ワニが死んだ。僕は時々「死にてぇ」と思っていた。

ワニが死んだ。

とっても優しいワニだった。でも、ちょっとした勘違いやすれ違いで、気を揉んだり不安になったり違う自分になろうとしたりした。けれども、そのままの彼であることを周りも認めたし、彼もありのままに振る舞いながら、未来に希望を持っていた。

でも、そのワニが死んだ。

わかっていたこの結末を、しかし儚さをもって見つつ、生きることの尊さを感じる。しかしながら一方で、僕には時折「あぁ、死にてぇ」という感覚を持つことがあって、いつかはそのことについて書きのこそうと思っていたけれど、それが今な気がした。

職業柄、憚られることは分かっている。けれども多分、こう感じている人は、きっといるんだろうと思いながら。


それは、一人になった時とか、何か失敗した時とか、夜の帰り道とか、ふとした時にやってくる。それは、たいがい途切れ途切れで、一回一回は長続きしない。また僕の場合、不思議なことに、そんなに深刻な形でやってこない。深いため息を伴うのではなく、なんというか「あーあ」みたいな感じ。

例えるならそれは、雲間から光の差し込む天気雨のようなものだろうか。あるいは時折、ずんの飯尾さんのギャグ「平日(月曜)の昼間からゴロゴロォゴロゴロ。あ~あ、なんでも10円で買えたらなあ」の、「あ〜あ」以降が「死んじまいてぇな」に置き換わった感じで現れもする。最後に笑い飛ばしを含む感じで叫びたい、そんな時のセリフでもあったりする。

頻度もまちまちだが、これまでの人生で平均すれば週に1回くらいは押し寄せてくる感覚だ。最近はそれでも少なくなった方だが、年齢が今より若い時の方が頻度は多かったと思う。いつから、と明確にできるわけではないが、少なこともこのブログと同じ年数分くらいは、この感覚と同居してきている。

ただ、一度も現実になっていないし、現実にするつもりもなかった。だから、そうなる自分のシナリオを想像することはあっても、現実の行動に及びそうになる程までに至ったことは一度もない。シナリオを妄想し、なんなら自分の葬儀の様子すら妄想している。それは何を意味するかというと、「死にてぇ」とか言っておきながら、生きることに執着している。

そう、生きることに執着しているから、ここで言う「死にてぇ」は、「死にたい」とは違う。本当に死にたいとは思っていない。案外、語尾が大事であって、「たい」という願望の助動詞の正しい用法ではなく、それがスラング化した「てぇ」というのを使っており、それくらいカジュアルな感覚でしかない。

なので、自分では「こころの健康相談統一ダイヤル – 0570-064-556」の対象ではないと思っている。「それは表層真理であって深層心理では…」とご心配いただいても、仮に深層心理で死にたがっていたら、今頃生きていない。15年くらい、こういう感覚と付き合ってきたわけで、だとするとこれは、ただ言っているだけの「ファッション」なのかもしれない。

そう。僕はただ、なんとも言葉にしにくい自分の在りように対するもろもろの気持ちを的確に短く表現できる言葉に出会わないが故に、極めて観念的な用法で「死にてぇ」という言葉を使ってしまっているだけに過ぎない。「なかったことにしたい」とか「はずかしい」とか「もっとうまくいかないもんかな」とか、そういう感情が混ざった結果だ。

たださすがにこの「死」という言葉を、おおっぴらに感情をダダ漏れさせるTwitterに吐き出すのは、周囲に心配が及ぶという点で憚られたので、ある時「カジュアルに消えたい」という表現を用いて代替したことがある。それは思ったよりも共感を生んだようにも思えて、僕だけじゃないんだろうと思ったことがあったことを思い出す。

「死」というのは、やっぱり強い言葉だと思う。人を傷つける事すら容易であり、また人を深い悲しみの淵に立たせてしまう現象でもある。本来はとても気をつけるべき、不用意に発言すべきでない言葉だと分かっている。けれど現代において「死ぬ」という言葉は、「生命活動の終わり」という原義以上の幅広さを持って用いられることが多い。

死のリアリティが全くないわけではない。大きな出来事といては、2016年の父の他界があるが、遠からず近からずの存在として、たとえば小説家の奥山貴宏さんだったり、世話になった研究者だったり、そういう人の死という現象が思い出される。そういえば、件の奥山さんは、2020年4月7日で死から15年になる。

LAST EXITを読んで

でも今の僕には、今までの僕には、生きることはあまりにも当たり前のことすぎて、しかしその生きることは下手をすると死ぬことよりもしんどさをはらむように思えることもあって、だからそれこそ「リセットボタン」を押すかのごとく、セーブポイントから今現時点までを、なかったことにしたいような感覚に襲われることがある。

そして僕は、この僕の抱える感覚に、近さを覚えるという人を何人か見てきたことがある。しかしその人たちが抱える、僕と同様の感覚は、どうやらその人たちの周囲からはあまり受け入れられていなさそうな様子でもあった。「くらい」「ネガティブだ」という言葉で、禁忌だといわんばかりに、分かってもらえない感じ。

だから「カジュアルに消えたい」という表現が受け入れられたんだと思う。でもその表現よりも本当は「死にてぇ」という表現を使った方が、より自分の置かれている感覚に近くて、でもそれは原義的な「死」とは違っていて、そしてその表現の強さが故に表に出しにくくて、だからより分かってもらえなくて、というのに苛まれているのは僕だけじゃなかったはず。

そして、その感覚を持つものには、明確な理由を説明することはできない。「理由」というのは理性=頭のことであって、感覚とはつまり心のことであるが故に、心に湧き上がったことに理由をつけるなんて野暮ったいことはない。最近も知人が「メンタル死んだ」とのことだったので理由を聞いたら、「いつも予兆や理由なんてない」と言われた。

職業柄よく、学校に行けないとか、行けていてもいろいろしんどいとか、そういう話を聞く。そして、その現象の理由を探ろうとする。でも思った。そこで探しにかかる理由は、対処にかかる我々が現象を認識して納得するためのロジックでしかなく、当の本人には理由なんてものはないんだ、と。原因と思しき事柄に対処療法をしても実は意味がない、と。

たぶん、「死にてぇ」と叫びたくなるとき、僕はさみしくなっているんだ。大丈夫だという声が欲しいんだ。その感覚が沸き上がるときの状況からすると、たぶんそういうことなんだと思うことにする。その当事者である僕が、同じような感覚に苛まれた人を目にした時、できることといえば「わかりみ。できたたら、もう少しくわしく」と言うことかも。

ワニは死んだ。あの心優しいワニが死んだ。あれだけ生きることに前向きになり、日々の楽しさと希望とをいだいていた、これからだというときの、あのワニが死んだ。でも100日の間できっと彼は、「ああ死にてぇ」と、もしかすると思ったかもしれない。でも自らその決断をすることはなかった。結果、とても儚い形で、ワニは死んだ。

「わかりみ。できたら、もう少しくわしく」と聞けば、本人としてもよくわからないながらに、理由めいた、心の中のことを語ってくれるかもしれない。僕はきっとそれに対して、同意も否定もしないし、慰めも元気づけもしない。ただただ、「そうなんね。まぁ、僕は君に生きて欲しいと思うけどね」と言うだろう。僕がワニに期待したように。


追記

知人にこれを読んでもらって感想をもらい、改めて反芻をした。僕は教員という職責上、子どもたちのみならず、同僚や地域の人々の命を守ることは、求められていることであり、同時にしたいことでもある。でもそれと「死にてぇ」に類するような、しんどさによりそうこととは別のことであって、わかりみをもって寄り添うために、「死にてぇ」を許容することは間違いじゃない気がする。

たまたまちょっと前に手に取った、『雨の降る日は学校に行かない』という作品を読んで、胸が締め付けられる感じがした。あの、リアリティあふれる作品の中に出てくる中学生たちの、理由なきモヤモヤ・しんどさは、リアリティじゃなくてリアルなんだろうと思う。そういう感情を、抱きしめられる存在でありたいと思っている。

さらに追記

はるかぜちゃんこと春名風花さんが、こんな投稿をしていた。

僕の出来る事には限界があるから、一緒に死んであげることは出来ないし、無限に話を聞くことも出来ない。でも、過去に声をかけたほとんどの人が、僕を死の淵に引きずりこもうとしたという事は、それだけ「生きているのに、寂しい」のだと言うことでもあり、こうなってしまうまでその寂しさを耐えてきた子たちのこれまでの人生を考えると、胸が苦しい。死にたい人間は限界まで追い詰められているので、近づく人を飲み込んでしまう。「一緒に死んで欲しい」を「一緒に生きていきたい」にする事はなかなかに難しい。わかるよ。誰だって死ぬ時はひとりぼっちだけど、ひとりで死ぬのは怖いもんね。

そうだな、と。上記引用は一部だけれど、「死にてぇ」の温度感は人によって違う訳で、観念的な「死」から、実際的な「死」に移行してしまうのは、本当に紙一重かもしれない。はるかぜちゃんはこうも綴っている。

みんなに声をかけて欲しい。ひとりじゃないよと。来年も再来年も満開の桜を一緒に見よう。また今日も、幸せな人にも、そうでない人にも、同じように平等に朝がきて、同じ1日が与えられる、それが生きているということ。外もあたたかくなってきた。ほんの些細なことで良い。エレベーターのドアを開けて待ってあげること、満員電車で潰されそうになっている人の壁になってあげたり、席を譲ってあげること、落とした荷物を拾うのを手伝うこと、無表情ではなく笑顔で接客すること…もしかしたら身近な人間関係がどうしようもなく苦しい人がその中にいるかも知れないし、その人は死ぬために覚悟を決めて外に出たのかもしれない。今日も一日、外で出会うどこの誰かも知らない人に、少しずつ春を配って欲しい。

ああ、これは、ワニくんだな。うん、これ以上は、ちょっと言葉が見つからないや。

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  3. 「ももさんと7人のパパゲーノ」を視聴して、ふと自分がかつて著した記事を読み返した。

    「わかりみ。できたら、もう少しくわしく」と、「死にてぇ」を抱える人の脇で言ってくれる人が増えたらいいなあと思っています。

    https://t.co/KQ2imry9Pa

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