニティがあり、イベントが開催されればしょっちゅう顔を出し、運営じゃないのに運営みたいな動きをする、ということをしてきた。スピンオフにあたる、箱根での合宿企画や、宮古島での交流会(3回行っており、1回目2回目3回目とも振り返り記事を書いている)にも出向いている。そのコミュニティで交わされる、人事にまつわる当事者のさまざまな悩みや最前線の知見を得られることにワクワクするから出向いているのだが、その後に待ち構える食事やお酒を交えた交流の時間になると、とたんに動きが鈍くなる。

まず、自分から話すネタに困る。自分で言うのもなんだが、旺盛な知的好奇心と元来の真面目さが故に、人事コミュニティのなかであれば、仕事・人事・キャリアにまつわる話は、かなり面白がって食いつくし、自分も自分で話せる・話したいネタがあって、捲し立てて情報を提示することはできる。しかし、そういった真面目な話ばかりが交わされるかと言えばそうではないわけで、そんな場面に遭遇すると、途端に話すネタに困ってしまうことが多い。

立食形式の交流会のしんどいところは、すでに話が行われている輪の中に入り込むことや、ある程度のところで話の区切りをつけてその輪から出ていくところにもある。互いの素性があまりわからない状態の中で「あの人と話したい」と思うフックを探す方がむしろ難しいわけで、その手がかりがない状態なのに輪に入っていくことも難しければ、話の切れ目を見つけて次に移るということもなかなかにしづらい。その場で話をしている目の前の人の話に関心を示していないようにも思えて、それがしんどい。

そういったこともあり、私が「ごった煮」で編み出したのは、自分に話しかけてもらうようにする工夫だ。初期の「ごった煮」には、ライトニングトーク枠という、運営が用意したプレゼンター以外に、プレゼンをすることができる枠があった。自分は元来、発信したがりな人間・聞いてほしい人間なだけに、自分がプレゼンターになれば、それをフックに向こうから話しかけてくれる、ということを期待した。その期待は見事に的中し、その結果として、人事コミュニティのなかでの人の輪の広がりを得ることができた。こればかりは感謝しかない。

先日も、「ごった煮」の忘年会的交流会に参加してきた。そこで運営のお一人が、

自分は交流会の時にどうしても輪に入って話しかけるのが苦手だ。だから、卓を囲んで宴になって話す時は、誰かが入ってきやすいように、輪の一部を開けておきましょう。

と言っていた。名付けてパックマン形式。秀逸なアイディアであると共に、ある種自分と同じような感覚を持っている人がいたことに安心感を覚えた。そこでは、「今年のチャレンジ」をテーマに話す、というルールも提示されていたので、いくぶん円の移りかえもしやすかった。

そもそも、「ごった煮」が、まだ自分にとって居心地がいいのは、「人事」という共通のテーマがあるからである。仕事や課外活動など、ある種の目的が存在するコミュニケーションにおいては、初対面であろうが心地よく相手とコミュニケーションを交わすことができる(そうでなければ人事職として面接や面談などできない)。「人事交流会」はある程度、そうした「目的的」な会話ができるからまだ安心だ。問題は、そうした文脈がまったく見当たらない場面である。


その意味では、ソーシャルアパートメントでの生活も、いまでこそかなり馴染んできたが、この記事を書いていたころは、それはもうしんどみしかなかった。夜になれば酒を交わす人たちが多いリビングの中で、酒を持たずに・力を借りずに(むしろ酒を飲んだらコミュ力は減衰する)盛り上がる輪の中に入っていくことは至難の業でしかない。その上、各自の仕事や生活の文脈がてんで異なる状態のなか、しかも時間帯的には「オフ」になっている状況で、合わせにいける話題のレパートリーに乏しいと考えている自分には、なす術がなかった。

友達が主催する食事会やバーベキューに参加する、といったシチュエーションなんて、そのしんどさの最たるものである。実は今年の夏、数人の知人がいた食事会に誘われて出向いたのだが、誘ってくれた数人の知人は、その会に参集した人たちのハブとなる人たちであり、つまり私との縁以上に濃い・太いつながりを持っている他の友人を招いている以上、コミュニケーションの結節度合いが私以外の方が太い状況だった。回りくどかったので端的に言い換えると、私が頑張ってコミュニケーションしなければならなかった。

そんなにしんどいなら行かなきゃいいじゃん、と思うだろうが、誘ってくれた手前、それを無碍に断るのも、相手に悪いと思うのと同時に、いやそれ以上に、しんどくなることがわかっているくせに「人見知り人脈おばけ」なので、人脈が作れるかもしれないというところにはワクワクしてしまう。そこは、自分自身で大変めんどくさい奴だなと思っている。しかしやはりいざ行ってみても、話題が合う感じも乏しく、だから自分を発信しようにも相手から引き出そうにも、フックになるとところが見つからないから、困る。

どの状況を指してそう定義するかはいったん置いておき、私は人生で「合コン」なるものを2度しか経験したことがないのだが、どちらも、なんとも生きた心地がしなかった。どちらも1社目の同僚にひっついて行ったのだが、よくもまぁその周りの同僚たちは、容易くコミュニケーションを交わせるものだと思いつつ、そういう場面で交わせる「カジュアルな」コミュニケーションの引き出しのなさに、自分で絶望を感じたのをよく覚えている。


思うに、自分には「一般的な」「マジョリティ」との「ずれ」のようなものがあると自分自身で感じており、初対面場面ではふつう共通項を探りにいくことによって安心したコミュニケーション行為を構築していくことが多いことに反して、その「ずれ」が相手との間に大きく横たわってしまうように感じて、不安を覚えてしまうようだ。この経験がどこか、「私の話はわかってもらえない」「相手の話を分かることができない」という認知に動いてしまっているのかもしれない。

自分で言うのもなんだが、私は知的好奇心が旺盛で「知っている」ことの幅も偏りはあれど広く、そのこともあり、自分と相手の「ずれ」において、相手側にあって自分にないものを「へぇ」といって引き出していくことは得意だと思っている。他方、その「ずれ」が故に、「おまえは変な奴だな」と言われてきたことも多く、それを好意的に受け取れることはあっても、「変な奴」というブランディングを自分で意識的に用いていない時に「変な奴」と言われると、相手に受け入れられていないと感じてしまうことがある。大変こめんどくさい自意識だ。

最初のうちはできるだけ「ふつうの奴」と思われるように振る舞おうとしながら、その実「ずれ」が大きく横たわっていることに気づいてしまい、そこに自信を持てなくなって、結果的にコミュニケーションに踏み込めない。そんなことに苛まれているうちに、いつの間にか、「経験による慣れで克服をしてできるようになっていく」ということから、敵前逃亡してしまっていたのかもしれない。

そんなわけで、今日はこれから「教育系大忘年会」とやらに出向くのだけど、正気を保っていられるかどうか、不安になってきている。


これを書くことによって、慰めてほしいわけでも、叱咤激励されたいわけでもない。自分でこうして書き出すことで、昇華させたいのだ。所詮は「ゆるやかな生きづらさ」という、明確な主張をするには至らない、淡い感覚でしかない。ただ、どこかには同じような思いを抱いている人がいて、「あぁ」と重なる部分が少しでもあって、同じく昇華されるところがあれば、ただそれでいいのだ。

「ゆるやかな生きづらさ」にあって、それでも、生きていく。僕の生き方というのは、そういうものなのだから。

<予告>
③「趣味は?」という質問の答えが見当たらない
④もやついたときの相談を友人に吐き出せない

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